第11話 チェシャ猫の餌食

 何が起きた?

 『ラビット』が勝手にロールバックを行った。

 なんで?

 海空姉さんは情報共有のために本家に来るよう、俺に言っていた。なんでこのタイミングでロールバックなんてしたんだ?

 状況が変わった?

 あの後、俺が死ぬ可能性が高かった?

 あの後の予定は警察の事情聴取だが、死ぬ要素がないだろう。

 ――まさか、兎狩り?


「にゃー」

「あ、ごめん、ソノさん」


 混乱する頭でも、日課になっているソノさんの餌やりはこなせる。

 餌入れに半生の餌を入れてやると、ソノさんは優雅に食べ始めた。

 尻尾が俺の脚に絡んでくる。


「にゃーむにゃむにゃ」


 俺の方を見て、ソノさんが何かを喋っている。すまん、猫語は分からない。

 だが、おかげで頭の切り替えには成功した。

 椅子に座り、食事中のソノさんを眺めて考える。


「あの後で何かが起きたとしても、それはあくまで今日の夜のことだ。いま考えないといけないのは、迅堂のことか」


 朝のこの時間、迅堂はまだ自殺していない。しかし、迅堂の両親の証言を踏まえるとすでに何らかのトラブルに巻き込まれている可能性が高い。

 ならば、俺がすべきは迅堂の自殺の阻止だ。

 問題は連絡がつかないってことか。おそらく、いまならまだ迅堂の両親が在宅中だ。


 俺は行動方針を定め、すぐに着替えに移る。

 いまいち状況が不透明だが、行動しなければ元の木阿弥だ。

 ジャケットを羽織り、スマホを手にする。迅堂のスマホ番号を呼び出して、電話をかける。


「……でないか」


 予想通りではあるが、やはり今の時点で何かが起きている。または起きた後。

 鍵を掴んで部屋を出る。

 足早に階段を下りて家を出た俺は、スマホ番号に登録済みの迅堂宅の固定電話にかける。


『――はい、もしもし?』


 応じた声は、体感でつい数時間前に聞いた迅堂母の声。

 よかった。在宅中だ。

 俺は何も知らない風を装って、礼儀正しく名乗る。


「おはようございます。朝早くに申し訳ありません。白杉巴と言います。迅堂春さんのお宅でしょうか?」

『あら、白杉君? 春のバイト仲間で彼氏候補の? あらあらら、ちょっと待ってね。うちの人が聞き耳を立ててるから、ちょっと場所を移さないと。大丈夫よ。おばさんは味方だから』


 聞き耳立てられているなら今さら場所を移しても意味がないのでは?

 俺は足早に迅堂の家へと向かいつつ、迅堂母に尋ねる。


「迅堂春さんと昨日の夕方から連絡がつかず、ちょっと気になりまして直接お電話をおかけしました。今日の夕方から一緒に出掛ける予定があったんですが、もしかして体調を崩したのかな、と」

