第7話 木の葉の影
その1週間は耐えがたいくらい長く感じられた。焦る心中も知らず秋の空はのどかに青く澄みわたり、嵐をつれてくる気配すら感じさせなかった。
通常授業はいつも通り退屈で、じっと座っているとろくでもないことばかり考えてしまう。
万が一、視察に赴いた業者や総務部長とCが鉢合わせしていたら?
鉢合わせしなくても、旧用務員室に人が訪れた形跡が見つかるかもしれない。警備がもっと厳しくなったら? 森に入れなくなったら。
考えても自力では状況をどうにもできないのに、最悪の事態を繰り返し思い浮かべてしまう。
いつもはめんどくさい水泳訓練やカプセル訓練が今はありがたかった。集中していれば、余計な事を考えずにすむ。
カプセル訓練はラボの室内で行う。更衣室で専用スーツに着替え、自分の割り振られた識別番号……今日は『RY2』だ……を確認したらシミュレーションカプセルに入り、パネルとバーを操作する。タイムワープ後の様々な状況から安全に上陸するまでが訓練内容だ。
鉱物の結晶に似たカプセルの外側は半透明の暗い輝きを帯び、内側からパネルの透過率を操作しない限り外側からは内側を見とおすことができない。
びろうどのように柔らかな衝撃吸収マットで覆われた内側にすべり込んで扉を閉じると、真っ暗な中に青いネオンカラーでコンソールの文字だけが浮かび上がる。棺桶みたいに快適で、胎内みたいに陰鬱だ。
まだ『角』と呼ばれるセンサーをつけていない私たちは、脳内へ直には情報を送れない。AIの外部音声を聴きながら訓練する。
タイムリープでは正常な通信には期待できないと言われている。深海や火山口のど真ん中にワープしようが上空3000mの雲の上から隕石なみの速度で落下していようが、反重力装置とカプセル搭載のAIの助けを借りて自分でなんとかするしかない。
そのためのシミュレーションシステムがこれ。
マーメイドシステムのAIのうち、カプセルに搭載されているものは『シスター』と呼ばれていて、異なる時空で島浦研究所との通信が途絶えていても、カプセルのシステムから逐一指示を出して地上に誘導してくれる。
高度のある空中で鳥や小型航空機などの障害物に出会った時には可憐な声で面白くないジョークをとばしながら自動で避けてくれる有能なパートナーだけど、人口密度の高い都市上空へのリープ状況では寡黙になってひたすら高度を上げることのみを指示する女の子だ。
『RY2 This is Sister. 本機はワープに成功いたしました。ただいま海上2000mを落下中です。ただちに反重力装置を起動してください』
彼女の声はいつも最初の3センテンスまでは少しつんとして響く。私は答えた。
「Sister This is RY2. 反重力装置を起動」
反重力装置の操縦桿を引きながら言うと、『シスター』が応える。
『落下停止いたしました。海上2000mを水平飛行中です。上部パネルの透過率を94%に固定。機体をチェックします』
真っ暗だったカプセルの上部パネルが瞬時にガラスのように透き通り、外の景色が映し出される。といっても合成映像だが。『シスター』はチェックのためにいったん沈黙した。
しばらく経ってから澄んだ声が言う。
『ワープ時の衝撃により右舷のカメラが破壊されました。肉眼で状況をご報告ください』
私は右のパネルに映るCG映像を見て答える。
「北東に小型航空機を確認」
『たまには向こうから避けてくれないかしら? 海上3000mまで高度上昇。本機はすでに回避行動に入っています』
「了解」
『先ほどの航空機の航空ルートから陸地への距離と方向を推測しました。降下地点を自動設定しますか?』
「お願い」
『降下地点を自動設定しました。南方500km先の降下地点まで水平飛行いたします。状況に変化があればご報告ください』
「了解」
今回のシミュレーションは右舷のカメラが壊れている状況での『シスター』との連携と海上からの上陸だ。そんなに難度は高くない。
今までで一番難しかったのはワープ直後に都市上空を落下しているシミュレーションで、ビルの合間を縫って急上昇し、低空飛行するヘリや鳥を避けながら上陸地点を探るものだった。
