第8話 存在しないアキラ

 私はなすすべもなく嵐をただ待っていた。1週間後には20時を過ぎたテラスから照明が消えるようになった。非常口を見張るために常駐していたスタッフの影はもうない。ランチタイム終了後も、17時のオープン時間までずっと無人だ。


 何事も起こらないのを確認してか、やっといつもの状態に戻ったらしい。総務部長への私の提言も少しは役に立っていたのかもしれない。


 それでも数日は晴天が続き、私は毎日リストバンドで天気予報ばかり見ていた。


 やっと訪れた嵐の日、雨具を抱えてそっと寮の部屋を出る。ガタガタ風に鳴る廊下の暗いガラス窓を横目に階段を降りようとしたら、後ろから声がかかる。


「アキラ」


 振り返るとジャージを着たユーリカがひらひらと手を振っていた。今しがたみんなが集まる部屋から出て来たばかりらしく、部屋の中からにぎやかな声が上がっている。


 ユーリカはサンダルをつっかけて廊下に出てくる。

「自販機行くん? 私も行こかな」


 一緒について来られたら雨具を持っている不自然さに気づかれるかもしれない。私はとっさに雨具を後ろに隠して言った。


「何がいいの? ついでに買ってくるけど」

「えー、優し。じゃあ、ラムネ」


 わかった、とさりげなく笑って階下に降りた。明かりの消えたフードテラスで青白く光る自販機から、ラムネとコーヒーを買う。すぐに階段を駆け上がって、ユーリカの部屋のドアをノックした。ラムネを渡して部屋に戻るふりをして、もう一度階下に降りよう。


 ユーリカは出てきてうたうようにありがとー、と言い、ラムネを受け取ると部屋の中を振り返った。


「スズカー、アキラ来てるよ」

「おー入っといで」


 スズカが中から手を振った。「今遠泳のパートナー決めてる」


 7月と11月の遠泳訓練では5キロを完泳するまで2人1組で支え合う。練習中もパートナー同士2人1組でタッグを組むので、早めに決めておく決まりだ。パートナー組みは寮生の希望を聞きながら寮友会が決めることになっている。


 私は苦笑して言った。

「いや、私がそれ聞いちゃダメでしょ。発表前だし、寮友会のメンバーでもないし」

「えそんなの誰も気にしないよ? ユーリカも寮友会じゃないけど部屋貸してくれてるし。相談乗ってー。みんなの希望を聞こうとしたら、もうややこしくてさあ」


 スズカは頭をかきながら言った。

 ここで立ち去るのは逆に不自然かも。私はじりじりしながら、戸口であえて明るく言う。


「スズの一存でバシッと決めちゃえば」

「そーすると後でクレーム受けるの私なんですけど! もういっそ教官に決めてほしいよー」

「だね」


 私は笑って、押し殺した焦りの中でちらとリストバンドを見る。16時半……いつもならもうとっくに小屋に着いてる。今はフードテラスも無人だが、17時にはスタッフが来て、食事の仕込みを始めるはずだ。誰にも気づかれずに非常口から出られる時間はあと30分しかないのに。


「つか、来て! まだアキラの希望聞いてないし」


 手招きするスズカに、私はため息を噛み殺しながらサンダルを脱いだ。雨具を後ろポケットに無理やり押し込み、ユーリカの部屋に上がる。


 ああ、駄目だ。今日は森に行けないかもしれない。


「真面目な話、アキラアンケートに答えてくれてないよね」


 スズカはリストバンドを起動してコンタクトレンズ越しにファイルを見ながら言った。


 そんなのあったっけ。思い出せなかったので私は答える。


「適当に決めていいのに」

「本気で言ってる!? クレームは受けつけないからね。送って。今ここで送って!!」


 部屋の真ん中で寮友会のほかの2人と一緒に座っているスズカは、びっと私を指差した。ユーリカは黙って空いている椅子を指差し、クッキーの袋を渡してくれる。


 私がユーリカの椅子に腰かけて持ってきたコーヒーのボトルを置き、クッキーの袋を開封している間にも話は勝手に進んでいく。


「だから、ユナのパートナーはリクでしょ?」

「まってまって。それだとユウのパートナーどうする? ユウはリク以外NGなんだけど」

「じゃあリクとユウを組ませるとして……ユナはフウカとでいい?」

「だめ。ユナもフウカも2人とも水泳苦手。どっちかが引っ張る役をやれないと両方へこたれるよ。長期戦なんだから」


 白ちゃけた照明の下で、みんなの顔にはいつもより暗く長い影が落ち、どこかぼんやりとして非現実的に見える。


 薄暗い窓を見れば、森の木々が強風にあおられて白い葉裏を見せている。妙な事に、見慣れた寮の部屋にいるより、雨粒に打たれ、木の枝にひっかかれながら森の中を歩いているほうが本当な気がした。