『えっ、デート? あの子ったらなんでそんな面白い話を教えてくれないのよ、もう。えっと、昨日の夕方からよね? ……確かに、ちょっと様子がおかしいのよね』


 心配そうな声の迅堂母に、俺は畳みかける。


「迅堂春さんと代わってもらうことはできますか?」


 直接話すことで自殺を阻止しつつ、迅堂の家に到着するまで会話を引き延ばす。


『えぇ、いいわよ。もしかして、喧嘩でもした?』

「心当たりはないです。昨日も、一方的に今日の約束をされて、こちらが何も言えないまま電話を切られてそのまま連絡がつかないので」

『好きな人にはぐいぐい行って押して押して押し込むようにって教育してるからねぇ。何なら、うちにいらっしゃい。大丈夫、お父さんはそろそろ出社しないといけないから』

「そうですね。それじゃあ、お邪魔させてもらうかもしれないです」


 渡りに船だ。訪問の約束を取り付けて、俺はスマホに耳を澄ませる。

 迅堂母が二階にある迅堂の部屋に向かっているのだろうか、階段を上る足音が聞こえてくる。受話器が外れるタイプの固定電話だったのか。


『春、電話よ。白杉君から』


 迅堂母が部屋の中に呼びかけたのだろう、ややあって物音が聞こえてくる。

 聞き取れない会話がしばし交わされた後、扉が閉まる音がして、迅堂の声が聞こえてきた。


『……電話、代わったよ』


 ……口調が違う。

 探るような、警戒するような、戸惑いを隠すような、そんな声。

 俺は自然と迅堂の家に走り出していた。


「迅堂、約束は覚えてる?」


 努めて平静に、俺は尋ねる。

 だが、答えは予想がついていた。


『えっ、ごめん、約束?』


 慌てたような、焦るような声と態度。


「今日の約束だよ。昨日、迅堂から言い出したんだろ。水族館にクラゲを見に行こうって」

『あっ、あぁ、うん! ご、ごめん。ちょっと、調子が悪くて。キャンセルってことにしようよ。ほんと、ごめんね!』

「調子が悪い?」

『うん、ちょっとね。あ、心配はいらないんだけど! あの、まぁ、そういうこと、だから、ね?』


 要領を得ない。ただ混乱していることだけが伝わってくる。

 俺は走りながら、覚悟を決めて電話の向こうの迅堂に告げる。


「なぁ、迅堂」

『う、うん?』

「今日の約束は、水族館のクラゲじゃなく、遊園地のイルミネーションを見に行くってものだよ」

『……っ』


 鎌をかけられたと気付いたか、迅堂が息をのむ。


「迅堂は俺と話すときにタメ口は使わないよ。こんなんでも、一つ年上だからな」

『……あ、あの』

「落ち着いて、深呼吸してくれ。――今年の春からの記憶がないな?」


 ほぼ確信をもって、俺は尋ねる。

 答えは長い沈黙と、一方的な電話の切断だった。

 ツーツーと電子音を響かせるスマホを切り、俺は全力疾走で迅堂の家に向かう。


 おそらく、昨日のうちに迅堂はチェシャ猫に襲われた。

 迅堂が家に帰ってから様子がおかしかったのは、知らず知らずのうちにほぼ一年が経過していたから。

 俺の連絡に返事をしなかったのは、記憶がないことがばれると思ったから。

 前の世界線で机の上にノートが広げられていたのは、記憶が無くなったほぼ一年の間の痕跡を探していたから。


 迅堂の家が見えてくる。玄関を出たばかりらしい迅堂母が俺に気付いて怪訝な顔をした。

 構わず、俺は迅堂母に声をかける。


「すみません、白杉です。迅堂さんの様子がおかしいので走ってきました」

「あ、君が白杉君? あれ? 春と電話していたはずじゃ――」

「迅堂さん、昨日した約束どころか俺のことすら覚えていません。多分、今年一年の記憶がほとんどなくなっています」

「へ?」


 記憶喪失なんて荒唐無稽な話だからか、迅堂母が面食らったような顔をする。

 俺だってチェシャ猫を知らなければ同じ反応をしたはずだ。

 訝しむ迅堂母の顔を正面から見つめて、俺はもう一度言う。


「迅堂さんはおそらく、今年の春からの記憶をなくしています。信じられないとは思いますが、お願いします。確認してきてください」

「……分かったわ」


 真剣に告げたのが功を奏したか、迅堂母は半信半疑の様子ながらも鍵を閉めかけていた玄関扉を開けて家の中に入る。

 怪しまれている現状、俺が家の中に入るのは心証が悪いだろうからと、俺は家の外で呼吸を整えながら待った。


 自殺を食い止めるために打てる手は打った。ここからどうする?

 記憶をなくした今の迅堂にとって赤の他人の俺が、これ以上何かできるだろうか?

 呼吸と気持ちを落ち着けるために深呼吸をした瞬間、迅堂の家の中から悲鳴が聞こえた。

 家の二階、迅堂の部屋を見上げた直後、窓が中から開かれて迅堂母が顔を出した。


「は、春が! 春が!」


 ――まさか!?

 俺は迅堂の家に飛び込み、靴を脱ぐ手間も惜しんで階段を駆け上がる。

 あけ放たれた迅堂の部屋の扉を見つけて中に飛び込んだ俺の視界に入ったのは、スマホで救急車を呼ぶ迅堂母の姿とクローゼットで首を吊っている迅堂の姿だった。

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