第19話 不可能な未来 [2160:7:10-12]
退所後の就職先は順調に決まり、私はラボを出て島浦町に小さな部屋を借りる手続きをした。
とはいえ何の問題もなくすべてが進んだ、というわけではなかった。
最大の難関は母への報告だ。
ホログラム通話をかけるたびに頭痛がした。その頭痛は独特なものだった。
白く細い糸が忍びより、網の目となって頭蓋の中の柔らかい脳に纏わりつき、音もなく絞めつける。白い糸は喉もとまで這いより、声と息を止める。
冬のコンクリートの上にはりつき、浅い呼吸の中でゆっくりと死にゆく蜥蜴のような気分だった。
私は事後報告につとめ、極力言葉と感情を発するのをさけた。
多大な時間をかけて交渉をしたはずなのに、今では母が何と言ったかほとんど思い出せない。
私は自分がもめごとをまとめて忘却できるくらいには間の抜けた脳味噌の持ち主だったことに感謝している。これに関しては、何もかも覚えていていいことなんてきっとひとつもないからだ。
結論からいうと島浦研究所との契約破棄のために私は母を捨てた。母が私を捨てたようにだ。
それまでどうしてわからなかったのかわからないくらい、Cと出会ってから、私は母が私を見捨てたことを理解するようになっていた。
母の好きな『アキラ』、頼りがいがある明るくてすてきな女の子、それは私ではない。
Cが私にどうしたいかを訊くたび私は彼女を恨んだ。それは彼女が尋ねていたのが母のお気に入りの『アキラ』の言葉ではなく、周囲と自分に災厄さえもたらしかねない『私』の意志だと知っていたからだ。私はそいつが大嫌いだった、殺したいくらいに。
だって、そいつさえいなければ私はいつまでも母のお気に入りでいられた。他人から愛情をもらえた、それがいつわりのものだとしても。ユーリカやスズカとも一緒にいられたし、お世話になったラボを裏切るような形で出て行く必要もなかった。
母のお気に入りの『アキラ』にはなれない『私』はただ死ぬ運命にあり、Cだけがそれを生きろと言った。
でももうCはいない。『どうしたいか』なんてもう誰も訊きはしない。
私は自分でそれを尋ねる。
※ ※ ※
また無意識に触ってる。
私は右耳にふれ、それから手を降ろした。
更衣室で着替えを終えたところだった。今日は後輩と交代で、午後から半休をとる。最近の私は連日の暑さもあってあまり眠れていない。家に帰ったら昼寝しよ、と制服をロッカーにかけた。
あれからもう3年が経つ。
「……そのピアス」
気になったようにこちらに目を当てながら、隣で着替える後輩が言った。
「いつもつけてますね」
「これ? うん」
「どこのですかー?」
後輩はリボンタイを結びながらまん丸い目で尋ねる。
Cのくれたピアスだけれど、そういえばどこのかなんて、考えたことなかった。
私は水のボトルのふたを開けて答える。
「もらいものだから、知らない」
「あ、そうなんですね。片耳だけ?」
「ああ、うん。こっちだけつけてもらったからずっとそうしてるけど」
聞かれた私はなんとなく耳をひっぱる。
「へー……右耳だけのピアスって、『愛されている者』っていう意味なんですよ」
「知らなかった」
きょとんとして耳から手を離す私に、後輩は笑った。
「意味とか気にしない人も多いですけど」
「だね」
「でもプレゼント、いいですねー。じゃあお先です」
出ていく後輩に手を振って、ロッカーのドアを閉める。
資料館の裏口ゲートでリストバンドをスキャンして、退勤時間をレコードした。
[2160:7:10:13:25]
青く光る字で日時が表示されるのを確認して、重たいドアを押す。
ドアを開けたとたんにじわじわと蝉の声がうるさく響き、直射日光が白く照りつける。整備されたアスファルトの道は蜃気楼に揺らめき、人っ子一人いない。
まるでフライパンの上にいるみたいだ。暗い資料館を出たとたんに襲ってくる7月の太陽のあまりのまぶしさに、頭がぼうっとする。
Cがくれたピアスに意味があったのか、それともなかったのか考えて、気もそぞろになっていたんだと思う。
落ちた前髪を耳にかけ、目を上げた時には、車が近くに迫っていた。立っているのは横断歩道の真ん中、見れば信号は赤。まずい!
動揺した瞬間、耳にふれていた手がずれ、ピアスに当たる。ピアスを指で無意識に挟み、私はぎゅっと力をこめる。耳もとでかちりと小さな音がした。
一瞬、閃光が走ったと思う。どこかで見たのと同じ色の光だった。
思う、というのは、その後何が起きたのかはっきり確信がもてないからだ。
次の瞬間、私は垣根の前、夜明け色の海を見下ろしてたった1人で立っていた。
何が起きたのかわからない。振り返ると白い灯台があった。静かな波音と鈴虫の声が響いている。人っ子一人いない。
「え……いや、待て待て待って」
思わず頭を押さえてしまう。さっき仕事が終わって資料館の前の植物庭園を通りがかってたのに、なんで灯台前にいんのかな?
退勤が13時25分だった。資料館を出て5分も経っていないから、まだ14時にもなっていないはず。いつものこの時間ならすでに潮が満ちかかって垣根のすぐ下まで波が寄せているところだが、今日の海は崖のずっと下の方で大人しくさざめいて岩を洗っていた。
変だ。
たじろいで身じろぎすると、靴の先にこつんと小さな黒い石が当たる。なんか光ってる、前にこんなのCがトンネルの中で拾ってたな。
何の気なしに石を拾い上げた。わけがわからないまま引き返してしばらく歩き、シャッターの降りた静かな駅前通りに入る。
誰もいない。あんなにうるさかった蝉の声もない。どこかで低く鳩が鳴いていた。
駅ビルの時計をちらと見上げた私は息をとめた。
「4時15分」
島浦の駅で100年前から使われているクラシカルな時計の針は今は朝だと告げていた。始発前だ。そんな馬鹿な。
何がどう狂っているのか自分でも説明がつかない。でも、きっとあのあと車にぶつかるか避けて転んだかした衝撃で、私は一晩意識を失っていて、無意識にフラフラ起きて歩いてここまで来た。転んだ衝撃で記憶が混濁している。たぶんそういうことに違いない。
「まさか自分が事故に遭うとは……」
気づけば夜明けで休んだ気も寝た気もしないけど、無傷だし、朝が来てるということはまた仕事に行かなきゃだ。
アパートに戻った私は、シャワーだけすませて重い足取りで博物館に向かった。
裏口から入って眠い目をこすりながらリストバンドを通してゲートをくぐり、更衣室のロッカーを開ける。
くわぁ、とあくびが出た。
眠い。
くっそ眠ィわ、と開いてない目で制服に袖を通していたら、後輩が控室のドアを開けた。
驚いた顔だ。
「ちょっと。先輩」
「なーに」
「2日ぶりじゃないですか。無事だったんですか?!」
走り寄ってきた後輩に腕を揺さぶられ、私は瞬きして首を傾げる。
(どゆこと?)
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