『シスター』は鳥や航空機との衝突で起こる機体損傷、それに人目を避けるため何度も高度上昇を促し、データセンサから自動で地図の作成を開始するためほとんど喋らなくなる。
『シスター』が自動で障害物への回避行動をとってくれるものの、鳥は肉眼で確認して人魚の操縦で避けなくてはならない。『シスター』の作成した地図から上陸地点を決定するため、難しい判断を迫られる。
(でも今日は難易度高めのシミュレーションの方が良かったな)
右のパネルをチェックし続けながら私は思う。慣れた内容のシミュレーションだと、余計なことを考える余裕ができてしまう。そんなことを考えたのが悪かったのか、急に雲行きが怪しくなってきた。
シミュレーションカプセルがかすかに揺れたかと思うと窓に映る映像に雲が垂れ込め、薄紫色の雷鳴が走る。
私は多少の危機感と共に言う。
「シスター、天候が悪化してきた」
『本機はこの時代の気象情報にアクセスできません。強風・雷にご注意ください』
「注意……って」
具体的にどうすればいいんだよ。海上には強風や雷を避ける場所はどこにもない。
シミュレーションカプセルの機体が大きく揺れる。横殴りの強風にカプセルは30分ほど揉まれ、反重力装置をなんとか操作して降下地点の砂浜に着陸完了した頃には私は完全に船酔い状態だった。
「……吐きそう」
『着陸が完了いたしました』
『シスター』は晴れやかに言った。
『ロックを解除なさいますか?』
「おねがい……」
貝のように噛み合わさっていたカプセル上部が開くと、私はよろめきながら外に出た。最初の余裕は影も形もなかった。
ちょうど隣のシミュレーションカプセルから出てきたユーリカと顔を見合わせる。ユーリカとは肝試し事件以来ちゃんと話していなかったけど、彼女は何事もなかったかのように笑って言った。
「どしたん? 目があきらか死んでんねんけど」
「風で……すげー揺れた」
「ああ。たまにあるなあ、強風。酔い止め飲んでへんの?」
「忘れてた……」
「あげるわ。後からでも効くやつ」
ユーリカは錠剤を放ってよこした。錠剤の包装をぷちっと開けながら私はカプセルの下に座り込む。
「吐いていいかな」
「ええよー。連れてったげようか、お手洗い」
のんびりと語尾を伸ばして言い、ユーリカは目を細めて笑った。なんで楽しそうなの。
私は手を振り、錠剤を水なしで呑み込む。ユーリカをもう一度見上げて言った。
「……思うんだけど、乗り物酔いの経験ってなんかの役に立つ? シミュレーションでわざわざここまで揺らさなくてもよくない?」
「さあ……。揺れてる状態でも冷静に着陸できるように? かなあ……。着陸できたから出てこれてるんやし」
遠い目で天井を見てユーリカは言う。
「まあね」
周囲を見渡すとまだ蓋が開いていないシミュレーションカプセルも半数ほど残っていた。シミュレーションが完了して無事に着陸できるまで、カプセルのロックは解除されない。教官が近づいてきて言う。
「アキラ、レポート提出が終わってないな」
「はい」
通常はカプセル内でレポートを作成して教官に送信するのだが、気分が悪すぎて先に出てきてしまった。
「ユーリカは提出完了してるな。アキラも終わったら寮に戻れ」
はーい、と二人声を揃えた後、私はのろのろ立ち上がった。カプセルに片足を突っ込む。
「ユーリカお疲れ。私はこの棺桶に戻るわ」
「……あはは」
ユーリカは声だけで笑い、カプセルに沈み込む私を縁に手をかけて見下ろした。言う。
「大丈夫?」
「大丈夫だけど」
私は笑顔で見返す。
ユーリカは口の両端をすこし上げる。
「アキラ、いつもは薬忘れたりせえへんのにな」
「あんのよ、調子悪い日が」
「あの小屋のこと気になる?」
予想外のセリフに息がとまった。ドアからだけかすかに日の入る窓のない部屋の中で、ユーリカの目はよく見えなかった。茶色い髪が細い肩の上で少し透けて光っている。
それを見上げたまま黙っていると、ユーリカはカプセルの縁から手を離し、一歩下がって、にっこり笑った。
「お先」
立ち去って行く後ろ姿を見つめたまま、私は言いたいけど言えなかったセリフと疑問をいっぱいに抱え込んで暗いカプセルに沈んでいた。
このタイミングであの小屋のこと聞く?
どういう意味?
なんでみんなに肝試しのこと言ったの?
