第18話 退所まで / ユーリカ

 11月の遠泳はスズカとペアだった。出発地点は森の近く。Cが突然飛び込んだポイントと同じだとわかった時、心に決めた。


 Cが何のために海に飛び込んだのか、潜って調べたい。命を落とす危険を冒して嵐の海に飛び込む理由が、単なる気まぐれだとは思えない。


 砂浜で準備体操しながらスタート前にスズカに耳打ちする。


「途中でちょっとの間、潜ってもいい? 先行ってて、すぐに追いつく」

「いいけど3分しか待たない」


 断言された。順番に出発だ。午前の澄みきった海水につま先をひたす。スズカは前を向いたまま言った。


「どの辺?」

「出発5分後、くらい」


 Cが嵐の海に飛び込んでから戻るまでの体感時間はそれくらいだった気がする。


 何かを見つけられる確信があるわけじゃない。でも探さずにはいられなかった。  

 このあたりと目算をつけた頃、私はスズカに目で合図をする。目顔でうなずくスズカの頭が泳ぎ去っていくと、私は息をつめ、海水に潜った。


 途端、とぷんと頭の上で音がして、静寂に満たされる。

 海藻が不気味に黒く生い茂る岩場をかいくぐって、目を凝らす。海での潜水は好きじゃない。


 遠泳の訓練でお日さまに温められたぬるい海水の中を一心に前を見て進んでいる時、ひやりと冷たい潮の流れにつま先がふれることがある。島浦の近海では、海の上層と下層でまるで温度が違うことがよくあるのだ。


 つま先にふれる水流はぞっとするほど冷たく、追いかけてくる運命の死の手みたいに暗い。その流れに捕まれば絡めとられ、揺れる海藻の中の闇に引きずり込まれる気がした。


 私は捕まらない。逃げ切って、自分の手で自分を終わらせるんだといつも思っていた気がする。


 頬をかすめる海藻をかきわけて、海底へ潜る。こわかった。


 見通しは悪い。海底の砂の上にたどり着いた私はあたりをぐるりと眺め回し、Cが飛び込んだ理由を探そうとする。


 髪がふわりと舞う視線の先でちかりと何か光った、と思った。

 夢中でそこへ向かって砂を蹴った時、静かだった水中に海面を叩くような奇妙な音がにぶく響いた。見上げると頭上で誰かが足をばたつかせている。


 私は慌てて進路を変え、浮かび上がって溺れかかった訓練生を助けた。水の底で光っていたものが何だったのか確認はできずじまい。


 戻ってきたスズカには後で「潜って何してたの?」と聞かれたが、答えることはできなかった。


  ※      ※       ※


 退所を間近に控えた3月初めの放課後、私はユーリカに呼び出された。海の見える堤防のコンクリートの上に2人で並んで座る。


 ひぐらしが鳴きしきる午後16時、太陽にさらされたコンクリートは手のひらの下でざらざらと白い。


 ユーリカは寮の売店で買ったラムネを渡してくれる。透明なガラス玉が入った、古風な青いプラスチックの壜だ。島浦では年中売店のショーケースで見かける。

 ほんのり熱い堤防の上に壜を置いて、まだ冷たい潮風の中で一緒にビー玉を押す。


「あの時はごめんな」


 ユーリカはいつものゆるい笑顔で言った。炭酸水がしゅわしゅわ弾ける音を眼下に聴きながら、私は言った。


「あの時って? あ、こぼれた」


 肝試しのこと、とユーリカは言った。白いコンクリートの上に灰色のラムネのしみがつく。


「あー先に逃げたこと? 気にしてないのに」


 笑って言うと、ユーリカはかぶりを振る。


「ううん。みんなに言ったこと」


 私は一瞬固まり、ユーリカの顔を見た。ユーリカは複雑な笑顔をしていた。ひと口だけラムネを飲んで、横顔で海の上に浮かぶブイを見ている。


「ほんまはわかっててん。アキラが何か隠してることも、そのあとまた森に行ってることも」

「……だからみんなに話したの?」


 こわばる声にユーリカはうなずいた。


「騒ぎになればいいと思ってん。総務部長に噂が伝わるってわかってた」

「……なんで……」


 それしか言えなかった。ユーリカは無表情に言う。


「こわかった。最初から。……アキラが何かに連れて行かれるような気がして」


 私はしばらく何も言えなかったが、やっと言った。


「私は誰にも連れて行かれたりしないよ。自分で出て行くだけ」

「そうやんな」


 ユーリカは和やかな顔で笑った。その穏やかすぎる笑顔がちょっとこわかった。


「退所おめでと。うらやましい」

「ユーリカ」


 私は言った。


「ユーリカも退所したいならできるよ。相談できるところ知ってる」


 だけどユーリカはかぶりを振った。


「正直跳ぶのって怖いし、アキラが出て行くって聞いていいな、思うねん。もっといえばアキラだけ逃げてずるいなって。けど、跳んでみたくもある」


 のどかな海の波が静かなさざめきを運んでくる。手の中でラムネの壜はぬるくなっていく。


 ユーリカはラムネをごくごく飲んだ。振り返って自分の茶色の目を指さす。


「この目、もらいもんやねん。ほんとは病気で失明するところやってんけど、このラボに来て人魚になるのと引き換えに、亡くなった女の子から優先的に網膜移植してもらえてん。その子もアキラと同じ四色型色覚者やったんやって。でも移植したら、なんでかその能力なくなってんな。移植しただけじゃダメやねんな。不思議やな。なんか笑っちゃった、どこまでいっても私って普通なんやなって。でもさ、私は普通でも、跳ぶこと自体は、めったにできへん体験なわけやん。帰って来られへんやろうけど、それでも跳んでみたいな。なんか、すっごいところに」


 ユーリカは海に目を戻す。横顔のその目は静かに透き通って、きれいだ。私は尋ねた。


「すっごいところ……って、どんな」

「この時空の誰も知らない景色が見えるところ。この目で見たいな。そんで、笑っちゃうくらいありえへん体験に遭って、ぶちのめされて、死にたい」


 ユーリカはそう言って、首をすくめて笑った。


「レアやろ?」

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