六 ミサの花ブログ

 帰りのタクシーで、ケンイチはずっとミサのブログを読んでいた。

「ウソ、だろ……」

 夕暮れの茜色に向かって走る車の社内に流れ込む、の光。

 曲がり角を曲がる度に向きを変え、右から、左から、ケンイチの青ざめた顔を夕日があかく染め上げる。

 ミサは、すでに故人だった。

 ブログのタイトルは『ミサの花ブログ』とあり、立ち上げられたのは七年前。

 最初の数年間は、花言葉や花占いの結果に併せて、本当に取りとめもない日常を書いた個人的な日記のような内容ばかりであったが、三年前の冬のころを境に、その内容は激変する。

 その前後、唐突な空白期間が約半年ほど入るのだが、あとの記事で、ミサが中学三年生の冬休み、つまり高校受験直前に重篤じゅうとくな病に侵されていたことをケンイチは知る。

 当時の顛末てんまつはブログ期間が空いており、かつ言及もないことから知るすべは無いのだが、きちんと高校へ進学していることを考えると、彼女自身と周囲の者たちに並々ならぬ努力、苦労があったことは、想像にかたくない。

 彼女が高校生活に入ってしばらくしてから再開されたブログの内容は、病名こそ最後の最後まで明確には明かされないものの、休みがちなことへの学友への謝罪と、長い闘病生活に入る予感めいた内容から始まっていた。

 だが、ケンイチの心を打ったのは、重い事実を淡々と語りながらも、読む者にどこか明るさを感じさせてくれる、不思議な魅力を持つ記事一つ一つの文章だった。

 空白期間前は天真爛漫なまでに不定期な更新頻度であったものが、闘病生活の公表後は、ぴたりと月に一度、最終金曜の夜にブログは更新されていた。

 その日が、各種検査結果と今後のことが医師より説明される大切な診断の日であることは、すぐに知れた。

 毎月の検査結果と医師の言葉を冷酷なまでに記載して、次の月にまたやって来る診断日までの生活を、希望あふれる表現でつづる。

 どうやら自宅療養が続いていた彼女が最後に記載したと思われる記事の内容は、以下のようであった。



—―〇月〇日 

 今回の検査結果:特に変わりなし。ありがたーいお医者さんのお言葉「君は、運がいい」

 あーあ。どこが運がいいんだろ。何も変わってないんだから、そんなときって、おみくじならば「中吉」? それって運がいいのかな。よくわかんない。

 そう言えば、たくさんの人が私の心配をしてくれて、中には病名を公表しちゃった方が楽になれるよ、って人もいるんだけど(友達にも、いつも教えてって言われちゃう)、それはずっと内緒。

 しめっぽーいの、なんか苦手なんだよね。

 ううん、今夜は、ちゃんと言っておかなきゃ、いけない気がする。

 病名が内緒なのはなぜかと言うと……ちょっと、こわいから。

 だって、大切な人に、心配かけたくないって、思うから。

 もしも私のせいで、世界のどこかの片隅で誰かが暗い顔になっている、なんて、考えただけでも、少しこわいと思いませんか。

 私の進学を応援してくれた友達や、家族、このブログを通して知り合いになった方とか、本当に多くの人に、私は生かされていると思う。

 みんながかけてくれる言葉の一つ一つから、私は自分が元気になっている姿を、ようやく信じることができる。

 もし、一人だったら。

 庭の片隅に、ポツンと植えられたうす黄色の水仙の花(あ、よくありませんか? 私の近所には、よくあるんですよね。さみしそうなポツンと水仙の花)のように、私はきっと、すぐにしおれてぱったり倒れてしまうって、そう思う。

 そんな私を、今はたくさんの人が応援してくれている。

 とても幸せだと、そう思います。そう思わないと、バチが当たるよね。

 あ、だからお医者さんは、「運がいい」なんて言ったのかな。

 それなら、あの場で暗い顔なんてするんじゃなくって、精一杯、ボケれば良かった。

「いや、検査結果、まったく良くなってないんだったら、運なんて全然よくないだろ!……と思ってしまった私に人の思いやりを思い出させてくれて、どうもありがとう!」なんて、腰をふりながら言ってやれば良かった(笑)

 また、来月の検査の楽しみが、増えました。あ、そうか。もう来年なんだね。

 来年は、いよいよ、大学受験かあ。

 みなさんは、将来、何になりたいですか。

 私は、きっと、みなさんが思い描いてくれたものに、なっています。

 きっと。



 その次の記事に当たる、彼女の最後のページの更新は、昨年の十二月三十一日。それは、母の命日に重なる。

 色とりどりの花を写した写真が表紙を飾る最後のページは、どうやらミサの母親が書いたものらしかった。



—―親愛なる『ミサの花ブログ』読者のみなさま。

 今日、ミサはやすらかに旅立ちました。享年十七才。

 皆様の応援のおかげで、発症から、三年もがんばることが出来ました。

 本当に、ありがとうございます。そして、えらいぞ、ミサ。よく、頑張りましたね。

 はじめは、余命三か月と、お医者様に言われました。

 思い返せば、その日は、私たち親にとって、本当に人生で一番、つらい日でした。

 ミサ自身はただの軽い肺炎だと聞かされており、当然、その回復を信じ、病室で幸せそうに寝息をたてるなか、最愛の娘の、予期せぬ死の宣告を診察室で受けた私たち夫婦は、世界中の悲しみを凝縮したかのような、絶望の淵にいました。

