九 「……ケンちゃん、もう、寝てもいい?」

「ケンちゃん……、よく、来たね」

 サチのつらそうな病床姿を、はじめて目の当たりにしたケンイチは、膝の力が入らないほど、狼狽した。

 そのままガクンと腰が落ち、丸椅子にストンと着地した。

「あのお、本当は、ダメなんですからね。手短に、面会してくださいねー」

 病室の外を気にしながら、夏木看護師がヒソヒソ声を後ろから投げてくる。

 ケンイチは、なんとか左手をあげて、指先で返事を返した。

 視線は、どうしても目の前のサチから離すことが出来ない。

 上気した肌は熟れたスモモのように赤く、呼吸も荒い。

 素人目に見ても、面会謝絶は、当然の状態だ。

 昨日までの大部屋の雰囲気とは違い、この個室という空間は、妻が重篤な状態であることの証左しょうさとなって、ケンイチを重く包み込んでいる。

 午後にケンイチがナースステーションを訪ねたとき、朝会ういつもの看護師が、「面会謝絶なんで、今日は帰ってください」などとぶっきらぼうに言い放った。

 寝不足で悶々としていたケンイチは頭にきたが、しかし、怒鳴り散らすような元気はとうになく、その場はすごすごと引き下がるしかなかった。

 だが、何としても、妻に確かめなければならぬことがあった。

 ケンイチが午前中に考えた中で、真っ先に消してしまいたい可能性。

 それは、”成仏しきれぬ母が、ミサと共謀し、得体の知れぬ力で、まだ生まれていない孫を母親たるサチごと、あの世に引き連れようと画策していること”だった。

 くだらない。実にくだらない、妄言もうげんだった。

 だが、ケンイチはついに、そのくだらない妄言を反論できるだけの明確な論拠を構築できなかった。

 あのDMは、誰が自分に送ってきたのか。

 知らない第三者にしては、“母の料理レシピ”の内容に、詳しすぎる。

 もっと言えば、生きている者の中で、レシピの内容に明確に言及できることは、自分を除けば、まず不可能と言って良い。

 サチですら、ノートの中は全く見ていない。

 つまりは、死者。しかも、死者の中でも、母、或いはその知人で無ければ不可能だ。

 まず、母がミサになりすましてDMを送ってきた可能性を考えたが、その可能性は低いとケンイチは判断した。

 パソコンを全く使わなかった母の発想としては、あまりにやっていることが今めかしいし、何より、ミサを騙るメリットがまるで無い。

 自分の存在を隠すためというメリットもあったかも知れないが、結局は、DMの内容から母の存在がほのめかされてしまっているため、やはり母がミサになりすます意味は無い。

 ケンイチの身のまわりの人物で、母のレシピの内容を多少なりとも知っている者は、死者を含めて考えても、母を除けば、あとは父だけである。

 だが、メリットが無いという意味では、父も同じだろう。仮に、母の無念を草葉の陰から晴らすべく、あの堅物不器用な父が、死後の数年間じっと現世近くにへばりついていたとしても、何を血迷ったか、我が家に全く関係のない女子高校生になりすますなど、むしろ滑稽にもほどがある。父の性格からして、そのような虫唾むしず走る行為にふけるくらいならば、成仏をあきらめて母を連れ、共に地獄でもどこへでも落ちて行くことだろう。

 つまり、DMを送ってきたのはミサ本人であるというのが、一番自然な流れ。

 そして、レシピに言及しているミサのDM内容から必然的に、彼女は母と知り合いである。

 それが、ケンイチの出した結論だ。

 と、すれば、パズルのピースは自然と最後まではまる。

 ミサと母は、命日が同じだ。天国に旅立つ過程で出会っていたとしても不思議ではない。

 いや、もう十分にそれは奇妙奇天烈きみょうきてれつなことなのだが、それを考えるだけの余裕は、今のケンイチには無かった。

 ともかくも、ミサと母は出会った。そして、仲良くなったのだろう。

 母は、恐らくは霊界のどこか摩訶不思議まかふしぎな空間で、ミサに得意の料理をふるまった。そして、自分が残したレシピのことも話題にした。

 これで、ミサが“母の料理レシピ”に詳しかった謎に、筋だけは通る。

 仲良くなった霊魂同士、当然、生前に実現できなかった話題もするだろう。

 そもそも、それが無ければ、DMを送ってこれるような現世に近い場所—―どこかは皆目見当もつかないが—―などに、とどまれるわけもないのだ。つまり、よくある怪談話の論理で言えば、怨念や無念の情を溜めて、とどまっているのに違いない。

 母の無念は、もちろん孫に会えなかったことだ。これは生前、何度も口にしていた。

 ミサの無念はいまいち測りかねるが、何らかの心残りがあるのだろう。彼女のお母さんがブログに残していた、”もし天国に行くのが一人でさみしいのなら、誰かを連れていくといい”という一節も気になるところだ。少なくとも、これに近い発想をミサ自身が抱いたとしても、最愛のお母さんが勧めたことなのだから、なんら不思議ではないと考えられる。

