八 祈り

「ああ、玉城さん? すみませんけど、また午後に来てくださいます? 午前は検査あるって、言ってますよね」

 サチが入院して三日目。ケンイチは、朝一番に病院を訪れたが、また看護師に追い返されてしまった。

 結局、昨日は眠れなかった。

 ずっと、ミサのDMの内容が気になって、頭から離れない。

 ミサは、料理のことを誰かに聞いた。

 その誰かは、どうやら、孫に会いたがっている。

 いや、あのDMからまともに受け取れたこの内容だけでは、とても脳裏にへばりつくぼんやりとした最悪のシナリオまでは、辿りつけない。

(辿りつけないはず、なんだ)

 そこから先の論理の飛躍を、ケンイチは自覚していたが、その飛躍の過程について、やはり、じっくりと考えなくてはならない。

 昨晩は恐怖と指の痛みで、それどころでは無かった。

 外の空気を吸った今なら、寝不足ではあるが、いささかマシな検討が出来そうではある。

「おや、玉城さんじゃありませんか」

 ナースステーションを離れたエレベーターホールで、加藤医師に出くわした。

「ああ、どうも」ろこつに嫌な顔をしているだろうが、とても隠せる余裕がない。

「ろこつに嫌なお顔を、隠せないご様子ですね。どうも」

「……」

 二の句も告げない。長身の身体に乗っている無機質な顔から、何を考えているのか判別できない視線が注がれてきている。

「おや、ケガをなさっているじゃありませんか」

「え、あ」

 しっかりと処置をしたと思い込んでいた右手は、赤黒い血で汚れたキッチンペーパーが無造作に巻かれているだけだった。

「これは、見てはいられませんね、さ、こちらへ」

 加藤は慇懃いんぎんに、腕でナースステーションの方を指し示す。

「い、いいえ。結構ですよ、大丈夫です」

「さ、こちらへ」

 ケンイチの言葉には耳を一切貸さず、加藤は細長い腕を更に伸ばして促す。

「……すみません」

 ケンイチは、最後まで嫌な顔を隠せないまま、加藤の示す方角へ、力なく歩を進めた。


「玉城さん。奥様は、今日で三日目ですね」

「ええ、そうですね」

 ぞんざいに返事を返しながら、ケンイチは加藤が右手を治療するのを眺めていた。

 こびりついていたキッチンペーパーを丁寧にピンセットで剥がし、傷の具合を確認しつつ、何かの液体を多めにコットンにつけて、ぐじゅぐじゅとその液体を垂らしながら、傷跡をなぞっていく。

 奇妙なことに、痛みは無かった。

「これ、なんですか」

「ただの水道水ですよ」

「は?」

「驚きましたか?」

「ええ、まあ」

「この程度の裂傷の場合、流水で洗い流したら、あとは絆創膏でも貼っておけば良いんですよ」

 カンカララ、とピンセットを器具置き場に放り、加藤は傷口にフィルムタイプの絆創膏を貼り、そのうえから慣れた手つきで包帯を巻いてくれる。誰の目にもわかるほど、あざやかな手技しゅぎだ。

「消毒、とかは?」

「いりませんよ、うわけでもないのですから。むしろ、消毒薬が強く効きすぎて、治りを悪くします」

「はあ。初めて、聞きました」

「素人なんて、そんなものですよ。安心してください。だから、医者がいるんです」

 昨日ならカチンと来ていたかも知れないが、どうやらこの医師は純粋に、何の悪気もなくそう思っているだろうことが、今日のケンイチには分かる。

「はい。おしまい、です」

 最後の語尾で、パチン、と音がするほど、加藤はケンイチの右手を両手ではさんだ。

「いてっ……ホントに、最後が余計な人だな」

「ああ、よく言われますよ。全然、気にしませんからね。私には、何でも仰ってください」

(ホントに、どこかずれた人だよ)

 ケンイチは心の中で苦笑しながら、サチのことを聞いておこうと口を開いた。

「先生、サチは大丈夫なんですか」

「さあ、どうでしょうね。こればっかりは、なんとも。自然のやることですから」

「……どうも、ありがとうございました」

 加藤に聞いた自分の軽率を呪いながら、ケンイチは立ち上がった。そのとき、「ああ、そうそう」と言いながら、無機質な表情の医師は珍しく眼鏡を外し、上目づかいにケンイチを一瞥いちべつした。

「奥様ですが、今日の面会は、難しいかも知れません」

 今、一番聞きたくはないたぐいの発言を、聞いてしまった。

 ケンイチの背中に、冷たいものがつたう。

「それは、どういうことですか」

「朝からね、してるんですよ」

「ネッ、パツ?」

「ああ、すみません。体温が三十八度以上の高熱状態だということです」

「なんですって? 大丈夫なんですか!」

「ええ、ええ。もちろん、それは。よくあることですから。ただ、ご家族の面会は、大事を取った方が良いという判断も、あり得ますからねえ。まあ、お昼には決めておきますから。ご主人はどこかでお食事でも取って、また午後、気楽にお越しください。気楽に、ね」

 スッと立ち上がった加藤はまた眼鏡をかけて、その鋭く見える眼光を隠した。

「それでは、私は外来がはじまりますので、これで。お大事に。お大事に」

 長身をくねらせて飄々ひょうひょうと、加藤は去っていった。

 入れ替わりに、夏木看護師が近くを通りかかった。

「あ、玉城さん。どうか、なさいましたか、こんなナースステーションの中で。あれ、もう良いんですか?」

 いつものように明るい声をかけてくれるが、ケンイチは軽く会釈をしながら、その場を立ち去ることしか出来なかった。

(サチが、熱を出すなんて……)

 店を切り盛りしていたころ、サチは一度も休んだことがない。まったく病気とは無縁だったのだ。だから、ケンイチはどこかで、安心しきっていた。

 その安心感に、根拠が何一つないということを、いまさらながらに気がついた。

 寝不足の頭が、ズキズキと悲鳴をあげている。

(これが、ミサと、いや、おふくろと、何か関連があるのだとしたら)

 足元がゆがむような感覚に戸惑いつつ、ケンイチは、昨日の院内に併設された喫茶店へと向かった。

 今日は、雷鳴が来ないことを、祈りながら。

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