第13話 バイト仲間

 迅堂が目を覚ましたのは、俺が椅子に座ってすぐだった。

 ゆっくり瞼を開けた迅堂は病室の天井をぼんやりと見つめた後、自分の喉を撫でてため息をついた。


「死んでない……」

「俺が助けたからな」


 声をかけると、迅堂が頭だけ動かして俺を見た。

 迅堂は目を細めて、怪訝な顔をする。


「白杉さんですか?」

「察しがいいな」

「直前まで電話していましたし、助けられるとしたらお母さんか白杉さんかなって」


 病室に二人きりだと気付いたのか、迅堂が体を起こす。


「お母さんは?」

「警察の事情聴取を受けてる。一人にしておけないからって、付き添いを頼まれた」

「病室とはいえ、二人きりにするなんてずいぶん信頼されてるんですね」

「それな。顔を合わせるのは初めてなのに、びっくりだよ」


 迅堂が苦笑する。

 微妙な距離感。互いに初対面ではないと分かっているが、認識としては初対面と大差がない。

 距離の詰め方が分からない。詰めていいのかも自信がない。

 かといって、何も話さないのは間がもたない。


「……迅堂、記憶がないのか?」


 意を決して尋ねると、迅堂はピクリと肩を跳ねさせた。

 長い沈黙の後、迅堂は静かに頷く。


「四月十三日の朝だと思ったら、クリスマスの夜でした。家にいたはずなのに、なぜかデパートのバックヤードで目が覚めました。店内で倒れていたらしいです」


 四月十三日――始業式か。

 海空姉さんから俺が『ラビット』を受け取った当日だ。

 迅堂と喫茶店で会ったのも始業式当日だった。


「俺のことを一切覚えてないわけだ。初めて会ったのがその日の午後だしな」


 迅堂が泣きそうな顔で布団を握りしめた。

 高校入学して、新学期が始まる朝だと気合いを入れたら、一気にクリスマスの夜だったのだ。精神的なショックは計り知れない。

 悔しいだろうし、怖いだろう。


「何か聞きたいことはあるか?」

「……聞きたいこと?」

「そう、聞きたいこと。家族を除くと、この一年で一番長く一緒にいたのは多分俺だと思う。答えられることは何でも答えるつもり――」

「――ないですよ、そんなもの!」


 迅堂が怒声を張り上げる。

 初めて見た迅堂の本気の怒りに、俺は思わず口を閉ざした。

 迅堂は乱暴に涙を拭う。それでもあふれ出てくる涙に悔しそうな顔をした。


「この一年の私って誰ですか!? ノートを見ても書き方が私とぜんぜん違ってる。私はあんなに要点まとめられないですよ! 財布の中身もなぜか何万円も入ってました。バイトしてためたお金って言われても、私そんなの全然知らない!」


 ……俺が知っている迅堂は未来人の迅堂春だ。

 つまり、精神的にはいま目の前にいる迅堂春と地続きではない。

 未来人の迅堂が何回、春や夏や冬を繰り返してきたのか。

 繰り返して精神的にどれほど成長していたのか。


 ノートや財布の中身の大金は、きっといま目の前の何も知らない迅堂にとって得体のしれないものなのだろう。

 目の前の迅堂は、中学時代に春姫と呼ばれていた頃とほとんど変わらない、年相応の経験しかしていないのだから。


「白杉さんから電話が来た時、ぞっとしたんです」


 迅堂が両腕で自分を抱きしめるようにして身を縮ませる。


「分かりますか? まったく知らない人から電話がかかってくるんです。きっと学校では全く知らない交友関係もあります。仕事の内容もぜんぜん知らないバイト先で知りもしない人がまるで違う私を基準に話しかけてくるんです」


 ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら吐き出すように、迅堂が続ける。


「中学のクラスメイトだってそうです。そんなに仲が良くなかったはずの陸奥さんと夏からよく連絡を取り合っているのがスマホでわかりました。両親だって、クリスマスまでバイトをしていたらどうしようかと思った、なんて笑いながら話しかけてくるんです。意味が分からないです」


 春からの八か月で迅堂が築き上げた人間関係も、真面目にバイトをこなして築き上げた評価も、いまの迅堂には身に覚えのないもの。

 それでも、確かに迅堂が八か月で築き上げたものだからこそ、時の流れに取り残された今の迅堂は恐怖と疎外感を苛まれたのだろう。

 俺が電話したのは完全に悪手だった。迅堂を追い詰めるだけだった。

 迅堂が頭を振る。


「知らないんですよ! 何も、誰も! この八か月の私は誰なんですか!? みんな誰のことを話してるの? 私はまだ何もしてないのに……っ!」


 迅堂が自分の首を撫でる。すでに縄の痕は消えていたが、それを嘆くようにため息を吐き出した。


「怖くなったんです。凄く、怖くなったんです。記憶を失う前の自分と同じことができる気が全くしないんです。ノートの取り方ひとつとっても要領の良さが違うってわかるんです。それなのに、周りはきっと、前の私を求めます。絶対にそんな期待に応えられないって、すごく……凄く怖くなったんです」


