第12話 床次
発見が早かったこともあり、病院に運ばれた迅堂は一命をとりとめた。
だが、まだ安心はできない。問題は何一つ解決していない。
俺は病院の休憩室の片隅に座り、ため息をついた。
チェシャ猫で失った記憶は戻るのか?
海空姉さんの口振りでは戻ることはないと思うのだが、記憶を失ったままの迅堂は再び自殺を図りかねない。
どうするか。
「――君が白杉巴君かな?」
休憩室に入ってきたスーツの男性に声をかけられて、顔を上げる。
男性は警察手帳を掲げていた。
自殺未遂だし、警察が捜査に来るのも、俺に事情を聞くのもおかしなことではない。だが、夏の事件を思うとどうしても警戒してしまう。
休憩室には俺とスーツの男性以外に誰もいない。
「
床次さんは適当な椅子の背もたれを掴んで引っ張ってくると、俺には体を向けずに座った。
あの座り方、相手に心理的な圧迫を与えないカウンセラーの心理テクニックだったかな。
床次さんは警察手帳を左右に振る。
「まぁ、あまり緊張しないで。さっきも言った通り、別に疑ったりとかしてないんだ。警察手帳、見てみる? こんな機会はなかなかないだろうし、話のタネにさ」
いや、警察沙汰は今年、この世界線で二回もあったよ。警察手帳も見なれてしまった自分が怖い。
俺はペットボトルのお茶を飲んで考えを整理する。
「気付いたこと、ですか。確証はないんですけど、迅堂さんは記憶喪失のように感じました」
「記憶喪失?」
床次さんが怪訝な顔で問い返してくる。
俺は頷いて、補足した。
「本人から直接聞いたわけではないです。ただ、昨日したばかりの約束を覚えていなかったり、まるで俺を知らないのに知っている振りをしているような、そんな感じでした。ただ、記憶が無くなっているのかを尋ねた直後に電話を切られてしまって」
「心配になった君は直接に家に出向いたと?」
「家に向かっていたのは電話する前からです。昨日の夜から連絡が取れなくて心配だったので」
「心配、か。昨日の夜からなんだろう? それだけの時間で直接家に向かうかな?」
「迅堂さんは普段の言動がお調子者ですけど、あれでもかなりマメな性格です。何事もなかったらそのままどこかへ一緒に出掛けるつもりでした」
これは事実だ。一緒に出掛けてしまえば、自殺を防げるだろうと考えていた。
結果的に、自殺を早めただけだったようだけど。
床次さんは俺を眺めてしばらく観察した後、胸ポケットから手帳を出して何かを書き込んだ。
「あまり記録を調べる時間がなかったから詳しくないんだけどね。夏に放火事件に巻き込まれているよね?」
「あぁ、はい。親戚の経営するキャンプ場で迅堂さんと一緒にバイトをしていました。夜にそこの管理小屋に火をつけられました」
「トラウマになったりとか、してない? 迅堂春さんもそうだけど、君自身も」
「俺は大丈夫です。迅堂さんも、俺が見る限りは大丈夫そうでした。家での様子までは分からないです」
「そのあたりは親御さんに聞こうかな」
床次さんは手帳をペン先でトントンと叩いて、俺に横目を向ける。
「放火事件の犯人のスマホが見つかってないって話、聞いてる?」
放火事件の犯人、つまり大塚さんのスマホか。
なんで、そんなことをいま気にするのか。
――まるでチェシャ猫のことを知っているようだ。
「スマホですか? 知らないです」
当然、知らないふりをさせてもらう。
大塚さんのスマホは海空姉さんに預けてある。GPSで見つからないように海空姉さんが細工もしたから、警察でも見つけられないだろう。
床次さんは「そうだよね」と軽く頷いた。
「あの放火事件の犯人も記憶喪失なんだよ。それで、スマホがあれば何か分かることもあるかもしれないと探しているんだ。心当たりはない?」
「心当たりと言われても……。あの日は小品田さんや家狩さんとお酒を飲んでいたようですし、落としたのでは?」
「キャンプ場内にはなかったようなんだよね。動物が持って行ったかな?」
「スマホを持っていく動物ですか。山の中なので色々な動物がいますけど、人の匂いが濃いキャンプ場に入ってくるのは珍しいですよ」
「だよねぇ。ワルターさんもそんなことを言ってたよ」
「ワルターさん? 刑事さんの上司の方ですか?」
偽名の使い手、ワルターさんの本名はこの世界線では知らないんだよ。そんな鎌掛けに引っかかるはずがないだろ。
大塚さんのスマホといい、ワルターさんのことといい、どうにも床次さんの言動は俺が未来人かどうかを探っているようにしか聞こえない。
直前に迅堂と電話していた俺がチェシャ猫を発動させて迅堂の記憶喪失を引き起こしたとでも考えているのか?
床次さんはさりげなく俺を観察しながら、続けた。
「いやなことを思い出させて、ごめんね。もうちょっと質問させてほしいんだ。春にも、君の親戚で記憶喪失になった人が居るよね?」
「……宮納さんですか?」
喫茶店の経営者、松瀬の親族の一人、宮納さん。
春の事件に関わっていた未来人だ。
床次さんが目を細めて俺を見つめる。
「君の周り、記憶喪失の人が多くないかい?」
「今年で二人。迅堂もそうなら三人ですからね」
確かにめちゃくちゃ多いな。
何か裏があるかもって思うのが当たり前だ。実際にチェシャ猫という裏があるし。
床次さんはしばらく俺に視線を注いで反応を見ていたが、諦めたように肩をすくめた。
「まぁ、記憶喪失を誘発する方法なんてあるのかもわからないしね。君がやったとも思えない。メリットもないしね。気になったから質問しただけだ。気にしないでいいよ」
床次さんはそう言って立ち上がり、休憩室を出る直前に俺を振り返った。
「迅堂さんの病室に行ってあげてくれるかい? これから、お母さんの方に事情を聞きに行くんだけど、誰も彼女の病室にいないってのもまずいでしょ。自殺未遂したわけだから」
「教えてくれてありがとうございます」
正直、迅堂が記憶を失っているとしたら顔を合わせても気まずいだけだとは思うが。
俺は休憩室を出て、病室に向かう。床次さんが病室で迅堂母に声をかけると、迅堂母は不安そうに迅堂を見た。
「いまは、ちょっと」
「少しの間ですよ。そうお時間は取らせません。それに、白杉君がついていますから」
「……そう、ですね。白杉君、お願いできるかしら?」
「はい。ついています」
病室を出る迅堂母と床次さんを見送って、俺は備え付けの椅子に腰を下ろした。
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