第28話 外付け記憶容量=巴

 部屋を訪ねると、海空姉さんはパソコンを操作しながら唸っていた。


「海空姉さん、大丈夫?」


 声をかけると、海空姉さんは肩越しに振り返り首を横に振る。


「大丈夫なものか。状況がさっぱりだ。どうやら、一年分の記憶が飛んでいるらしいことは分かったけれどね」


 お茶が欲しいというのでお手伝いさんに用意を頼み、俺は定位置になっているクッションに座る。


「巴、この一年の間にボクたちの仲はどれくらい進展したんだい? キスくらいはしたんだろう?」

「してないよ。というか、なんか余裕そうだね」


 空元気ですらなく、海空姉さんは淡々と一年分の情報を取り戻す方法を考えているように見える。

 海空姉さんはあっけらかんと肩をすくめた。


「一年分の記憶と言っても、ボクは引きこもりだ。どうせ、交流関係もさほど広がってはいないだろうし、いざとなれば巴のサポートもある。巴がいなくならない限り、悲観することもないさ」


 引きこもりの癖に強すぎる……。

 ちょっと呆れてしまう俺に、海空姉さんは椅子の座面を回転させて向き直った。


「それよりも、ボクが一年分の記憶喪失だと話しても巴が狼狽していないのが気にかかるね。何か、原因に心当たりがありそうだ。話してもらうよ。自作サーバーやボクが開発した会話BOT『ラビット』が無くなっていることは関係あるのかい?」


 俺の反応だけでそこまでたどり着くのかよ。

 頭の回転が早すぎる。

 お手伝いさんがお茶を運んできてくれた。部屋の隅に控えようとしたそのお手伝いさんに、海空姉さんは声をかける。


「心配してくれてありがとう。けれど、いまは巴と二人きりにしてほしい。内密な話もあるだろうからね。家にいる者たちは一時解散させ、明後日に集まるよう言っておいて」

「……かしこまりました」


 心配そうなお手伝いさんが部屋を出ていく。

 俺は渋いお茶を一口飲んでから、この一年のことを話し始めた。

 今や海空姉さんも一般人。もうシュレーディンガーのチェシャ猫に怯える必要もないので俺が未来人であることを含めてすべてを話す。

 お茶を飲み、南部せんべいをかじりながら黙って話を聞いていた海空姉さんは、最後まで聞くと小首をかしげた。


「にわかには信じがたい」

「俺も荒唐無稽な話だと思うよ」


 しかも、『ラビット』が消去されてしまった今、過去に戻って見せることもできない。

 海空姉さんはしばらく考え込んだ後、自作サーバーが納められていたラックを横目に見た。


「やはり妙だね。一年後……というか、記憶を失う前のボク、ややこしいから前ボクとでも言おうか。前ボクはそんな簡単にあきらめるような人間だったかい?」

「……多分、俺が観測できていないだけで、何度も失敗してこれが最善だと判断したんじゃないかな」


 俺も海空姉さんがこの結末に納得するとは思えなかったが、事実を並べると納得したとしか思えない。

 海空姉さんは机に頬杖を突き、片手で空中に円を描く。


「前ボクが記憶という対価を差し出したくらいだ。この状況はこの時間を切り取れば最善だと思う」

「誰も死んでいないからね。最善なのは確かだと思う」

「そのうえで疑問なんだよ。松瀬家の人間は負けず嫌いが標準で、ボクもその自覚がある。なにより、前ボクは巴にこの一年間何度も口にしたんじゃないかな。ボクは巴の頼りになるお姉さんだ、と」


 確かに、事あるごとに言っていた。


「何度も言っていたけど、それはこの一年に限ったことじゃないだろ」


 いわば口癖だ。子供の頃からよく言っている。

 海空姉さんも自覚があるのか、当然のように頷いた。


「だろうね。つまり、前ボクは未来を見てきたうえでその台詞を何度も口にした。そんな前ボクが、その後を巴に任せて頼るだけだなんてありえないと思うんだ」


 ……負けず嫌いだもんなぁ。

 しかし、海空姉さんが俺に頼るだけにならないよう、この状況を作ったとすれば、


「――ここからまだ、状況をひっくり返すつもりでいたってこと?」

「さて、記憶を失っているから前ボクが何を企んでいたのかは分からない。けれど、数千、数万と未来をやり直しても、ボクはこの結果が最高の未来だとは考えないはずだ。状況が最善であっても、最高の未来とは言えないからね」


 何を企んでいたにしても、ここからどうやって状況を変えるんだ?


