一 四年前のはじまり

 身重の妻を病院に送り届け、ケンイチはタクシーの車内で、大きくため息をついた。

 もちろん、安堵のため息だ。いや、疲れもそれなりに、あるのかも知れない。

(予定は、再来週だってのに、もう破水だなんて……出るタイミング、間違えたのか。そそっかしい子だ、俺に似たのかな)

 男親に似るのは、女の子だという。

 もしそうであれば、ケンイチら夫婦が聞かされている、“男の子”だと言う予定も、“再来週”だと聞かされていた出産予定も、すべて出鱈目だったと言うことになる。

 ケンイチは、窓の外を眺めた。

 多くの店が立ち並ぶ目抜通りの中心線付近をタクシーは駆け抜けている。

 走る景色の流れの中で、ふと小さな子連れの親子に、一瞬目を奪われた。

(手をつないで、あんなに楽しそうだ。でも、初産ってのは、今朝の俺たちのように、きっと、みんな大変な思いをしたんだろう)

 家でくつろいでいたところ妻の異変に気づき、すぐに救急に電話した。

 救急車は時間がかかるとのことで、一番近くの総合病院を案内され、大慌てでタクシーに乗り、その病院の救急外来に駆け込んだ。

 そして、急場を診察してくれた医師から、とりあえず入院、そのまま予定を早めての出産となるだろうが、別段心配はないと聞かされ、診察室で胸をなでおろす。

 家から病院まで、怒濤のように感じた今日の顛末を、もう一度胸の中で巡らせる。

 ドタバタとして乱雑なそのイメージは、最終的に病室から出る自分を見送る、妻の力強い表情へと収束されていく。

『大丈夫。何も心配なんていらないから』

 いつの間にか柔らかな呼吸をしている自分に気がつく。

(母は、強し。か)

 ふと浮かんだありきたりなフレーズが、これほど魅力的に感じるとは。

 ケンイチは、思った。

 料理の世界でどんなに趣向をこらしたレシピが創作されようとも、時に、定番とかおふくろの味などと呼ばれる素朴な料理の方が魅力的に写ることが多い秘密も、案外こういうシンプルな日常の中に、その真理が秘められているのかも知れない。

(やれやれ、余裕が出ると、すぐ仕事のことばかりだ。それに、まだ、あの“レシピ”の中に、俺の求める新しい何かがあるとは、限らないのにな)

 それでも、やはり胸のうずきは収まらず、気づけば彼は、タクシーの運転手に近道をこと細かく指示していたのだった。

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