二 母のレシピと、ケンイチ夫婦
“母のレシピ”が偶然見つかったのは、数日前のことだ。
母の遺品の中で、ろくに整理していなかった小さな段ボール箱の一つに、数冊の日記帳などと共に入っていた。
その母は、妻のサチが妊娠したことがわかるのと、ほぼ時を同じくして、眠るように自宅の二階で息を引き取っていた。
無念であったろうと、ケンイチは思う。
母は、誰よりも初孫を楽しみにしていた。
母がまだ何とか存命であった、昨年の暮れのこと。
『ここね、ここ!』
二階の自室に敷いたうすい布団の上で、母はいつも明るく声をあげていた。
『ここで孫と一緒に寝られたらね、あたし、もう死んでもいいわ』
明るくも透きとおって聞こえる母の冗談に、ケンイチは最後まで愛想笑いすら出来なかった。
父との二人三脚で店を切り盛りしていたときの、力強い母の記憶。
その父が数年前に急死してからぷっつりと糸が切れて消沈していたときの、弱りきった母の記憶。
そして、病が篤くなるなか、孫の誕生を心の支えに何とか元気をふりしぼり、毎日を懸命に生きようとする、ここ数日間の母の記憶。
それら全てを思い返すと、ケンイチは張り裂けんばかりの感情で、胸がいつもいっぱいになってしまう。
母が息を引き取る前日、ケンイチは父から引き継いだ一階の洋食店を早めに閉めて、妻のサチと二人、母のかたわらにいた。
床に伏す母の布団の横で、じっとケンイチがうつむいていると、その隣に寄り添うように控えるサチに向かい、母は言った。
『サチさん、お願いね。情けないけど、うちの男どもは、こんなだから。いざってとき、てんで弱虫だから。死んじゃったお父さんも、お店に立つこと以外はからっきしで、他は何も出来ない人だった。私が風邪をひくだけで、お店を閉めちゃうような、ほんと情けない、人だった』
くっくっと声を漏らして静かに笑う母の声を受けて、ケンイチの脳裏には、口をへの字に曲げた仏頂面のままたたずむ、白い調理服姿の親父の姿が想い浮かんだ。
(そんな、さみしそうな姿で立ってんじゃねえよ。何とか、言えよ)
サチは黙ったままのケンイチの脇から自然と座を進めて、横たわる母の手をとり、手のひらでゆっくりとさすった。
母の声が、少し細くなる。
『だから、お願いね。サチさん、お願いね』
『はい、お義母さん。任せてください』
『いい子を、生んでね。きっと、ね。ここを子供部屋にしてあげて』
『はい、お義母さん』
母とサチは、そこから何度か言葉を交わしていた。
ケンイチは立て膝に顔をつけて、そのやり取りをじっと聞いていた。
やがて、母がぽつりと、もう休むわねと呟いたのを聞いて、ケンイチは急に、胸の奥を締めつけられる感覚に襲われた。
四つんばいの姿勢から母に近づいて、恐る恐る、声をかける。
『お、おふくろ、おい。おい!』
『ケンちゃん、待って……待って。大丈夫だから。休ませてあげよ、ね?』
ぽかんと口を開けて、呆然と妻の顔を確認したケンイチは、すぐに、あ、うん、と素直に従った。
驚くべきことに、ケンイチにはその時、サチの顔がまさに往年の母の顔そのものに見えた。
相手を優しく包みこむような微笑と、決して折れない心の光を湛えた瞳。
優しさと、力強さ。
もう記憶の中だけでしか見られないと思っていた、その母の面影。
少なくとも、ケンイチはそのように感じたし、恐らくはサチもそのようにふるまったのだろう。
母が息を引き取ったのは、それから数時間後のことだった。
ケンイチは、それから数ヶ月、すっかり気落ちして、母の遺品整理をする気が起きなかった。
日々の洋食店の切り盛りだけで、精一杯だった。
サチにしても、夫の気持ちに配慮したのか、特に何も言いはしなかった。
そのため、店の二階にある母の部屋は、しばらく放置されたままだった。
ようやく片付けようという気持ちがケンイチに芽生えたのは、ごく最近のこと。
サチのお腹に耳を当て、明確な命の鼓動が感じられるようになってきた、そんなある日。
すっと、子供部屋を作るために、遺品整理をする気になった。
不思議なものだが、そのころには、母も自分の部屋が子供部屋になることを、とても喜んでくれているのではないかと、自然にそう思えるようになっていた。
片付けをはじめてすぐに見つかった“母のレシピ”は、古い大学ノートで、タイトルには磊落な母らしく『料理メモ』とだけ記載されていた。
