五 予感と、雷鳴

 翌日の天気は、曇りだった。

 まだ梅雨が明けないからだろうか、湿った空気はそのままで、空は分厚い雲に覆われ、昼の時間だというのに、少し薄暗い。

 ケンイチは今日もサチを見舞おうと午前中から病室を訪れたのだが、あいにく検査中とのことだった。

 ナースステーションでそれを聞いたケンイチは、対応した看護師に検査がいつ終わるのかを訪ねたが、めんどくさそうな顔で、そんなの分かりませんと言われてしまった。

「午前は検査立て込むんで。すみませんけど、旦那さんはどこか適当なところでお時間つぶして、また午後にでも来てください」

 パタパタと足音を響かせ、その看護師はすぐにどこかへ行ってしまった。

 見ると、ナースステーションの中にはもう誰もいない。

(やたらと、忙しい病院のようだな)

 頭をくしゃりとかくと、ケンイチはその場を離れた。


 総合病院であるこの病院は規模も大きく、通常は新規の産婦人科受付はしていないらしい。

 入院するのは他の産婦人科病院からまわされてきた患者か、サチのように救急で受付された患者だけだ。

 ケンイチが思うに、あの看護師の態度も、比較的大変な症状をかかえた患者が多くて、いちいち面会に来たのんきな家族になどかまってはいられないほど、忙しいということなのだろう。

 裏を返せば、サチのケースはこの病院の常識からすると、家族に気を使うほど特別な問題が無いとも受け取れる。

 そう思えば、あの多少ぶっきらぼうな対応でも、いちいち気にするほどのことではあるまい。

(さて、そろそろ、病室に戻っている頃だろう)

 敷地内に食事が出来る喫茶店があるのは、ありがたい。

 外はいよいよあやしい雲行きのため、店内も結構な混雑だ。

 ずっと小さなコーヒーとサンドイッチだけで昼過ぎまで粘っていた身としては多少申し訳なく感じたが、ごちそうさまと両手を合わせ、トレーを持ってケンイチは立ち上がった。

 昨日SNSにあげた“牛こま肉の黒カレー”の反応が気になるが、出来ればサチと一緒に見たい。

 ちょうど店を出たとき、かすかに、背後で雷鳴が響いた。

 店は病院の内側と外側を繋ぐように存在し、どちら側にも出入りできる構造だ。

 病院側の出口を出たところでケンイチが振り向くと、反対側、つまり外に面した方の出口が見える。

 今、外は薄暗い。雨が、強く降っているようだ。

 店内の客の多くも、先ほどの雷鳴にどよめいて外の雨雲の様子を気にしている。

 その刹那、振動すら感じさせるほど、空が強く光る。

 すぐあと、また、雷鳴が響く。

(昨日は、よく晴れていたのに。これは、何か悪いことでも……)

 その先を考えそうになり、ケンイチはすぐに思考を止めた。

 足早にエレベーターホールまで向かう。

 このあとは、産婦人科病棟に向かい、サチの病室で、昨日と同じように話をするだけ。

 それだけのことに、何かしらの“”を感じることは不要だと思った。

 この季節、突発的な嵐はよく起こることで、気に止める必要など、全くないのだ。

 何せ、梅雨はまだ、明けてはいないのだから。


「ああ、玉城さんのご家族の方ですか。ちょうど、良かった。ちょうど、ね」

 不意に背後から話しかけてきた白衣の男は、無機質な表情のまま、かたわらの看護師に何かを耳打ちした。

 ケンイチがナースステーションでサチの在室を確認していたときだった。

 振り向いてすぐ、何かを耳打ちされたその看護師が、廊下の奥へと駆けていく。

 サチの病室の方へ、向かうのだろうか。

「さ、玉城さん。こちらへどうぞ。じきに、奥様も来られますから」

 白衣の男は、無機質な顔のまま口角だけをあげて、ケンイチを案内する様子を見せた。

 彼が示した手の先は、病室が並ぶ方向とは違う、ナースステーション脇の小スペース—―面会家族、友人らの待ち合いや、病室に入れない小さな子供らが待機するために利用する部屋で、四人がけテーブル二つほどの空間—―の方だった。

