三 店を、継ぐ
父は、偉大な“町の洋食屋さん”だった。
今では、素直にそう思える。
ケンイチが今まで
そして、有名人にでもなっていた気がしていた自分は、所詮ホテルの看板が無ければ、ただの無名な料理人に過ぎない、という事も痛感させられた。
常連客が好むのは、いつもの味であって、新進気鋭シェフの味などではない。
その常連の客層も、商店街のなじみ、近くの学生、サラリーマンがほとんど。
彼らの多くも、実際のところ高級フレンチなど眼中にない。
簡単に言えば、白飯をいかに気持ちよくかっ込めるおかずが、安く提供されるか。
それだけだ。いや、それが、死ぬほど難しかった。
食材の良さを最大限に引き出せるよう、伝統と経験から身につけた技を駆使し、味つけの流行りも取り入れながら、五感を楽しませる工夫を繊細に編み上げる。
ホテル姉妹店の料理長だったころ、そう当たり前のように考えていた。
コストは、あまり考えなくても良かった。
食材は、リクエストさえすれば、ほぼ好きなものが勝手に揃えられた。
季節を感じさせるのに、優れた素材以上に説得力のあるものは無い。
四季のメインさえ必死に創作してポイントを押さえておけば、あとは、その優れた素材を部下にでも調理させておくだけでも格好は整う。
それにホテルのブランド力、広報力で、客足も途絶えないし、雑誌には評価の良い記事が勝手に並ぶ。
そもそも、自分の下には優秀な実力を持つ部下が何人もいるのだから、季節ごとにレシピを厨房に貼り付けるだけでも、正直なところ、ほぼ店がまわってしまう。
だが、町の洋食屋さんは、そうはいかない。
オリジナルのブイヨンやソース類は、前日の夜から仕込んで毎日火を入れないと、すぐにダメになってしまう。
仕入れは早朝に市場で毎日探さなければ、人脈も素材も揃わない。
全て、自分でやるしかない。
素材の
一度、ニンジンを熊本産から流通コストの低い近県産に変えたら、常連からデミグラスの味が薄いと文句を言われた。
あやまる母の背を見つめながら、
高級フレンチを評価していた
長い目で見てやるから、さっさと親父さんの味、きちんと継ぎな、と捨て台詞で去っていくじいさんを見送って、母は言った。
『あのじいさん、しょっぱいのが好きなんだよ。少し、醤油でも足してやんな』
『え、は? それ、だけ?』
母は、一つため息をついて、付け加えた。
『あとね、ゴボウ、仕入れなかっただろ。あれもね、うちのソースには、大事なんだよ』
雷に打たれたような衝撃を受け、ケンイチは立ち尽くした。
今までの自分の常識が、全く通じない。
これまで必死に身につけた翼では、この世界で羽ばたくことすらできそうにない。
むしろ、自分が一時、有名人になって雑誌の紙面を賑わせた創作フレンチの羽は、すべてむしり抜かねばならない心地だった。
そのうえ、これから引き継ごうとしている店のメニューの数を考えると、もうケンイチは気が遠くなりそうで途方に暮れた。
そもそも、父のレシピは数十年前の開店時に記載されたと思われるノートが数冊あるだけ。
父は、レシピなど書いて残す人ではなかった。
つまり、そちらは当てにはならない。
残される手がかりは病を患った母だったが、あまり無理もさせられないし、まかないしか作っていない母に、過大な期待も出来ないとケンイチは思っていた。
だが、驚いたことに、母は最近のレシピ、それだけではなく季節ごとの素材の仕入先まで、全て把握していた。
恐らくは父が勘で行っていたろう味つけのさじ加減まで含め、全てをその小さな頭に叩き込んでいたのだった。
それらを、弱っている母に全て書き残してもらうことは、土台無理な相談だった。
ケンイチは、母に弟子入りする気持ちを強く持った。いや、真剣にそうしなければ、とても全う出来そうもない仕事だと、覚悟を決めた。
店を引き継いだ当初、母にはキッチンの片隅に座ってもらって、一つ一つの工程について細かくチェックしてもらいつつ、何度も味見をしてもらった。
サチは大学卒業して就職していた広告代理店を辞めて、ホールに立ってくれた。
家計は苦しかったが、家族一丸で挑んだ時期だった。
その数年間でケンイチは、父の守ってきたものが何か、ぼんやりと分かってきたような気がした。
父は、自分が料理を振る舞う全ての客の、“居場所”を守っていたのではないか。
ケンイチ自身はこれまで、ずっと世の中に認めて欲しくて、ただ自分の料理を世間に叩きつけるように出してきた。押しつけてきた。
だが、父は、どうだ。
確かに料理にプライドは持っていた。文句を言われれば相手に怒鳴り返しもしていた。
しかし、父は常に、客が食べたいもの、来店時にその客が思い浮かべていたものをそのまま出せるように、神経を最大限まで尖らせていたに違いない。
こうして父の代わりに、この厨房に立つと分かる。
客の顔が、気になる。
サチに料理を渡す、ほんの数秒。
カウンター越しのせまい視界に一瞬うつる常連の親父が、いつものごとく、バカ笑いしているか。
肩幅の張ったあの学生は、いつものごとく、皿までなめるように料理を平らげているか。
奥のサラリーマンは……。
いつもと違う表情ならば、俺は彼らの“居場所”を守れなかった、と言うことだ。
それが、死ぬほど辛い。
悲しくて、仕方がない。
親父は、毎日、この厨房から料理を届けることで、彼らの日常に溶け込むかけがえのない“居場所”を、守っていたんだ。
そしてもちろん、俺ら家族の“居場所”さえも。
『そんな親父を支え続けたおふくろだから、孫の“居場所”も気になったり、してたのかもな』
『そうだね』
子供部屋を作るべく、二人で母の遺品を整理していたとき、サチは優しく微笑んでいた。
『俺、新しいメニューを出す前に、一度このおふくろのレシピを一通り自分で作ってみて、SNSにあげてみようと思うんだ』
不思議そうに首をかしげるサチのお腹を、ケンイチは優しくさすった。
『おふくろのレシピをなぞることで、この店に本当にふさわしい新メニューが、見えてくる確信がある。さらに、SNSの反応は、新しいお客さんの反応を見る絶好の機会にもなる。そして、完成した新メニューはきっと、この子にも安心できる“居場所”を提供してくれると思うんだ』
『そうね。売上アップでお店を残す意味でも、美味しい思い出の意味でも、ね』
――頑張って、お父さん。
ケンイチの中に、少しずつ自分が父となる実感が湧いてきていた。
こうして、彼は“母のレシピ”を、毎日一ページずつ、SNSにあげていくことにしたのだった。
初回は、サチを病院に送り届けた日の夜中。
ケンイチは、第一回の“唐揚げ卵とじ丼”の出来に満足して、店のSNSに記事を載せてしまうと、その日は倒れるように眠ってしまった。
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