七 蜘蛛の巣は、血に染まる

 シュンシュンと鳴るやかんをコンロからおろし、シミのついたコーヒーカップにお湯を注ぐ。

 インスタントと言えど、この時間に一仕事終えたあとのコーヒーの香りは、なんとも言えないやすらぎを感じる。

(今夜も、二時過ぎ、か)

 先ほど投稿した“爆弾クリームコロッケ”に、まだDMが来る気配はない。

(当然、だな)

 今晩のレシピを投稿する前、ケンイチは前日のDMに直接返信していた。

『あなたは、誰ですか。なぜ、イカ墨のことを、知っているのですか』

 余計な言葉をいれず、ストレートに聞いた。

 いたずらであれば、どんな返信であろうと、おそらくはすぐにボロが出るような内容を返してくることだろう。

 “母の料理レシピ”は、この世界にたった一つ、自分の手元にしかないし、ケンイチ以外の人間はその内容を一切知らず、サチですら目を通したことはないのだ。

 まともにすじの通った内容が返ってくることなど、あり得ない。

 まあ、DMの送り主が多少なりともまともな神経の持ち主であれば、このつまらない内容にわざわざ返信してくるとも思えない。

(そろそろ、寝るか……)

 コーヒーカップなどを流し台で片づけているとき、スマホがステンレスの調理台の上で、ふるえた。

 ゴトトト、ゴトトトと気味の悪い音を立てて台上をすべったスマホは、運悪く床に落下した。

 背後でそれに気づいたケンイチが伸ばした手もむなしく、スマホはコンクリートの床に激突した。

「あっちゃー、マジかよ」

 見ると、スマホの画面には大きな蜘蛛の巣状のヒビが刻まれてしまっている。当たり所が悪かったようだ。

 落胆したケンイチは大きくため息をついて、拾い上げたスマホをポケットにしまおうとしたとき、ふと、気づいた。

 ヒビ割れた画面の向こう側に写る、DM着信通知に。

 イヤな予感が、した。

 指が震えるのが、分かる。

「いてっ……」

 画面のロックを外そうとスライドタッチしたとき、指を切った。

 ひび割れた盤面に、じわりと血が、ひろがっていく。

 蜘蛛の巣状のみぞに血液がしみ出し、スマホの画面があけに染まっていく。

 それを、ケンイチは近くにあったキッチンペーパーをちぎり、乱暴にぬぐった。

 慎重に画面のロックを外し、DM通知を確認する。

 ミサだ。

 文面を確認する。

『驚かせてしまって、ごめんなさい。私は、ミサと言います。今は高校生で……』

 違う。そんなことを、知りたいんじゃない。

『新鮮なイカから採ったワタとイカ墨の相性は最高だったって、聞いて……』

 聞いた? 誰から……。いや、そもそも故人を騙るお前は……。

 切った人差し指かられる血も気にせず、ケンイチは文面をなぞった。

『お料理のことや、イカ墨のことは、ある人に、聞いたんです』

 “ある人”。その単語を、ケンイチは何度もなぞった。

 液晶に血が混ざったのか、突然、蜘蛛の巣の内側が赤紫色に変色した。

「くそっ……なんだ、これ」

 もやもやとした焦りが頭を満たし、さらに人差し指、親指と盤面を無理やりこすった。

 こすった分だけ、指の皮がガラスで切りさかれ、ますます血がにじんだ。

 そのぬるぬるとした血は盤面の蜘蛛の巣を染め上げ、ミサのDMを隠す。

「落ち着け、落ち着け。ペーパー!」

 キッチンペーパーをつかみ、乱暴に引っ張る。

 どこかへ転がっていくロールの行方を気にも留めず、血を吸って染まり始めたペーパーを、変わり果てたスマホの盤面にこすりつける。

『その人は……お孫さんに……料理を食べさ……あげたいそうで……こっちに来れば……』

 よく見えない文面より拾う言葉から、脳裏に再構築される場景。

『はやく会いたいって、言っていましたよ』

 誰が、誰に、会いたいって?

『また、返信くださいね。ケンイチさん』

(……おふくろ……か!?)

 母の優しい笑顔と、ひつぎに納めたときのやつれた死に顔が一瞬交錯し、遠くから手招きをする、かつての母の面影が、死相と重なって、脳裏に強くフラッシュバックした。

「ギャアアアアアアァァァァァァァァ!!」

 誰もいない厨房で恐怖のあまりに叫んだケンイチは、でたらめな操作で、ミサのDMを消した。

 そして、何度も、何度も同じその操作を繰り返したが、最後に表示されたのは、ミサのブログの最後の一節部分であった。


—―もし天国に行くのが一人でさみしいのなら、誰かを連れていくといい……。

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