 今は、誰もいない。

(なんだろう。はじめて見る医者だ。診察室以外のところで、何の話だ)

 ケンイチの怪訝けげんな表情に気づいたのか、その医師は少し先を歩きつつ、声をかけてきた。

「ご心配なさらずとも、大丈夫ですよ。堅苦しいお話では、ぜんぜん、ありませんから。まだ、ね」

 冷たい印象のする銀縁メガネ、その奥で、わずかに医師の目が光ったように、ケンイチには感じられた。

 通された小スペースからのぞく外の景色は薄暗い雨模様で、灰色のビル群が鈍く空模様を反射している。

「まぁ、どうぞ。お座り下さい」

 この医師は、表情に乏しい。

 その様子のまま、軽い物腰で席を促され、ケンイチは少しく混乱状態のまま、それに従った。

 サチの身に、何か問題でもあるのか。

 いや、お腹の子か。

 今日の雷雨が、恨めしい。

「あの、お話とは」

「もちろん、奥様のことです。あと、お子様に、ついても」

「はぁ……」

 医師はテーブル上で両手を組み、少し改まった様子を見せる。

 ケンイチは、腹の底に鉛の重石おもしが詰められるような感覚を覚えた。

玉城たまきさん、あまりそう難しい話ではありません。一般的なお話なんです。あと数日、今日で入院二日目なのですから、具体的にはあと二日でしょう。その期間、もし奥様に陣痛なく出産もできない場合は、母子共に大変危険な状況に陥ります」

「は?」

 遠くの方で、また、雷鳴が聞こえた。

「あ、あの、危険って、どういうことでしょうか」

「ああ、簡単なことなんです。当たり前のことなんですよ、玉城さんの奥様が特別なわけでなく。破水から四日も産まれないで放っておくと、胎児の感染症やら低酸素脳症などのリスクが充分に高まる、胎児が犯されれば当然、母体も危険にさらされる、それだけなんです。当たり前なんです、だって、羊水で今まで守られてたのに、それが破れて漏れちゃっているんですからね。誰でも、そうなんです」

