第11話 闇と塵

 Cを呼ぶ声は風にさらわれて戻ってこない。


 夜の海の中へ痛くなるまで目を凝らしても、何も見えない。

 すっかり満ちた海は階段の途中まで忍び上り、丘を浸蝕しようと苛立つ手を伸ばしている。


 私はちっぽけな階段の上で膝まで海に浸かり、冷たい波しぶきを全身に浴びて立っていた。


 どれくらい時間が経ったのかわからない。

 ぽかりと黒いものが半ば沈んだテトラポッドの近くに浮かぶのが見えた。黒いものは流されそうになりながら少しずつ階段に向かって近づいてくる。


「C!!」


 階段にとりつこうとしたCは引いていく波に攫われそうになる。私は腕を伸ばし、Cの手を掴んだ。


 噛み締めた奥歯が痛い。やっと引き寄せたCは今度こそ階段にとりつき、ずぶぬれで膝をついて階段を上ってきた。


「……何やってんだよ」


 怒りと安堵で声がうわずる。Cは自分の足を見下ろし、階段にへばりつくフジツボを指さして力なく苦笑する。


「フジツボで足切った……」

「フジツボなんかどうでもいいんだよ」


 Cが髪を絞る傍ら、私は怒鳴る。


「何してんだよ!?」

「用事」


 Cはにこ、と笑って髪を絞りながら私を見返した。


「事前に説明しろよ!!」

「でも、したら止める」


 当たり前だ。嵐の夜の海に何の用事があるのか教えてほしい。人の自殺企図は止めておいて、自分は死ぬ気か。

 無言の怒りの目で見つめるとCは苦笑した。髪から手を離す。


「ごめん。もう済んだよ。行こう」


 いつものフェンスの穴にたどりつくまで、私はCの手を離さないことにした。

 このイカレ女が次に何をしでかすのか予想もつかなかった。もう小屋に来た侵入者のことなんてどうでもよくなっていた。


 口を一文字に引き結んだまま黙って森を進み、校舎裏のフェンスの穴も自分より先にくぐらせる。

 ぬれねずみのCは校舎を見上げながら思い出そうとするように言った。


「……この先どうだったっけ」

「それは任せていいから。私の踏む通りに歩いて」


 ぶっきらぼうに言い捨てた。私はまだ怒っている。

 Cの手を引いたまま、道をたどる。四色型色覚者の便利なところは、セキュリティのセンサーの発する微弱な光線も見えるところだ。


 敷地内の地面に埋め込まれているセンサー板をうまく免れて寮の窓までたどりつく。


 窓からCを入れて後から私も追いかける。

 いつも薄暗い夕闇の中でしか会わないせいか、廊下の真っ白な明かりの下でCを見ると、妙な既視感を覚えた。鏡を見てるような。


 私は目をこする。しんと静かな階段を見上げた。


「……もうみんな寝たかな。部屋、上だから」

「うん」


 空き部屋は私の居室のすぐ隣で、いつもはリネン置き場になっている。私はCを連れて空き部屋に忍び込み、雨戸が閉まっているのを確かめて、明かりをつける。


 2段ベッドの上の段には予備の掛け布団が畳んで積み上げられ、床の上にはハンガーが乱雑にかかったラックが放置されていた。

 窓際には掃除用品が雑多に載ったワゴンが寄せられている。ほこりっぽいものの、1段目のベッドはかろうじて空いている。


 私はハンガーラックにかかっていた誰かのジャージとワゴンに積んであったタオルを掴んでCに渡した。バスルームを指差して背中を押す。


「シャワーはここ。ぬれねずみなんだから早く入って」


 夜の海に飛び込んで雨風にさらされたまま放っておけない。

 Cはこくりと頷いておとなしくバスルームに入って行った。


 私は自分の雨具を脱いでハンガーラックにかける。2段ベッドの1段目にシーツをかけて掛け布団を1組降ろす。


 バスルームでは静かなシャワーの音が聴こえていて、部屋は明るく、建物の外を吹き荒れる嵐の音は雨戸の向こうで小さかった。さっきまで暗い雨風の中を歩いていたのが嘘みたいだ。


