四 はじめての、DM

「……はっ! しまった、店開けないと!」

 窓から入る光、すずめの声で目が覚めた。

 二階の狭いダイニングキッチン、そこのテーブルに突っ伏した形で寝ていたケンイチは、とっさに時計を見た。

「あ、いてっ!」

 寝違えたか、首筋に張りつくような痛みが走り、思わず顔をしかめる。

 時間はすでに七時をまわっている。

 今日は火曜だから、買い出しの日ではない。助かった、この時間では到底間に合わないところだった。

 急いで階段をかけ下りる。

 薄暗い厨房に入り、裏口を開けて、外をのぞく。

「……ん?」

 何も、ない。

 いつもならあるはずの、段ボール箱、毎日届く注文野菜の箱が、無い。

 突っ掛けサンダルのまま外に出て、周囲を確認したが、やはり段ボールの箱はどこにも無かった。

 首筋の痛みを気にしながら、一周ぐるりと首を回したとき、裏口の張り紙に気がついた。

『配達ご苦労様です。今週いっぱい休みますので、ご注意下さい。洋食たまき』

 それは、配達業者各社へ電話連絡したあとに、念のためと言うことで、昨日自分で張った張り紙だった。

「やれやれ。病院、行くか」

 いささか重たく感じる頭をもてあまし、ケンイチは大きくその場でため息をつきながら、首筋をさすっていた。


 病室に入ると、サチは起きあがって本を読んでいた。

「おーっす」

「あ、ケンちゃん。お疲れ様」

 サチは嬉しそうな表情を見せ、読んでいた本を脇に置いた。

 特に普段と変わらぬ様子にケンイチは安心して、ベッド脇の丸椅子に腰かけた。

「暇してないか?」

「ううん。むしろドキドキ。ほら、これ読んでるし」

 サチが脇に置いた本を、優しくなでる。

「名付け辞典、か。そういえば、結局まだ名前、決めきれてなかったな」

「うん。だって、ケンちゃん、全然決めてくれないんだもの」

「え、いや、だってなあ。いざって言うと、意外と難しくて。なんつーか」

「人生、かかってるからって? 本当に、料理以外は頼りにならないんだから」

 くっくっとサチが笑う。

 いつの頃からか、母の笑い方がうつってしまったらしい。

「ま、まあ。俺の名前も、おふくろが決めたらしいし、そういう、ものなんじゃないの?」

「なに、それ。どういうものなのよ」

 仕方ないわね、と笑うサチに、ケンイチは首筋を気にしながら、まあ頼むわ、と応じる。

 まだ梅雨が明けたしらせは聞かないが、午前の柔らかな日射しは、レースのカーテン越しに病室全体を淡く照らし出している。

 もうすぐ、蝉の声がし始める。

 そうすれば、このどこかのんびりとした光も、じりじりとした熱気に塗りつぶされて行くのだろう。

 そして、自分は父になる。

 サチは、母になる。

 ケンイチの心に、あの手をつなぐ親子の様子が浮かぶ。

 見ると、サチはずっと、自分のお腹を愛おしそうにさすっている。

 きっとサチの心の中でも、自分と同じような情景が浮かんでいることだろう。

 そう思うと、自然と笑みがこぼれる。

 この最愛の妻と、新しく生まれてくる命を、何としても守りたい、という強い感情が沸き上がってくる。

 同時に、一抹の悲しさも頭をもたげてくる。

「おふくろにも、会ってもらいたかったな、俺たちの子供に」

「そう、だね」

 サチの顔にも、じわり悲しみがひろがっていくのが分かる。

「あ、すまん。こんなこと、言って」

「いいよ、気にしないで。お義母さん、あんなに楽しみに、してくれていたものね」

 妻の気持ちを思うと多少の後ろめたさはあるのだが、ケンイチには、悲しみを共感できるこの妻の存在は、本当に心強い。

 かつて、家業の店のファンだと言ってくれた妻は、その言葉どおり、ずっと一家全員を支え続けてくれた。

 ケンイチは、思う。

 あの時、妻から実家の店のファンだと言われたときの気持ちは、生涯忘れないだろう。

 この実家の小さな洋食店が、自分の故郷であり、原点であり、反発の象徴であり、好敵手であり、料理人としての人生で、ただ一時も無視できぬ、偉大な存在であったことは間違いない。

