霊界レシピ
入川 夏聞
プロローグ
「ここ、か」
「まさか、本当に、あるなんて……」
夫婦と思われる中年くらいの男女が、ある町の片隅にある古い洋食店の前に、たたずんでいた。
店の看板は、ところどころ塗装が剥げており、お世辞にも立派とは言えない。
しかし、夫人の方は、その看板を見て、何やらこらえきれないものがあるようだ。
「ああ、ほら……『頑張るあなたの美味しい味方』……って」
「うん、そうだな。ここで、間違い、ないな。入ろう、よし、入ろう」
細身の夫人をかばうように、夫はしっかりとした足取りで、入口の扉を開けた。
カランコローン、と昔懐かしいベルの音が響く。
外の暑さがウソのように、店内の客席は、とても涼しい。
それに、意外と、人がいる。時間は、すでに午後二時をまわっていた。
いくら平日昼の比較的駅に近い立地とは言え、こんな路地裏の地味な店構えで、この時間帯まで客足が途絶えないのならば、なかなか繁盛していると言えるのではないか、と夫は考えた。
「いらやいませ!」
足元で、舌足らずな声がする。見ると、二、三歳くらいの幼児が、頭に小さなナフキンをちょこんとつけて、こちらへメニューを渡そうとしている。
「いらやい、ませ!」と、声を張りながら、精一杯背伸びをして、決して彼にとっては軽くはないであろう厚さのメニューを渡そうとしてくれるのが、微笑ましい。
夫人はすでに両ひざをたたんで、それに答えようとしていた。
「ぼく。ありがとうね、ありがとうね」
そう言ってメニューを捧げるように受け取る妻の目に光るものを見て、夫は慌てて天井を睨み、大きく息を吸った。
(いかん。あれから、どうも涙もろく、なってしまって。いかんな……)
そのとき、店の奥から、明らかに身重に見える女性店員が、かけてきた。
「すみませーん、お待たせしてしまいまして」
とても快活そうで、安心感のある雰囲気の女性だ。一目で、この店の女将さんであることがわかる。
「ああ、コーイチ! メニューは机に置いておけば良いのよ、もう、この子は。すみません、何か、粗相はございませんでしたか?」
「いいえ。何も。本当に、何も。今日は、とても素晴らしい日になりそうですわ」
「……? お席に、ご案内しますね」
柔和な雰囲気を崩さず、中年の妻の様子に少し不思議そうな顔をしながら、その女将はテーブル席へ二人を案内しようとするらしかった。
「ああ、お待ちを。そこの、カウンターでも、よろしいですか。実は、大将にね、ちょっと、お会いしたくて」
夫が申し訳なさそうに話を切り出すと、女将は景気よく応じた。
「もちろん、どうぞ。すぐに、お水をお持ちしますね」
今日も、厨房の中は熱気に満ちている。
外は今年、最高気温の熱波らしい。やれやれ、明日は息子の四歳の誕生日だというのに、暑苦しい。
ランチの喧噪が止んで、皿洗いもひと段落終えたケンイチがふとカウンターを見やると、いつの間にか、見知らぬ中年くらいの夫婦が二人、メニューも見ずに、ぴたり、とこちらを見ているではないか。
(なんだ? 見ないお客さんだな。旦那さんはかなり身なりは良いようだし、何だか金持ちそうだ。奥さんの方は、ずいぶんと美人だが、何だか古臭いカーディガンを羽織ってるな。ぼけっと何もしないで座って、こちらを見ている様子から察するに、わかった。中国のお客さんだな?)
ケンイチは適当なヤマカンでそう当たりをつけ、カウンターの夫婦に話しかけた。
「にィにィ、ファンにん! にィシふァン、ディエンしぇんま?」
ポカン、と口を開けてあっけに取られている夫婦の様子を見て、「しまった! マレーシア人か、素直に英語にするんだった!」とケンイチが舌打ちをすると、「待ってください、ケンイチさん」と夫の方から流暢な日本語が飛んできた。
「おいおい、なんだよ、日本人なのかい、お客さん。ったく、えらい恥かいちまった。きょう日、ここらじゃ見ないほど、羽振り良さそうだねえ。さ、すましてねえで、メニューでも見ててくれよ。ほら、目の前のつい立にあんだろ?」
「いえ、結構ですよ、ケンイチさん」
「おろ? なんでえ、何も食わねえってのかい? 待ってくれよ、うちの店はたしかにこんな、落ちぶれたなりはしているがよ? それでもな、ここらじゃあ、お
「ケンイチさん。お久しぶりです、私のこと、覚えていらっしゃいますか?」
とても親しげな微笑で自分の胸に手を当てて、夫人の方が話しかけてきた。
「ええっ? いやあ、あなたみたいな、えらいべっぴんな奥さんを、まさか忘れるとは思えねえんだが……あ、そういやあ、お客さん方、俺の名前、なんで知っているんですか?」
夫人は、コロコロとおしとやかに笑った。
「そうですね。それをお話する前に、注文した方が早いかも知れません。私たち、もう注文するメニューは、決めてきているんですよ」
「おう! わかった、お客さん方、もしや、うちのファンの方ですかね? SNSの。それなら、遠慮はいらねえですよ。聖地巡礼、大いに結構。ささ、なんでも良いですよ! ほら、ネットに乗せてる“おふくろの味”ってなあ、そこ! 日替わりでね。その正面の、そこんとこ、張ってあるでしょ?」歌舞伎で見得を切ったような顔で大げさに下へ目をむいて、ケンイチは指を下に示して、上下させる。
「それじゃあ、その“本日のおふくろの味”……の“
ピタ、っと、ケンイチの動きが止まった。カウンター端で新聞を読んでいた常連が、思わず「おい、ケンちゃんよ。あんだ、その
「あ……あんたぁ、それ……今、“黒”って、言ったかい?」
夫人は、自信に満ちた微笑を浮かべ、力強く、うなずいた。
ケンイチは、大げさにのけぞって、また再度カウンターに顔をすりよせながら、まじまじと夫婦の顔を穴の空くほど見つめた。
と。
「あ、あ……そうかあ……あんたらあ」途端にケンイチは涙声になって、二人に人差し指の先を交互に向けたかと思うと、「時間、かかっけど、いいか? いいか?」と真顔になって、何度も聞いた。
「ええ!」
「もちろん、ですとも!」
二人の
(ああ、四年……! あれから、もう四年か、そうだよ、あいつが四才になるんだから……おふくろ! 見てるか、久しぶりに、来てくれたよ!!)
ケンイチの胸に、一人息子のコーイチが産まれる直前の、あの数日間の出来事が、鮮明によみがえってくる。
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