 そこで、もろもろ整理した上で、ケンイチが考えた全ての筋書が、以下だ。

 まず、一人で若くして死んでしまったミサは、そのさみしさのあまりに、自分のお母さんがブログにつづった提案どおり、天国に誰かを連れて行こうと考えた。

 だが、それでは結果的に誰かを殺すということになり、心優しい彼女には、家族や友人を殺すことなど当然できなかった。

 そこへ、孫に会いたい無念を抱えて、そこらを漂っていたケンイチの母に出会う。

 母とミサは、意気投合し、まだ生まれぬ孫をその母親、つまりサチごと天国へ連れて行ってしまうことを画策した。

 母自身が、自分の家族を天国まで同行させて良いとミサに言うのだから、彼女としては罪悪感もいささか軽くなり、何よりその感情を超える何かを、ケンイチの母から施してもらったのだろう。

 食い物の恨みは激しいというし、その逆もしかり。

 孫だけでなく、サチごと連れて行くというのは不自然だとも思ったが、おそらく、まだ生まれていない子供を天国にさらうには、同時に母親も道連れにしないといけないとか、そんな都合が良いんだか悪いんだかよく分からない霊界的な事由でもあるのだろう。

 ともかくも、腹の子を霊界へさらうにその母も道連れにするのはきっと間違いない。

 現に、サチはいままで出したこともないような不自然な発熱に見舞われている。

 子供が生まれるまで待たないというのも少しおかしい気がしたが、それは何かしら待てない霊界的な事情があるのだと考えることにした。

 つまり、何か霊界関連のタイムリミットがあるのだ。きっと、そうに違いない。

 ともかくも、命日が同じ二人は、急いで孫をその母親ごと霊界に引きずり込まなければならない。

 それでは、どうするか。

 簡単だ。霊ならば、現世の人間に何らかのコンタクトを取り、呪いをかければ良い。

 よくある怪談話の手口。

 それが、あのミサからのDMだったのだ。

 現世の人間が興味を引く内容で、DMを送り、対象者がそれを目にするように巧妙に仕組む。

 あわれにもその罠にかかったケンイチは、まんまとターゲットであるサチにDMを見せてしまった。

 その結果が、今日、この目の前の惨事、というわけである。

 ああ、何ということだろう。


「……ケンちゃん、もう、寝てもいい?」

「ええ? 聞いてたか、俺の話」

 噛んで含めるように、十五分もかけて説明しきったケンイチは、サチの無関心さに呆れた。

「おいおい、サチ。お前の身が危険なんだ。これは、呪いなんだ。ミサのDM。あれは、呪われた霊界メールだったんだよ」

「うん。ケンちゃん。ちょっと」

 うつろな表情のまま、サチはケンイチの顔へ、両手を伸ばしてくる。

「な、なんだ。つらいのか?」

 急いでその手を取ったケンイチは、すぐにサチの顔のそばへ、自分の顔をよせた。

「大丈夫か、サチ! 呪いなんかに、負けないでくれ! 俺は……俺はお前がいないとダメなんだ」

「うん、知ってるよ。ほら、もうちょっと、近く」

 ケンイチの手から離れたサチの両手は、彼の頭の後方まで伸びた。

 そして、優しく包み込むように、サチの両腕は閉じられていき、それにともなってケンイチの顔は、どんどんサチの顔に引きよせられていく。

「ん、ん? なんだ。どうした、え」

 病室内に派手なキスの音がして、ケンイチは柄にもなく顔を赤らめた。

 くちびるのあたりの感触を気にしている夫を尻目に、サチは短く、「大丈夫よ、ケンちゃん。お義母さんを、信じましょ」とだけつぶやくとすぐに寝返りをうって、もう寝息を立てはじめてしまった。

「ああ、おい。サチ……」

「はい、終了です!」

「え?」

 気づくと、夏木がニヤニヤとしながら、ケンイチの後ろに立っていた。

「はい、面会は、もうおしまいでーす!」

「いや、ちょっと、妻が、大変なんですよ。呪いが、あの」

「はいはい、もう時間もお腹も、いっぱいでーす!」

「あれ、ちょっと待って、あら?」

 睡眠不足と心労でふらつく家族など、体育会系の夏木には屁でもない。

 ケンイチが軽く混乱している間に、夏木は丸椅子上で彼をくるりと反転させた。

 そうして自分の正面を向かせると、夏木はケンイチの両手首をがっちりと掴み、そのまま相手が前のめりになる方向へ強く引っ張り出した。

「あ、あぶねっ、て、え?」

 よくわからないまま、ケンイチはいつのまにか夏木に両腕を引かれた姿勢で、すでに病室の入口に向かって、自らの足で歩いていた。

「な、なに? 何が起こった?」

「これが、“誰でも勝手に歩き出しちゃう呪い”でーす」

「は、はあああっ?」

 ケンイチの焦りの声と夏木の“あんよが上手”の掛け声が出ていったあとには、サチの寝息だけがかすかに響く、そんな安穏な静けさだけが、病室内に残った。

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