「あー、もー」


 ぐしゃぐしゃに濡れて額にはりつく髪を乱暴にはらって、急に泣きそうになっている自分に気づく。


 危なかった。海に消えちゃうかと思った。Cはバカ野郎だ。

 何がしたいのかさっぱりわからないし、心配させるし、むかつくし、何も説明しないし。


 涙がにじんで視界がぶれた。ワゴンのタオルをひっ掴んだ。しばらくぎゅっとそれを両手で自分の顔に押し当てる。

 自分に言い聞かせた。


 大丈夫だ。もう大丈夫。

 Cは無事だったし。それに誰にも見つかってない。

 寮にちゃんと戻ってこれたし。今ちゃんと一緒にいる。


 しばらくしたら落ち着いたので、ため息をついてタオルを置いた。背後でドアが開く音がして、着替えたCが出てくる。洗いたてのつるつるしたほっぺたで言う。


「出たよー」

「はい」


 私はぶっきらぼうに答えた。


「ベッド用意しといた」

「え、ありがとう」


 Cはかすかに目を輝かせる。


「1段目だけどいい?」

「いい、いい。わー、ベッドだ」


 何がそんなに嬉しいんだか、と思う私をよそにCは喜んでベッドに座った。そういやこの人いっつもあのぼろソファで寝てたもんな……。


 私は首をかいて言った。

「明日の予定言うね。リネン取り換えは朝7時半、それまで誰も来ないはず。6時に迎えに来る」


 それを聞いたCはこちらに目を上げる。


「OK。ごめん、一瞬リストバンド貸してくれる?」


 私は目を見開いた。

 リストバンドは普通人に貸すようなものではない。


「い……いけど……誰かに連絡するとか?」

「うん。私、端末持ってないから」

 

(あ、『リストバンド持ってない』って言ってたの、ほんとなんだ……)


 私は一瞬止まる。

 違う時空から来たのならこの時代に知り合いなんていないんじゃないのか。知り合いがいるくらいの近い未来や過去から来たのか。


 連絡って誰に、と聞きたかったけど、踏み込み過ぎのような気もした。私は口ごもる。


「……私の端末からだと本人確認とれないけど……あと使い方わかる?」

「それは大丈夫」


 しずかにきっぱり言われたので手首から外して渡した。Cはしばらく何か打ち込んだ後でリストバンドをすぐ返してくれる。


「ありがと。これからアキラは?」

「隣の部屋にいる。22時の点呼くらいはルームメイトがごまかしてくれるけど、0時になってもいなかったらさすがに探されるから。戻るね」

「2人部屋なんだ」

「そう。前は個室だったらしいけど、むかし寮生が1人行方不明になってから……」


 私は言いかけて黙った。行方不明になった寮生は戻ってこなかった。森の中の旧宿直室で亡くなったのだ。

 私はカーテンを閉めて戸口に戻る。振り返って言う。


「……見つかるから外に出ないこと」

「うん」


 シーツや枕カバーを雑多に積み上げた台車の陰に半ば隠れ、Cは白くて安っぽいパイプベッドの端に腰かけて私を見上げていた。私はCを見たままもう一度言う。


「絶対出ないでね」


 1人で森の中に消えた寮生みたいに。


「うん」

「絶対の絶対に出ないで」


 Cは笑った。


「何度言うのそれ」

「もう跳びたくないなら、見つかっちゃダメでしょ」

「それはアキラも同じだ」


 ドアノブを引いて去りかけていた私はため息をついた。

 Cの前に戻る。部屋の中に放置されてた椅子を引いてきて前に座った。背凭れに両腕を回す。子供に言い聞かせるように言った。


「そうだとしても、ここからは逃げられないんだよ」

「逃げられるよ」


 Cはなぜか悠然としていた。腹立つ。


「どうやって。始終ドローンに監視されてる上に、島外に出るフライングジェットに乗る許可すら一介の人魚にはとれない。第一、ここを出てどこに行くって? 親の家は無理だよ」


 Cは笑って見つめ返してくる。

「そういうことじゃない」


じゃあどういうことなんだよ。この状況下で死に場所を自分で選ぶ以外に何の解決法があんのか教えてほしい。


『いい子』でいなきゃこの世の誰にも望まれない存在だとしても、ワームホールの神のごとき虚無の中で素粒子レベルに押しつぶされて死ぬよりは私はクソみたいな自意識を抱えたままこの世の塵になりたいのだ。


 AIチップの埋め込み手術の後はそれすらも叶わなくなる。

 チップを装着した人魚には2本の角に似たソナーがつけられ、GPS内蔵のソナーを通じてAIが直接脳内で言語翻訳やマッピングを行う。


 Cには『角』が1本もないから、まだ埋め込み手術が行われていなかったころの『先輩』なんだろう。だからラボ周辺にいても足取りをつかまれていない。

 だが私が自由に動けるのは、あとたった1年しかない。

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