中には、色のついた絵と、材料、調理方法が見開きごとに一品、簡潔にまとめられており、数もそう多くは無さそうであった。
だが、パラパラと少しめくったケンイチの脳裏には、すぐにまかないを作っていた当時の母の姿が思い起こされた。
(そうだ。たしか、おふくろも、なかなかの腕前だったのだ)
かつて、ケンイチが小学生だったころ。 店仕舞いをしてからの夕食時、厨房の後片付けを済ませた父は、いつも黙って客席の一角でビールを飲みながら天井付近に据え付けたテレビをぼんやりと眺めるのが日課だった。
コック帽を握りしめてテーブルにつき、昼間厨房に立っているときが嘘のように脱力しているそんな父とは対照的に、その間、母はせっせと夕食をこしらえる。
客が一人でも残っているときに下に降りると怒鳴られるので、ケンイチはいつも恐る恐る二階からの階段を降りながら、頼りにしていたのは、“匂い”だった。
母の作る、まかない飯の“匂い”。
父の作る料理とは明らかに異なる、どこも気取ったところのない温もりある“メシ”の香りが階段の空気を満たすと、それはケンイチが下に降りても良いという合図なのであった。
『はーい、よいしょっ。お待たせ!』
父のかけたテーブルに母の料理が並ぶと、すぐに静かな夕食が始まる。
母のまかないは、店の料理の残り物がほとんどで、それほど品数があるわけでもない。
一品と余りのスープ、それにご飯が平皿に盛られているくらいのシンプルなメニューがほとんど。
だが、その一品一品には必ず母の一手間が加わっていた。
煮込みハンバーグの余りは、カレーペーストとチーズと共にオーブンへ投入され、香ばしい香り漂う焼きカレーになっていたし、付け合わせナポリタンの余りは豚肉の余りと共に、どこをどうしたか、パリパリと歯ざわり楽しい洋風トンカツに変貌していた。
ケンイチは、よく見かけるような父の料理より、母の作るそうした幼心をくすぐるような料理が好きだった。
父も、母の料理が好きだったのだろう、と思う。
料理について意見すると烈火のごとく怒る父だったが、母の料理の方が好きだと言ったときだけは、怒られなかった。
『俺も、そう思う。まあ、客に出す料理じゃあ、ないがな』
『当たり前でしょ。お金を頂く料理じゃないわ、あたしのはね』
幼いケンイチは口を尖らせ、それに異を唱えたものだ。
『なんだよ、俺は絶対、売れると思うな! 父さん、これ、店に出そうよ!』
母は少し困った顔をして、父は、なぜかとても嬉しそうに笑っていた記憶がある。
『ダメだっ! この料理は店では出さん! 出したいのなら、お前がこれを作れるようになって、自分の店で出せ!』
そう言ってコップのビールを煽り、何が面白いのか、いつまでも父は笑っていた。
『ちぇっ。俺は、世界で一番、母さんの料理がうまいと思うのに』
そう言ってガツガツと食事をほおばるケンイチに、いつも母はくっくっと笑い、家族のごちそうさまの声を受けて、静かに微笑みながら『まいどあり』、と言うのだった。
“母のレシピ”を見つけた直後、それを一枚ずつめくりながら、ケンイチの目頭には急速に、何か熱いものが込み上げてきた。
『これ、全部俺が大好きだったもの、ばかりじゃんかよ』
丁寧な線と色で描かれた料理の数々は、忘れかけていた記憶ごと、かつての思い出を引っ張りあげてくる。
父と、母と、幼い自分と。
鮮明な、匂い、音、そして、味。
『あんなに好きだったこと、いろいろ、忘れちまってたのか。情けねえ、情けねえよ。これで、料理人と名乗れるのか、俺は』
大学時代、父に反発して家を飛び出し、名を馳せる料理人の門戸をいくつも叩いては出奔を重ねた修行時代。
父が守っていた昔ながらの洋食に、革新を忌避する怠惰さを感じて、幾人もの新進気鋭と言われる料理人たちの元で修行をしたが、そのうちに気づいた。
彼ら全て、元々は何らかの伝統料理での修行を相当年月重ねていたことに。
自分とあまり年端も変わらぬ彼らは、大学までプラプラしていた自分とは違い、ろくに学校すら行かず、料理の修行を誰よりも地道に積み重ねていたのだ。
そんな彼らに、むしろケンイチは、技術を盗んでいつか追い抜いてやろう、とさえ夢想していた。
強烈な恥ずかしさに似た劣等感をいかに克服するかが、この頃のケンイチの全てだった。
すぐに、自分はこのままではダメだと言う思いに駈られて、安易にもフランスへ飛んだ。