 組んだ指先をくるくると脳トレのように回しながら、医師は一息にそう、まくし立てた。

 ずれている。何かが、ずれているぞ、この医者は。

 そう直感した感性と、サチと腹の子を救う方法を検討する理性とが、ケンイチの脳裏で錯綜さくそうする。

「え、あの。それで、サチはどうなっちゃうんですか?」

「いえ、別にどうもなりません。安心して、くださいね」

 語尾の方に、妙なイントネーションを持ってくる医者だ。

 頭から血の気が引いていくのが、わかる。

 ケンイチは、怒りと焦りで椅子の下に折り曲げた左足が痙攣けいれんするのを自覚した。

「いや、安心って。どういうことか、ちゃんと説明してくださいよ。全然、わかりませんよ」

「ええっ? 困りましたね、今のでわからないと言うのは、ホントですか」

 はじめて、医師の表情が変わった。

 昔、九九の段で一の位が出来なかった級友に対して教師が見せたのと同じ顔を、久しぶりに見せられた。

 人でなしを、見る顔だ。

「あのね、先生。悪いですけど、困ってるのはこちらの方ですよ。妻は危険なんですか、どうなんですか」

「ああ、今は大丈夫ですよ」

 事も無げに、言ってのける。

「それで、何が問題なんですか」

「いや、問題なんて全然無いんですよ」

「はあ?」

「あ、今は、ですよ? だからね、このまま、あと二日、もし何も無かったら、これはとても危ないんですよー、と言うことなんです」

「で、我々にどうしろと?」

「いえ、玉城さんにどうしろと言うお話じゃあ、無いんです」

「すみません、先生。さっきから全然わからない。だから、どうしたらその危険を回避出来るんですか?」

 多少、大きな声を出してしまった。

 だが、この医師にそれを気にする素振りは全くない。

「ええ、ええ、ですからねえ。玉城さんに出来ることなんかありませんから、いつもと同じようにお過ごしいただければ問題は……」

「いい加減にしろ!」

 ケンイチは、目の前のテーブルに右こぶしを叩きつけた。

「俺は、何としても妻を守りたいんだ! 当然、腹の子もだ。そのためには、何でもやる覚悟だ。それを、あんた」

「ケンちゃん。そこまで」

 声の方を向くと、サチが立っていた。

 近くには、先ほど駆けていった看護師の姿もある。

「お前、大丈夫なのか」

 興奮気味のケンイチをなだめるように、サチはすぐには応えず、落ち着いた様子でケンイチのとなりまで来ると、すっと椅子を引いて腰を落ちつけた。

「大丈夫に決まってるじゃない。別に、病気じゃないんだから」

「すみません」と、ついてきた看護師が言う。

加藤かとう先生、少し、と言うか、とんでもなく言葉足らずなもので」

 ペコリとケンイチたちにお辞儀をした看護師は、すぐにカツカツと靴音を響かせて、加藤と呼ばれた医師のすぐ脇に立った。彼のつむじを見据みすえる位置で、腰に手を当てる。

「ほら、加藤先生! なんで一人で話をするの。またご家族、怒らせちゃって」

「え? 怒らせてたかな、私。そんな、バカな。夏木なつきくん、私はいつも通り、だったよ」

「それがダメなんです! もう、わかれー!」

 夏木という看護師は快活な様子で加藤医師を一喝した。加藤はまだ、何やら言い訳めいたことを言っている。

 ケンイチが呆気あっけに取られていると、サチがささやいた。

「あのね。加藤先生、とても優秀な産婦人科医なんだけど、患者への説明がどうしようもなく下手なの。本人はとても気を使って簡単な説明をしているつもりなようなんだけど、何ていうか、絶妙に相手心理の裏をかいちゃうから、大抵の相手を激怒させちゃうのよ」

「はあ……」

 目の前では、まだ夏木が加藤を説教している。

「先生は誤解受けやすいんだから。私たちがついているときなら、フォローも出来るけど。だいたい、ここで治療方針のお話するなんて、非常識にもほどがありますよ! ちゃんと診察室でお話ください!」

「いや、だって君がここで待っているように言ったんじゃないか」

「それは診察室の準備と、奥様の呼び出しに時間がかかるので、ご家族への不安を和らげる意味も含めて、ここでお待ちいただくのが良いということになっているからです」

「そうだろう? 私は、何も悪くはない」

「いいえ。ご家族の不安をあおるような治療方針をお話してしまったのでしょう」

「いいや。していない」

「それじゃ、何をお話して、玉城さんを怒らせたんですか?」

「世間話だよ」

「うそです」

「いいや、ホントだよ。ねえ、玉城さん」

「は? いや、あの」突然、話をふられても、ケンイチにはどう応えたら良いかわからない。

「妻が、危険な状況だということは、よくわかるお話でした」と伝えるのが、精一杯だった。

「ほら! やっぱり誤解されてるじゃないですか!」

「うーん、おかしい。一般的な話題で、一緒に盛り上がっていただけ、なんですよ。さっきのは、ね」

 加藤は首をかしげる。それを見て、ケンイチも首をかしげた。

 その様子に、サチと夏木は目を合わせて苦笑する。

「コホン。それでは、玉城さん。診察室へどうぞ。ほら、加藤先生は先に行って! 第一診察室です!」

 夏木に追い払われて駆けていく加藤のひょろ長い背中を眺めながら、ケンイチたちも身重のサチについて、ゆっくりとその後を追った。


「やれやれ。人騒がせな」

 サチと共に病室に戻ったケンイチは、丸椅子にどっかと腰をすえた。

 無駄に疲れた心地がする。

「つまり、あと二日、何もないまま経過すると色々とリスクが大きいから、それまでに薬の投与なんかが始まる、と言いたかっただけなのかよ」

「診察室の外だと、中途半端な内容だけだったから、不安になっちゃうよね」

 夏木看護師が、診察室内でさんざ加藤医師に指摘していたのは、そのことだった。

 皮肉なことだが、加藤はたしかに、投薬予定などの治療方針については一切話をしなかった。また、破水入院から四日以上は感染症等リスクが高まるという話も、一般的な話には違いなかった。

