第27話 取引成立
海空姉さんからだという封筒を慎重に開く。
中には数枚の手紙が入っていた。こちらも、海空姉さんの筆跡だ。
この手紙自体が床次さんたちのでっち上げということも考えられるが、海空姉さんの行動を見る限りは本物だろう。
読み進めながら、床次さんに質問する。
「ここに書かれているのは協議内容とのことですが、突き合わせても?」
「構いません」
「では、シュレーディンガーのチェシャ猫についてどこまでご存じですか?」
「おおよそのことは把握しています。怒らないで欲しいのですが、松瀬さんで実際に見せていただきました。また、白杉さんにはチェシャ猫の効果がないことも知っています」
「お二人とも、未来人なんですか?」
「私は未来人です。権堂は現在のところ一般人です」
海空姉さんとの協議中にチェシャ猫に襲われていない以上、床次さんは俺と同じく未来人の存在を知ったうえで未来人になっている。
チェシャ猫に怯えず協議を引き継げるってことか。
海空姉さんの手紙を読み終え、ため息をつく。
「そういうことですか」
海空姉さんの手紙には確かに協議内容が書かれていた。
床次さん、というよりは国に『ラビット』のサーバーを譲渡する。
さらに、アプリの更新プログラムを利用して現在の『ラビット』所有者、つまり未来人のスマホから強制的な『ラビット』のアンインストールを行う。
引き換えに、俺たち現在の未来人の安全を確約させるという取引だ。
アプリが消去されてしまえば、もう未来から戻ってくることはできない。『ラビット』についての情報を完全に隠匿することはできないが、国が占有することはできる。
この条件を引き出した海空姉さんは凄いな。床次さんたちにしてみれば、俺たち未来人を全員殺す選択肢もあるのだから。
「ご理解いただけましたか?」
床次さんが俺をまっすぐに見つめて声をかけてくる。
俺は小さく頷いた。
「協議の内容については把握しました」
海空姉さんにチェシャ猫をけしかけた理由も、それが海空姉さんの苦肉の策であることも。
床次さんがほっとしたように息を吐く。
「『ラビット』を複製されないよう、松瀬海空さんの記憶を本人の同意の上で消去しています」
「はい。手紙にもありました」
「白杉さんたちの処遇ですが、『ラビット』を破棄していただくことでこれ以上の干渉は致しません。我々としてもできる限り死者は出したくない」
以前の世界線でも、床次さんはチェシャ猫で倒れた明華と春を撃ち殺さなかった。本家への強盗に関しては被害状況が分からないが。
海空姉さんは、床次さんたちが死者を最低限にしたいと考えているのを見抜き、この取引を提案したのだろう。
「この条件以上に『ラビット』を知る人間を減らすとなれば、少なくとも、俺と迅堂春は死ぬことになりますね」
「えぇ、その通りです」
記憶を消されれば迅堂は自殺する。俺にいたってはチェシャ猫が効かないため、殺害以外に口封じの方法がない。
「白杉さん、あなたの存在が一番厄介だったんです。未来人であると判明した世界線から何度も戻ってきましたが、先手の奪い合いで最終的には大掛かりな舞台が必要になる。しかも、仕留めきれるとは限らない」
だろうな。
俺には遊園地で殺されかけた記憶がある。しかも、周囲には三人の未来人がいて、情報を得ることができる。
俺を追い詰めてもその情報を持って過去に戻る。
「私共からすれば、白杉さん、あなたこそがチェシャ猫だ。女王に殺せと命じられても、ついぞあなたは殺せなかった」
過分な評価だ。床次さんが知らない世界線では俺が何度も殺されている。
俺が殺されていなければ、海空姉さんが戻ってくることはなかったのだから。
床次さんはふすまの方にちらりと目を向ける。
「他にも、松瀬一族は手広く商売をやっていますから、この町の経済的な影響も考慮しています。およそ一年分の記憶が無くなっている松瀬さんを心理的にもサポートできるのは白杉さんだけだとも聞いています」
「それで、俺を殺すのは急遽取りやめになったと?」
俺と海空姉さんがいなくなっても、松瀬一族が即座に行き詰まるわけではない。
だが、広範囲に影響が出るのは確かだ。
俺を殺した場合、海空姉さんの心理的な影響も大きい。ただでさえ一年分の記憶を失って不安定になった海空姉さんが自棄を起こす可能性もある。
というか、海空姉さんが自棄を起こした場合が一番危ない。
床次さんは俺をまっすぐに見つめる。
「それに、私共は職業柄、松瀬さんの選択と覚悟に敬意を払います」
「職業?」
「具体的には伏せさせていただきますが、国防に関わらせていただいています」
自衛隊とか、公安とか?
俺たち、そんなもの敵に回してたの?
挙句にこんな取引を成立させているあたり、未来人がどれほど厄介かが窺い知れる。
床次さんが片手を俺に向けて出してきた。
「同意いただけますか?」
正直、これを結末として受け入れきれない自分がいる。
何かが妙なのだ。論理的には説明できない、漠然とした違和感がある。
松瀬家の血筋は負けず嫌いだ。俺や貴唯ちゃんはもちろん負けず嫌いだが、それ以上に海空姉さんは負けず嫌いのはずだ。
あの海空姉さんがこの結末に納得するのか……?
だが、実質的に詰みの状況から海空姉さんの記憶と引き換えに死者なしの状況を作り出している。
俺が考える限りにおいて、これが最善の未来なのだと思う。
俺は片手を差し出し、床次さんと握手を交わす。
「分かりました。『ラビット』入りのサーバーを引き渡します」
「ありがとうございます。立ち会わせていただきますので、行きましょう」
当然だな。サーバーからデータを移送されたら床次さんたちの目的は未達成になる。
俺は立ち上がり、床次さんと共に客間を出る。
控えていた二人のお手伝いさんが俺を見た。
「どちらへ?」
「海空姉さんの部屋にある自作サーバーをこちらの方に引き取ってもらいます。どちらか、一緒に来てください」
「……かしこまりました」
俺をここまで車で運んでくれたお手伝いさんが進み出る。
三人で海空姉さんの部屋に向かい、静かに扉を開けた。
ベッドで海空姉さんが静かに寝息を立てている。
遠慮したのか、床次さんは部屋の外で俺を監視しながら待っててくれた。
ラックに収まる自作サーバーを見る。
稼働中だったので終了の処理をしてから、ケーブル類を外して床次さんに手渡した。
「これです」
「確かに」
別の世界線でこの自作サーバー自体は押収したことがあるのか、床次さんは特に疑うこともなく受け取った。
客間に戻り、権堂さんと共に玄関から出ていく床次さんが不意に振り返った。
「私のスマホの電話番号をお伝えしておきます」
メモ帳に走り書きしたその電話番号を俺に渡して、床次さんは続ける。
「もしも記憶を失った松瀬さんがまた『ラビット』の製作を始めてしまった場合や他国からの干渉があった場合に、相談してください」
「分かりました」
「それでは、お元気で」
本家の敷地を出ていく床次さんたちを見送っていると、後ろから視線を感じた。
竹池のおじさんと父さんが俺を見ていた。
「終わったのか?」
「まだ全部ではないですね」
ポケットからスマホを取り出す。
画面のアプリ一覧から、早くも『ラビット』が消えていた。
実に、仕事が早い。
肩の荷が下りたような気もするが、それ以上に不快感がある。
「――お嬢様がお目覚めになりました」
お手伝いさんが廊下を駆けてきて、報告してくれた。
「すぐに巴様を呼ぶようにと」
「いま行きます」
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