 出来ることならば、私たちの全部の血を、あの子のものと取りかえてやりたい。

 そのためなら、どんな犠牲もいとわない。命を棄てたって、かまいやしない。

 何度も、お医者様へ、そう訴えました。

 夫は、なんとかミサを救う方法がないか、知人をたずね歩いて、その日から一週間、行方知れずになりました。

 私は、ミサが入院している間、彼女の手をにぎることしか出来ず、娘の友達が見舞いに来るたび、外に逃げ出していました。

 あの、退院後の、一緒に通う予定の高校のことや、そもそも、間近に迫った、受けられるかどうかさえ絶望的な受験のことを話し合う、本当に、本当に楽しそうな未来で輝いている彼女たちの空間は、私には、どうしても耐えられませんでした。

 無力でした。私たちは、ただ、無力でした。娘が死に向かっているのに。あれほど、可愛がっていたのに。いざというとき、何もできない。

 親でいることに、こんなにも苦痛を伴うような責任の重さとみじめさを同時に感じたのは、はじめての経験でした。

 そして、憔悴しょうすいしきって帰ってきた夫と共に、私たち夫婦は、病室で不思議そうに小首をかしげるわが子に、死の宣告をしたのです。

 ずっとうなだれたままで抜け殻のようになっている夫へ『お父さん、元気ないね。大丈夫?』と声をかけてくれていた、優しい娘へ、夫はどのような気持ちで、その娘のか細い首を跳ね飛ばすかのような返答をしたのでしょう。

 いえ、私はわかっていました。

 私たちは、その時、もう覚悟していました。

 死のう。娘と一緒に、すぐに死んでしまおう。

 そうとでも覚悟を決めなければ、とても我が子に、残酷な真実など告げられません。

 そのときの娘の顔を、私はあまり覚えていません。私は、無責任な母親です。

 本当は、目をそらさずに、娘の顔をしっかりと見ておくべきでした。

 あふれ出る涙でぼやけた視界の中で、急に娘が限りなく透明になってしまったような心地さえして、私は椅子から飛び出し、消えゆく娘の手を決して離すまいと強く祈るように握りしめ、そのままベッド脇で、崩れ落ちてしまいました。

 ミサは、静かでした。夫も、黙っていました。私たちの世界は、静寂そのものでした。

 ただ、握りしめていた娘の手から、ゆっくりと体温が失われていくのを、私は感じていました。

 そのほんの少しの間、ミサは何を考えていたのでしょう。もしかしたら、泣いていたのかも知れません。

 三ヶ月というあまりに短い余命を聞いた彼女はしばらくしてから、『わかった』とつぶやいて、うなだれる私たちのことを、透き通った声で呼びました。

 私たちが顔をあげると、ミサは一言、『ごめんね』と言って、笑いました。

 まさか、と思いました。それは、これまでの娘からは見たこともない、とても美しい、慈愛に満ちた笑顔だったのです。

 何もできない、情けない、親失格の私たちを、この子は、優しくなぐさめようとしてくれたのです。

 夫も、私も、もう耐えきれずに、声をあげて泣きました。

 そして、その日も含め、私たちは、ついに一度たりとも、ミサの泣き顔を見ることはありませんでした。

 このブログを長い間、お読みくださったみなさまなら、ご存じかも知れません。

 あの子は、人に心配をかけることが、何よりも嫌いな、明るい雰囲気を好む子でした。

 まるで、向日葵の花が、いつまでも太陽の光を、追いかけているかのように。

 そして、ついにあの子は、ひとかけらの涙粒もこの世界には残さず、天国へ旅立ったのです。

 私たち夫婦に、かけがえのない、大切な日々の思い出だけを残して……。

 もし、みなさまの胸の中にも、ほんの少しだけ、ミサと共に過ごした日々の“居場所”を作っていただけたなら、親として、これ以上の幸福は、ございません。

 ここまでお読みいただきまして、感謝申し上げます。

 最後に。

 ミサ、ありがとう。私たちのところに生まれてきてくれて、本当に、ありがとう。

 もし天国に行くのが一人でさみしいのなら、誰かを連れていくといい。

 それに、出来れば私を、選んでほしい。

 だから、そのときには、いっぱい、抱きしめさせてください。

 だからどうか、そのときには、たくさん我慢していたであろう、あなたの本当の言葉を、ゆっくり聞かせてくださいね。



 うかがい知れる母親としての悲壮な感情が、ケンイチの胸を痛めた。

 不覚にも涙しそうになったとき、唐突にタクシーの運転手から運賃を告げられ、ケンイチは大げさな咳払いをしながら目端めはしをこすり、ようやくのこと、財布から千円札を数枚渡した。

 外は嵐の後の湿り気がアスファルトを濡らし、もう日も暮れていた。

(確かめなくては。あのDMの送り主が、一体誰なのか)

 不幸な故人を第三者がかたってDMを送りつけてきているのならば、そもそもが許せるものではない。

 だが、ミサの家族が代わりに出しているということも有りうる。

 しかし、これだけ悲痛な思いをしている家族が、最愛の娘を失ってたかだか半年程度しか経っていない今の時期に、わざわざ娘のふりをして無関係な我々のところへDMなど送るものだろうか。

 ごく親しい友人の可能性もあるが、それも同じこと。彼らも家族と同じく、深い悲しみにくれていることは間違いないだろう。

 しかも、ブログを読む限り、ミサの住んでいる場所は、明らかにケンイチの店がある町ではなく、遠く離れた地方都市であろうと思われる。と言うことは、DMの送り主がケンイチの店に来たことがあるかどうか、そもそも店を知っていることすら疑わしい。

 それでは、いったい誰なのか。

(まさか、本当に……)

 故人からのDMだとして、その目的は、一体何なのか。

「あー、アホらしい! それは後だ、あと! さっさと今夜の料理を作ろう」

 ケンイチは、タクシーからおりてしばらくぼんやりと見つめていた裏口の扉を、いきおい良く開け放った。

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