「あと二日、ねえ。まあ、後から考えれば、不思議と最初からそう言っていたような気もするな。何で、あんなに頭に来たのだろう」

「ケンちゃんも、まだまだ未熟だってことなんじゃないの」

「そうかもなあ……」

 ケンイチは嘆息して、病室の窓の外を見た。

 一時の嵐は過ぎて、今はすでに陽の光が顔をのぞかせている。

「でも、少しだけ、嬉しかったよ」

「うん? なにが?」

「ケンちゃん、真剣に、私たちを守ろうとして、怒ってくれていたから」

「ああ。ん、まあな」

 照れくさい気がして、ケンイチは窓の外を見たまま、適当に返事をした。

 ちらりとサチを見やると、彼女は優しい表情で腹の子をさすっている。

「さて、と。サチさんよ、また一緒に、SNSの反応でも見ましょうや」

 ケンイチはズボンから手早くスマホを取り出して、昨日アップした“牛こま肉の黒カレー”の画面を出した。

「お、昨日より少し“いいね”の数が増えているみたいだな」

「へえ、すごいじゃない」

「結構、自信作だったからな。これ」

「どういう料理なの?」

「よくぞ聞いてくれた」

 サチの関心も買って得意になったケンイチは、画面を指し示しながらレシピの説明やら思い出やらを話した。

 この黒カレーは、主にステーキやビーフシチューの仕込みで余った牛肉の端っこを集めてカレーにしたもので、これまた余りのイカ墨を使って黒カレーに仕上げたものだ。

 ケンイチはこのメニューが大好きだったが、実のところ、あまり食べた経験はない。

 運良くイカ墨が余らないと食べられないからだが、このイカ墨は相当幸運な日でないと余ることはまず無かった。

 店には、イカ墨のメニューはリゾットとスパゲッティーしか無いが、それらは掲示板のおすすめに時々載るタイプのメニューで、朝の仕入れがうまく行った時にしか注文は取らない。

 父のこだわりで缶詰などのイカ墨は使わないため、仕入れのイカから取れるものが全て。だから、提供数もわずかで常連にも好評なものだから、実際、イカ墨が余ることはほとんどなかった。

 そういった意味で、ケンイチにとっては比較的特別なメニューなのだが、今回、イカ墨はあえて市販の手に入りやすいもので作った。

 休業中で朝の仕入れをしていないこともそうだが、気軽に母のレシピを普通の家庭でも楽しんでもらいたいと考えたことが一番の理由だ。

 結果として昨晩完成したものの味は、我ながらかなりのものだった自負がある。

 もちろん、新鮮なイカを使ったものとは比べるべくもないが。

「すごいじゃない、私も食べたいな」

 サチは渡された携帯の画面をりながら、うっとりとしているようだ。

「それじゃ、退院したらすぐにこしらえてやるよ。きちんと仕入れたイカを使ってな。そのレシピだとコクが足りなくて、仕方なく隠し味に味噌と醤油を使うんだが、どうしても余計なアルコール臭と雑味が残る。新鮮なイカから作ると、うま味の質が全然ちがうんだよ。こう、突き抜けるような」

 手のひらをロケットのように頭上へ打ち上げて、ケンイチは味を表現した。

「あはは、オーバーね。でも、楽しみだわ。あ、これ、DMだっけ。表示が出てるみたい」

「お、ホントだ。ちょっと貸して」

 携帯を受け取り、ケンイチはDMを確認する。

「また、昨日のミサって子からだな。時間は午前二時だから、俺が記事を公開してすぐにDMくれているみたいだよ」

「あら、ずいぶんと熱心なファンの子なのね」

 ファンという言葉を受け、ケンイチは心の奥にぽっと、暖かな火がともったように感じた。

 が、それも長くは続かなかった。

「うん? ちょっと待て。おかしいな」

「どうしたの?」

「いや、ここにさ。『このレシピ、ちょっと作り方違いますよね』って、指摘が入っている」

「ふうん、ずいぶんと“”ファンの子なのね」

「いや、そういう意味じゃないんだ。『新鮮なイカがあれば、味噌も醤油も足さなくて良いって』……」

 ゆっくりと読み上げるケンイチの声に、「あら、ずいぶんと……」というサチの言葉が重なったが、ケンイチはそれには応えず、そのまま最後の句を読み上げた。


――そう、言っていました。


 外の雨上がりの景色が嘘のように、ケンイチの心のどこかで、かすかな雷鳴が響いた。

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