第2話金城梨穂子は犬を飼うことにした

 声をかけると梨穂子を見たのは店員だけではなかった。グレーのつぶらな瞳の犬も梨穂子をじっと見つめていた。彼らには梨穂子が救世主のように見えたのかもしれない。


「もし、譲っていただけるなら私が飼ってもいいですよ」


「えっと。ちょっとこちらへ……」


 一連の騒動で立ち止まっている人が数人こちらを見ていた。思わず梨穂子は早くしないと誰かにこの犬を取られてしまうような気がした。犬など飼ったこともないのに。


「うーん……。この子、確かにうちから購入されていますがもう三歳くらいのようです。予防接種はしていたようですが、毛玉が多いし、爪も伸び放題だから散歩もまともに行っていなかったかもしれません。失礼ですが、この子を引き取る環境はおありですか?」


 男に押しつけられた封筒を見ながら店員が梨穂子に確認をとった。ケースから出されたグレーの犬はされるがままに店員に体を触らせていた。


「私のマンションは賃貸ではありませんし、小型犬OKです」


「そうなんですか!? 犬をお飼いになった経験は!?」


「ありません」


「え、ないのに、飼うというんですか?」


「ええ。犬種さえ分かりません。でも、目が合ってしまったのです」


「へ?」


「その子と目が合ったのです。だから、引き取ります。飼い方はネットで検索するし、貴方に教わります」


「あの……あの男の人が僕にこの子を押し付けたのを見てかわいそうに思ったのかもしれませんが、生き物を飼うというのは責任が伴うのです。現にこの子の飼い主も購入するときはちゃんと死ぬまで責任を持つと言って購入された筈なんです。生半可な気持ちでこの子を引き取ると、またこの子は飼い主を失ってしまいます。偶にいるんですよ、転勤で飼えなくなった、同棲していた彼女と別れたから要らなくなったと手放しちゃう人が。あなたの申し出はありがたいですが、この子は僕が責任をもって引き取り手を探しますから……」


「私、転勤なんかない仕事です! 働いているから昼間はいないけど、定時に毎日帰れるし、独身で、寂しくて、でも家族になってくれるなら世界一その子を大事にすると誓います! この子と今日会えたのは運命なんです。私の家族になる為に出会ったんです。それなら一週間でも私に預からせてもらえませんか? 無理だったら貴方に引き取り先を探してもらっていいですから」


 そこまでして犬を飼いたいのかと思えば、そうでもなかった。けれど、その犬を見てから、なぜだかどうしても自分が引き取らないといけない気がしたのだ。


「……そこまでおっしゃるならトライアルという事で。この子が懐くかどうかもわかりませんしね」


 そこでようやく店員の膝に乗っていた犬を差し出された。梨穂子は慌てて犬を受け取る。そのぎこちない動きに店員が不安そうだったが、梨穂子の熱意に押されて抱き方を教えてくれた。


「ああ、お尻を押さえてあげてください、そう、そうやって抱っこしてあげてください。この子、凄く大人しいなぁ……」


 犬が梨穂子の方を見て鼻をヒクヒクさせた。


「なんかブルブル震えているのですが」


「怖がりなんでしょう。さすってやってください」


 恐る恐る梨穂子が背中をさすると犬の震えが止まってきた。そうして、梨穂子の指をぺろりと舐めた。


「思ったよりも上手くやって行けそうですね」


 その様子を見て店員がようやく梨穂子から警戒心を解いたように思えた。


「なんていう犬ですか?」


「ああ。プードルです。トイプードル。色はシルバーです。名前は……セラガルウィングってなってます」


「セラ……なんですか?」


「セラガルウィング」


「……名前って変えてもいいですか?」


「今、連呼してもピクリともしないのでいいんじゃないですかね?」


「それと、今年まだ病院に連れて行ってもらってないみたいなので連れて行かないといけませんよ?」


「この子、病気なのですか?」


「いえ、予防接種です。狂犬病も。あとフィラリアの薬もそろそろ……」


「え。そんなに?」


「言っておきますけどお金もかかりますよ。犬を飼うには」


「……」


 正直、お金がかかると聞いて梨穂子の気持ちがぐらりと揺らぐ、しかし、この腕の中の温もりはじっと疑いもせず梨穂子を見つめていた。


 ――人間の子供を養うよりはずっと安上がりだ。


 梨穂子はそう思ってこれからの出費を頭の中で計算する。大丈夫だ。学校や習い事なんて皆無なんだし、何よりただで梨穂子の家族になってくれるんだ。少々の出費がなんだというのだ。


「必要なものを揃えます。この子は、私の家族にします」


 梨穂子がどうしてそんな決意をしたのかは自分でもわからない。けれどその瞬間から犬は梨穂子の家族のように思えた。正体の分からない高揚感に包まれて梨穂子はなんだか一層犬が愛おしくなった。


 その後店員に聞いてケージや水入れ、餌、トイレとトイレマットと次つぎと購入した。店員は『トライアルって……』としり込みしていたが梨穂子はこの子と家族になることを決めていた。


「じゃあ、せめてこれは俺が運びますよ」


 店員は店の子に声をかけて車を出してくれ、マンションの中まで運び入れてくれた。その際、部屋の中が殺風景なのを驚いていたのを見て、梨穂子は『引っ越してきたところだから』と増える予定もない家具をにおわせておいた。


「何かあったら相談してください。俺も責任感じているので」


 弱弱しく見えたがなかなか頼もしいと思ったら名刺を見たら店長だった。


「色々聞くと思いますがよろしくお願いします」


 山波陽介というその男はその時やっと眼鏡の奥から笑顔を見せた。






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