 俺も見てきた。未来人がどれほど理不尽な存在か。

 ラテアート勝負に始まり、一昨日のケーキ勝負もそうだ。未来人は果てしない試行錯誤の末に身に着けた技能を有する理不尽な存在になる。

 そんな技能をもった理不尽な存在への期待が、今の迅堂に伸し掛かるとすれば……潰れてしまう。


「これじゃあ、本当に春姫ですよ。何もできない。外に出るのも怖いです。だから……」

「自殺しようとした?」

「……はい」


 中学時代の迅堂は春姫呼ばわりに対して反発し、実際に高校生活でバイトを始めて自信が持てるようになった。

 だが、いまの迅堂にはバイトを始める勇気がない。

 本当に何もできない、させてもらえない春姫になってしまったと自覚した迅堂は絶望し――自殺を試みた。


 またやり直せるとか、元気を出せとか、そんな薄っぺらい言葉ばかりが頭の中を埋め尽くす。

 俺が知っているのは未来人の迅堂だけだ。未来人になる前から曲がりなりにも交流がある笹篠や海空姉さんとは違い、迅堂とは高校からの付き合いである。

 今の迅堂にとって、俺は異なる自分が築き上げた交友関係の最たるもの。赤の他人よりよっぽど恐ろしい相手だろう。

 俺からどんな言葉も、いまの迅堂に届くとは思えない。


 そんな弱気な自分を、拳を握りこんで心の奥に閉じ込める。

 覚悟を、決める。


「迅堂、俺を頼れ」

「……は? 話を聞いてましたか?」


 まぁ、そう言うだろうな。春姫からの脱却を志した入学前の迅堂なら、断るに決まっている。


「俺は迅堂ができる奴だと知っている。もちろん、今の迅堂なら何度も失敗するだろう。人に迷惑もかけるだろう。そんなリハビリに、俺が付き合う」

「……もういいんですよ。私は白杉さんが知っている私じゃないんですから」

「関係ない。俺の伝手でバイト先も用意する」


 迅堂が顔をしかめる。


「……なんで、そこまでするんです?」

「俺が迅堂とまた一緒にバイトをしたいからだ。お互いに働きぶりを認め合って、たまに競争したりして、バイト代が出たらファミレスで笑いあいながら次のバイト先を相談し合う。そんな関係に戻りたいからだ」


 迅堂が目を見開いた。涙で潤んだ目がこちらに向く。

 瞳が揺れている。何かを言いかけて唇が震え、布団を握る手に力がこもっている。

 俺は迅堂の目をまっすぐに見つめて続ける。


「俺がバイト仲間として認めた迅堂はここにいる。春姫扱いに反発して、バイトに精を出そうとする迅堂が俺の目の前にいる。その根っこが変わっていないなら、俺は迅堂を信頼する」


 残酷だとしても、俺は言い切らないといけない。


「迅堂、諦めるな」


 怯えたように身を引いた迅堂だったが、おずおずと上目遣いで俺を見つめ、小さく頷いた。


「……前の私、白杉さんに告白したでしょ?」

「あぁ、何度もされたな」


 正直に答えると、迅堂は「しょうがないな」とでも言いたそうに苦笑した。


「好きな男性のタイプは、変わってないんですね……」


 迅堂が小指を出してくる。


「諦めないって約束します。……まだ、怖いですけど、お願いします」

「あぁ、こちらこそ、よろしく」


 小指を絡ませて、指切りをする。

 その時、病室の扉が開いて迅堂の母が入ってきた。


「――春!」


 体を起こしている迅堂を見て、泣きながら迅堂母が駆け寄る。

 流石に、俺がここにいるのは邪魔だろう。


「外に出てますね」


 小さく声をかけて、俺は迅堂に片手を振ってから病室を出た。

 廊下には誰もいない。

 ひとまず、状況は落ち着いた。

 笹篠と海空姉さんに事情を報告しよう。


 そう思って、スマホを取り出した瞬間、画面にもはや見慣れたバニーガール姿の少女キャラクターが表示された。

 硬直する。

 なぜ、このタイミングで?

 咄嗟に画面上部の時刻表示を確認する。午後一時。

 前回よりも明らかに早い。


 そもそも、海空姉さんはまだ迅堂が自殺を図ったことを知らない。いや、未来から戻ってきたのか?

 だとしても、状況が落ち着いたいま優先すべきは情報共有のはずで……。


『――ロールバックを行います』


 無慈悲に、無感情に、『ラビット』は告げた。

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