十 御魔灰
納得のいかないまま、体よく夏木に病室から追い出されたケンイチは、結局、もうその日にサチと再び会うことは叶わなかった。
院内の待合フロアの片隅で、やるかたなく座っている頭上から、面会時間終了を告げるアナウンスが響く。
(もう、夜の八時か)
ケンイチは、鳴らなかった携帯をポケットにしまい、立ち上がった。
何かあれば、夏木から連絡があるはずだったが、ついに来なかった。
それは、サチの熱もひかず、陣痛も来なかったということを意味した。
日の暮れた病院前のロータリーから、タクシーに乗り込む。
(くそっ、まずいぞ。明日で入院は四日目。母子ともに危険だと言われていた期日を、超えてしまうじゃないか)
母とミサの呪いについて、サチは大丈夫だと言った。母を信じろ、と。
だが、現にサチは原因不明の熱にうなされたまま、危険水域の入院四日目に突入しようとしている。
(呪いを、解くしかない)
さもなければ、直談判か。いずれにしろ、何かしら手を打たなければ、サチも、お腹の子も、命はない。
しかし、相手は霊界から呪いをかけてきている悪霊の類だ。
一体、どうすれば良いというのか。今のケンイチでは全くもってわからない。
「運転手さん。呪いを解くって、どうすればいいと思いますか」
「はあ」
気の抜けたタクシードライバーの反応に、ケンイチは我に返った。
(しまった。こんなわけわからんことで、つい、話しかけちまった。
「あ、いや、すみません、忘れてください」
「いや、ようはお
「ああ」とつぶやいて、ケンイチは妙に
「なら、今向かってるとこの近くにある、あの“お
「そう……そう、そうでしたね! ははは、こりゃ盲点でした。運転手さん、そこで降ろしてください」
少し希望の目が出てきた、とケンイチは思った。
近所の“お不動さん”とは、古くから続く密教の大本山で、毎日悪霊退散のお
その住職の力を借りようということに今まで気がつかなかったのは、ただのご近所さんとしか思っていなかったか、はたまた料理人という実力主義の世界にどっぷりと
(そうだ、そうだ。岡本のおっさんに、頼めば良かったんだ)
住職の本名を、ありがたみの欠片もなく頭の中で呼びすてたケンイチは、タクシーのフロントガラスから見える道路の先を見据えた。日も暮れて暗くなった道路の先々に点々と続く信号の赤が、ちょうど青に変わり、タクシーはまた、走り出した。
「おいおい、ちょっと待ちねえ。落ち着きねえ。ケンちゃんよ」
口の端に泡を喰ってまくしたて続けていたケンイチに、
それは、寺に併設する寺務所へ文字通り駆け込んだケンイチが、よう来た、よう来た、と笑顔で迎えてくれた馴染みの岡本住職の案内で、玄関を通され廊下、そして居間に至るまで一切の
「まあ、あれだ。ほら、わけがわからねえよ、さっきから。まずは茶でも飲みねえ」
「いや、岡本のおっちゃん、本当に大変なんだったら」
ケンイチは昔の呼び方で、岡本に呼びかける。岡本も、住職というよりは、近所の聞かん坊の話を聞いてやっている
「大変も、へったくれもねえ。ケンちゃんよ、まずは、一口、その茶を飲め。でなかったら、けえんな!」
ぴしゃりとそう言われ、ようやくしょげた顔になったケンイチは湯呑に口をつけた。
「それで、サっちゃんは、何て言ってたんだい。もう一度、言ってみな」
「サチは……大丈夫だって。おふくろ、信じろって、言ってた」
ケンイチは口を
「分かった。で、ケンちゃんはどう思ってるんだい、おふくろさんのことをよ」
「よく、分からん」
「分からんってな、何だい、ずいぶんと曖昧な了見だ。大事なおふくろさんを『祟り』呼ばわりまでしといて。そりゃおめえさん、いささか、自分勝手な言い分だと、思わねえのかい」
「いや、でも、現にサチは今まで見たこともない高熱を出して苦しんでるんだ! 明日までに何とかしなきゃ、本当に大変なことになっちまうかも知れないんだ!」
飲み干した湯呑をテーブルに叩きつけるケンイチの様子を、岡本はしばし見つめた。
「頼む、おっちゃん。気休めだって、構わない。何か、良い知恵を貸してくれ。サチを、腹の子を、悪霊から守ってやってくれ!」
「あ、悪霊って、おめえさん……」
深々と頭を下げるケンイチのつむじをしげしげと見つめていた岡本は、やがて「ちょっと、そこで待ってな」と言って立ち上がり、どこかへ隠れてしまった。
(たとえ、俺の取り越し苦労でも、構わないんだ。このまま何もしないで、もし……もし万が一何か起こったとしたら、俺は絶対に、何もしなかった自分を、許すことなどできない!!)
数分後、岡本は神妙な顔つきで戻ってきた。
その雰囲気には、数百年続く不動尊を
「ケンちゃんよ。これをやる、受け取りな」
岡本が両手で捧げるように持っていた包み紙を、ケンイチも両手で受け取った。
上質な白い和紙で正方形に包まれた手のひらサイズのそれは、紫に着色された
受けとってみると妙に軽いものであったが、その軽さが、逆に何か特別な儀式的重みを感じさせる。
「それはな、“
かさこそと封を開こうとするケンイチの手を、岡本は制した。
「おっと、止めときな。ここで開けるとせっかくの“
「あ、はい」
「よし、そうだ。そうやって、もう仕舞っておきな、あまり人の目に触れて良いものでもねえ」
「これを、どうすれば良いんだい、おっちゃん」
「簡単だ。おふくろさんに会って、話をつけてえんだろ。家にけえって、それを七輪にでも入れて、火を焚きな。そして、おふくろさんに会いたいと、強く念じるこった」
「何か、呪文みたいなのは」
岡本はふん、と鼻を鳴らした。
「ケンちゃんのような青二才にはいらねえよ。もう、俺が“願”をかけたんだからな」
「わかった。本当にありがとう、おっちゃん!」
「礼を言われる筋合いはねえよ、長い付き合いだ。とにかく、ケンちゃんよ、俺も一言、いわせてもらうが」
ソファにかけたままのケンイチの前に、岡本は仁王立ちとなった。そして、ケンイチの両肩に向かって、思いきり両腕を振り落とした。
バチーン、と寺務所内に音が響き渡る。
「しっかりしろよ、ケンちゃんよ。そして、おふくろさんを信じろって言ってくれたサっちゃんを、大事にしなよ」
「あ、ああ。もちろん—―」
両肩に響く痛みと、岡本住職の不動明王そのものの
ケンイチは、一瞬、何かを祓ってもらったような
が、それも長くは続かず、岡本住職の元を辞し寺の境内を出るころには、また不安の闇に囚われて、もがくように足早に、帰宅の途に就くのだった。
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