 記憶を失う前の海空姉さんの行動は計画的だった。それは間違いない。

 いまだに計画が続いているとしたら、それは記憶を失った海空姉さんでも実行可能か、俺が実行する必要があるのだろう。


 この状況に満足しないとしたら、海空姉さんの最終目標は俺、明華、春、海空姉さん自身も含めて命も記憶も維持したまま床次さん達を撃退することになる。


 無茶だ。頭から否定したくはないが、床次さんの後ろには国がついている。床次さんを倒してみたところで、第二、第三の刺客を送り込まれる。

 床次さん達に『ラビット』の存在を知られた時点でアウトだ。


 しかも、夏の時点でワルター・フィッツが国家は兎狩りと指摘できる事件に巻き込まれていることが推測される。

 床次さん達から『ラビット』を隠すなら、夏以前に戻る必要がある。


 ならば、海空姉さんは夏以前に戻ったはずだ。今進行中の計画は今夜から始まっている以上、夏の事件は無関係だろう。

 ……そういえば、夏の事件で一回だけ笹篠が殺されたことがあった。

 俺は笹篠の死を認識した直後に強制的に過去に戻されたが、もしかするとあの時海空姉さんが何か動いて、失敗したのか?


「うーん、全然分からない」

「何かお腹に入れるといい。ほら、あーん」

「あーん」


 海空姉さんに南部せんべいを食べさせてもらいつつ考える。

 冷静に考えて、床次さん達に『ラビット』の存在を秘匿するのは無理だ。

 何しろ、俺たちだけじゃなく海空姉さんは十人のテスターをネットで公募している。俺が知っているのは宮納さん、大塚さん、ワルター・フィッツさんの三人だけだ。床次さんもテスターだった可能性はあるが、ワルター・フィッツさんの知り合いの未来人のスマホを利用している可能性がある。


「過去に戻って『ラビット』の十人のテスター公募をやめさせるか?」


 それに、テスターを選定しない場合、明華と春が過去に戻ってこず、世界線が大きく変動してしまう。これではチェシャ猫で二人の記憶と人格が消去されているのと変わらない。


「なら、全員が同時に同じ過去に戻ってしまえばいい……?」


 ちょうど、明華と春が同時に戻ってきたように、全員で示し合わせて同じ過去の時間に飛ぶ。

 これが可能なら、テスターを公募する必要がない。


 全員で示し合わせるのなら、絶対に満たすべき必要条件がある。

 全員が『シュレーディンガーのチェシャ猫』について情報を共有し、迂闊な発言を控える共通認識を持つこと、だ。


「……そういうことか」


 だから、海空姉さんは『ラビット』を床次さんたちに譲渡して、消去させたのか。

 今までは迂闊に情報を共有できなかったが、現在の状況では事情が異なるのだ。


「サーバーを奪取されて、『ラビット』を消去されている以上、これから先の世界線で笹篠や迅堂は未来人ではなくなる」


 チェシャ猫については海空姉さんという実例も提示できる。

 俺と目があった海空姉さんがアルカイックスマイルを浮かべた。


「ボクが生き証人だね」


 俺と同じことを考えたらしく、海空姉さんは自慢にもならないのに胸を張る。


「一度、全員を一般人にしたうえで情報を共有して一緒に過去に飛ぶのが、海空姉さんの狙いだった?」

「まぁ、そもそも論としてスマホから『ラビット』が消された今、過去改変が使えないんだけどね」


 そう、矛盾している。あまりにも致命的に矛盾している。

 計画がどこかで破綻したのか?

 だが、海空姉さんの今晩の行動からは計画が破綻した焦りが見えない。

 何か、まだ見落としがあるはずだ。


「――そうか、大塚さんのスマホだ」

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