確かに口止めはしてなかったよ。口止めするヒマもなかった。でもなんとなく、ユーリカは気安く言いふらすよりは黙ってるかなって気がしてたのに。
(……いや、『言いふらす』っていうのは、違うかな……)
私たち3人が肝試しに出ることを知っていた寮生が少なくとも数人はいた。
ユーリカは誰かに『肝試しどうだった?』なんて聞かれて、何の気なしに話しただけかもしれない。秘密にする理由もない。
私と違ってユーリカにとってはあの肝試しに重たい意味なんてなく、ただの暇つぶしの遊びだったのだから。
そもそもユーリカが肝試しについてみんなに話した人物だという確証もない。確かな目撃証言なんてどこにもなく、ただの噂かもしれない。すべて推測にすぎない。
『あの小屋のこと気になる?』
パネルを叩いてレポートを作成しながら、私は息をひそめる。
ユーリカはひょっとして何か知ってる? 感づいてる? Cのことを何か。
それともカマをかけてるだけ?
疑ってみても曖昧に揺らめくうすい木の葉の影みたいに、何もかも掴みどころがなかった。
レポートを提出して演習室を出る。
寮の1階にあるシャワールーム横の更衣室でスーツをジャージに着替えて、ランドリールームにスーツを返却する。
専用スーツは着陸時の衝撃の吸収のほか、水中などで体温を一定に維持する効果もあるんだそうだ。
海に続く沿道にいちばん近い寮の南側にあるランドリールームは、シャワールームと隣あわせだ。
海から戻った人魚たちは真っ先にシャワールームで足のうらの砂や潮はゆい体を流して、ランドリールームにスーツを返していく。
今日の午前中に水泳訓練をしていたクラスがあったのか、明るいへやに濡れたスーツがわかめみたいに一列に吊り下がって干されていた。
ここはいつも海の匂いがする。
心なしか砂でじゃりじゃりする床をサンダルをひきずって出て、ちらっと奥のフードテラスに視線を投げる。
まだオープン時間になっていないのに、照明がついている。人がいるのが見えた。
この頃は誰かが夕方非常口に立つだけで、1Fのフードテラスから慌てて制服のスタッフが飛び出してくるのだ。人を常駐させるって話は本気だったらしい。
目をそらして廊下を戻り、誰もいないロビーのソファに座る。
薄暗いロビーで生ぬるい空気をかき混ぜるのろくさい天井の扇風機に髪を吹かれながら、ガラス扉の向こうに目を投げる。
いちめん降りしきる蝉の声の中、コンクリートとセンサー板に覆われた道が、眩しいほどの陽ざしに照りつけられて白く輝いていた。
真っ白な道の上を、時折黒い影がさっとかすめる。監視ドローンだ。
あれが飛んでる限り、森には入れない。
こうして私が足止めされている間にもCは何も知らずあのボロ小屋を訪れているかもしれない。小屋に泊まってる可能性もあった。危ないって再三注意してるのに!
(頼むから業者と鉢合わせないで。誰にも遭遇しないで)
知らない間に拳を握り締めていた。
だって、Cが人魚には戻りたくないんだったら。
いや、私は本気でCのためを考えてなんかいない。
でも『無事現代に戻ってきた人魚がいる』なんて知られたら、Cはタイムワープの初の成功事例を経験した稀少な人魚として、少なくとも島浦研究所に留め置かれることになるだろう。
Cがラボに保護されたら……私たち人魚と同じく監視されるようになったなら。
小屋に隠された私の薬はどうなる? 重要なのはそこ。
二人で話す機会もなくなるかもしれない。それは困る。
まだ言ってない文句がたくさんある。Cは私から気軽に奪ってはいけないものを奪ったのだ。
Cが奪ったのはただの薬じゃなかった。この閉ざされた状況に残された、たったひとつの突破口だったのだ。その扉の先が闇だとしても。
Cに会う前には、こんな風にいつも言いたいことが山ほどある。人の計画をめちゃめちゃにしてくれたことへの文句、いら立ち、問いつめたい気持。
でも実際にCに会ってみると、言いたかったことが口に出ない。
Cは言わなくても私の不満くらいはわかっている気がした。言う前から人の計画に気づいて妨害したように。何も言わなくても。
(あんたは知ってる。絶対にわかってる)
確信に近いものがあった。でも同時にありえない妄想のような気もしてる。
ヴンと低く唸るドローンの音が耳を刺した。何も知らぬげに蝉がじわじわ鳴いている。
私は自分がまだここにいることにいら立ちながら座っていた。
でも、どこにも行けなかった。
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