だが、紹介もなく言葉も怪しげな英語しか話せない東洋人を、誰も相手にしなかった。
帰りの金は、持ち合わせていない。
有名店が居並ぶ大通りの路地裏にあった、中国人オーナーの寿司屋にウェイターとして雇われ、何とか日銭を稼いだ。
結局、その中国人オーナーに父が危篤だと嘘をついて航空券代を巻き上げて、文字通り尻尾を巻いて日本へ逃げ帰った。
その半年のフランス経歴にいくらかバレにくい嘘を盛って、都内の有名ホテルレストランへ何とか滑り込んだ。
それからは、必死だった。嘘がバレたら、バカにされ、最悪はクビだ。
少しでも技術が疑われそうになったら、夜を徹して練習した。休みなど、端から期待していなかった。一日のうち、二、三時間寝るほかは、全ての時間を技術習得に費やした。
三年ほど働いて、ようやく自分の中で、人間死ぬ気になってやれば、何でも出来るものだと言う自信がついてきたとき、チャンスが来た。
都内に新しく出来るショッピングモール内に、ホテル直営のフランス料理店を出すと言う。ケンイチは、そこの料理長に抜擢された。
当時、年齢は三十歳。
いくつかのグルメ雑誌にも取り上げられ、一気に世界が変わった。
店は連日繁盛し、雑誌に連載したコラムコーナーは大好評、テレビ番組にも何度か出演した。
ようやく、自分に自信がついた。
久しぶりに、実家の洋食屋にでも、顔を出そう。
そうして約十年ぶりに帰ったケンイチを待っていたのは、昔よりも小柄になったように感じる母と、相変わらず無口に鍋をかき混ぜる父だった。
父は、明らかに老けていた。
帽子からこぼれる髪は真っ白で、フライパンをふるう度に、体が少しがたつくような動きを見せていた。
席にどかりと座って足を組み、水を持ってきた母親に声をかけた。
『おいおい。親父、ありゃ大丈夫か? おふくろも、もう歳なんだから、そんな一生懸命料理運ぶのも、さ』
店は、相変わらず繁盛はしていた。
昔からの常連に、お、ケンちゃん、有名人のご帰還とくらぁ、などと声もかけられる。
『あたしは大丈夫。それにね。もう、一人じゃないからね』
『えっ?』
母が言った意味を理解しない間に、二階から若い女性が駆け足で降りてきた。
『休憩、ありがとうございました』
『えっ』
母と同じくらいの小柄な姿に、髪をナフキンで束ねた彼女は、もうすでにフロアに立ち、軽い身のこなしで次々と料理を運んでいく。
『サチさんね。近くの大学生で、アルバイトしてくれてるの。よく気のつく良い子だよ』
『え……』
ケンイチは、すでに何年も前から看板娘でいるかのように溶け込んでいる彼女の姿から、しばらく目を離せないでいた。
『ケンイチさん。何に、しますか?』
『……えっ?』
まさか、見とれていた彼女に話しかけられると思っていなかったケンイチの反応は、大いに周囲の笑いを誘った。
決まりの悪さを必死に隠そうと、ケンイチは足を組みなおした。
『あ、あれ。よく、知ってるね、俺の名前』
『ええ、もちろん! 私、ファンですから』
初対面で急にそう言われて、ケンイチの心に照れくさいような、でも人として信じられないような、少し彼女と距離を取りたくなる心理が一瞬働いた。
『ああ、そう。それは、どうもありがとう。サインでも、してあげましょうか』
『はっ?』
母とサチ、二人の声が同時に放たれた。
『なあにを、この天狗様は。あんたのサインなんて、誰もいらないよ!』
バシンっ、と肩甲骨のあたりを母に叩かれる。
いってぇ、と肩をさするケンイチの様子に、笑いの渦はさらに広がる。
笑顔の溢れる店内の中心にあるテーブルにつくケンイチのすぐ耳元で、サチがささやいた。
『ケンイチさん、私はーーこのお店のーーファンなんですよ』
そう言って笑うサチの姿を正面にとらえたとき、彼女は何よりも輝いていた。
少なくとも、ケンイチにはそう見えた。
しばらくして、ケンイチとサチは結婚した。
それを見届けてから、父は脱け殻のようにある日突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
そして、そのあとを追うように日々弱りゆく母と、閉めきった店、サチの悲しそうな顔が、今までの全てを捨てて父の店を継ぐことを、ケンイチに決意させたのだった。
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