 ……まだ間に合うかも。


 私はクッキーを口に放り込み、リストバンドを操作して寮友会から送られてきたアンケートを探す。まだ20分はある。さっさと回答して出ればいい。


 『相談乗って』なんて言われたけど、何も貢献できる気がしないし。

 アンケートにさえ答えてしまえば用は済むわけだし。


 よし、とアンケートに記入を終えて送信を押したところで、通知が行ったらしくスズカが「あっ来た」とこっちを見た。


「えらいえらい。早いねー」

「ん」


 ぞんざいに褒められて、もらったクッキーを噛み砕きながら私は言った。コーヒーで流し込む。


「あとよろしく。ちょっとトイレ」

 

 部屋の戸口に出た。

 背後にみんなの声を聴きながらサンダルに足をつっかけ、そっとドアノブに手をかける。と同時に、どう、と大きな風が来て部屋全体が揺れた。


 動悸がして、後ろに立つ人のかすかな気配に気づく。少しだけ振り返る。


「ね、」


 壁に少し凭れて、ユーリカが立っていた。いつもの曖昧な笑顔で言う。

「すごい音したね」

「うん、……」

「外、出る?」

「うん」


 ドアを引いて外に出た。ユーリカが後からついてくるのを、私はドアを押さえたまま観念するような気持ちで見ている。


(このままだと、階下に降りることすら無理かも……)


 いったん部屋に戻るふりをして、それから階下に降りようか。

 思案を巡らせながらユーリカがのんびりと廊下に出るのを待って、私はドアから手を離した。


 ユーリカは廊下の窓にふらふら歩いて行って、窓の鍵を開ける。私はただそれを見ていた。


「濡れるよ」


 後ろから言ったがユーリカは聞かず、だまって窓を開け放つと、外にまっ白な右腕をさしのべる。たちまち唸る風と雨粒が吹き込む。

 私はしばらくしてから言った。


「何してんの……」


 ユーリカは窓の外に出した自分の手のひらをじっと観察していてから、振り返る。


「嵐の日ってさ。ちょっとだけ、外のようす、自分で確かめたくならん? 風がどんだけ強いかとか、雨の当たり方とか」

「そうかな」


 よくわからなくて言葉を濁す。ユーリカは窓から自分の腕をひっこめる。微笑んだ。


「確かめたいから、それ、持ってるんとちがうの?」

「え」


 ユーリカが指さした先に私のポケットがある。彼女は首を少しだけ傾げて、ゆっくり言った。


「雨具」


 細かく雨の吹き込む廊下の前で、私は息をつめて立っていた。


(バレてる)


 何も返す言葉が見つからなかった。

 私がどこに向かうつもりでいるか、ユーリカは気づいているのだろうか。

 黙っているうちに、ユーリカの微笑は消えていた。彼女はもう一度口を開く。重ねて問う。


「外、出る?」


 私は言った。


「出ないよ」


 びゅうびゅう鳴る激しい風の音の中で、ユーリカは少し黙った。それから言った。


「……そうなん?」

「そうだよ」

「そうなんや」


 ユーリカは小さくつぶやいた。まだ、確かめるような目で私を見ていた。


「窓閉めないの」


 私が促すと、こっちを見たまま片手を伸ばして、のろのろと窓を閉めた。風の音が弱くなった。


「……あのさ、用事あるし。部屋に戻るね」


 そう言ってきびすを返す。

 後ろからユーリカの視線を感じた。


 ユーリカは何かに気づいている。私が『肝試し』に訪れた小屋をふたたび訪れようとしていることにも、ひょっとしたら感づいている。


 そら恐ろしいくらいの彼女の勘の良さに、少し寒気すら感じた。誰も気づかないと思ったのに。


 駄目だ。


 今日はあの小屋には行けない。


 私は廊下を歩く足を早めた。自分の部屋に戻ってドアを閉め、ルームメイトがいないことを確かめてから、その場にうずくまる。しゃがんだ膝にごつんと頭を落とした。


(今日は無理だ。今日は無理だった。明日は嵐が去るはずだ。次はいつなんだ)


 台風が無限には訪れてこないことを私は知っていた。あっという間に秋は過ぎ去る。解体業者は数週間と経たずに小屋を壊しにやってくる。

  Cにいつあのバッドニュースを伝えられるのか、見当もつかなかった。

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