 つまりは、どうしようもなく好きで、救いようもなく嫌いで、そんな混沌とした感情のもつれた糸を、自分ではどうしてもより分けられなかった。

 それを、妻の一言が、一変させてくれた。

 サチの小さな唇から聞こえた「このお店のファン」だと言う言葉。

 それまでのわだかまりが、あの時にすべてぶっ飛んでしまった。

 思えば、この言葉が聞きたくて、料理人は一生を費やしていると言っても過言ではない。

 そう思うと、やはり、実家を継いで良かったと思える。

 サチと一緒なら、きっとどんな困難でも、乗り越えられることだろう。

「あ、そういうことか」

「えっ、何が?」

「あ。いや、何でもないよ」

 いつも寡黙に母を使役していただけのように思えていた父が抱いていた、母に対する感情は、きっと、こんな心強さだったのだろう。

(人間、同じ立場に立たないと、わからねえもんだなあ)

 ケンイチは、サチのお腹にそっと、手を伸ばした。

「もうすぐ、なんだな」

「うん。もう、すぐ」

 窓の外から、どこかで遊ぶ子供たちの声が響いた。それに合わせるように、病室のカーテンがすべて、静かに波打っている。

「そうだ。そろそろ、昨日アップしたレシピの反応がある頃だ。見るか」

「うん、見せて見せて」

「よし。ちょっと、待ってろ」

 ケンイチは自分のスマホ画面に、店のSNSアカウントにあげた記事を映した。

 記事の先頭には、厨房で実際に調理した料理の写真が大きく掲載され、続く内容には簡単なレシピと、いくつかの調理過程の写真、細かな調理手順の説明を加えている。

 それほどフォロワーがいるわけではないが、すでに百を越える「いいね」がついている。

 いつもよりも多い数だ。

「ほら。なかなか評判なようだ」

 スマホを受け取り、サチは静かに指を滑らせながら、記事を読む。

「ふうん、“唐揚げ卵とじ丼”かあ。たしかに、ふわっとした玉子の具合がとても美味しそうね」

「お、DMなんかも来てるな。ちょっと貸してみろ」

「ディーエム?」

「ダイレクトメッセージ。俺たちに向けて直接送られてきた、ファンレターみたいなもののことさ」

 脇からのぞいていたケンイチは、サチから再びスマホを受け取り操作する。

 サチは昔からSNSをやっていなかったので、この手の操作はいつもケンイチが行っている。

 以前に店のアカウントを見るのに便利だからと言ってアプリのインストールを勧めたが、『なんだか怖いから』と言う理由で断られた。

 だけでなく、サチは普段からスマホをあまり使わない。

 店のアカウントを見ないどころか、ネット検索やニュース記事、ブログなどを追いかけることすら、あまりしないようだ。

 本は比較的よく読むようだが、彼女にとってはスマホを使って情報を得ることは、あまり興味の無いことらしい。

 そういえば、出会ったころは女子大生のくせにガラケーしか持っていなかったので、ケンイチはサチのこういった文明の利器りき疎いうとところについては、“素朴で奥ゆかしいのだ”と理解することにしている。

「ん、この子、『私もこれ、食べたことあります』なんて感想送ってきてくれてるな」

 ミサと言うアカウントからのメッセージを、サチに読んで聞かせる。

 短い内容だが、本当に今回の記事の料理を食べたことがある印象を感じさせる内容だった。

 文面から察するに、年の頃は十代だろうか。ついでに開いたアカウント情報からすると、女の子だろうと思われる。

「かわいいわね、きっと似たような料理をお母さんか誰かに作ってもらったのね」

「そうだな。よっぽど美味しかったんだろう。レシピはもちろん違うだろうけど、こんな反応をもらえるなんて、素直に嬉しいよ」

 さすがにDMまで送って感想をくれたのはこの子だけだったが、まるで母の料理がほめられたように感じ、ケンイチは思わず笑みをこぼした。

「お、この子、ブログもやっているね。女子高生みたい」

「ええっ、何でそんなことまで分かるの?」

「何でって、普通にこの子のアカウント情報にURLが載ってるからだよ。そこからたどれば、誰でもすぐに分かる」

「こわーい、やっぱりこわーい」

 妻の予想通りの反応に、ケンイチは苦笑してしまう。

 それにしても、早速これだけの反応があるのであれば、この企画はやって正解だったと思う。

(よし。早速、今晩もおふくろのレシピをあげることにしよう。一番反応が良かった料理を新メニューの候補にしても良いな)

 どこかウキウキとした様子を見せるケンイチを、サチも優しい表情で見守っていた。


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