第2話 C/2157R2

 今その人は床にかがみ込んで、割れたティーカップの破片を緩慢なしぐさで拾っている。


 ひとつ、またひとつ。腰椎まで届きそうな長い髪は今しがた海から上がってきたかのように濡れている。

 白い服は時々部分的に虹色に光る。髪と同じように濡れているのかなと思ったけど、そうではない。極小の鱗片を丁寧に綴り合せて布にしたような……変わった服だ。


 ちゃんと人間……だよね、とまじまじ見つめると、彼女はふと視線に気がついたように目をあげる。その瞳とばっちり目が合う。私は一瞬、息を止めた。


 どこかで会ったかな? 咄嗟にそう思った。兄弟か親戚を見てるようだ。彼女は自分に似ている。でもそれがどこなのかうまく言えない。目? 鼻? それとも。


 私が固まっているうちに彼女は髪を耳にかけると、あくびをした。眠い目でこっちを見て笑う。

「落ち着いたかな」

「まあ……。それ大丈夫?」

 カップの残骸を指さすと、彼女はああと笑い、床の上から最後の欠片を拾って袋の中に落とす。その耳にちかりと小さなピアスが光った。

「なんか音がするなーと思って起きたら、寝ぼけてカップを割ってしまった」


 低いその声はかすれている。さっきから思ってたんだけど、ひどく疲れているようで動きものろく、眠そうだ。今まで寝てたって……嵐の中、このボロ小屋で?


 彼女はしゃがんだまま私が転んだ拍子に腕からぬけたリュックをとって渡してくれる。

 私はおずおずとそれを受け取る。

「あ、ありがとう……」

 さっきはドアの前で大声で叫んでしりもちをついてしまったから、ちょっと気まずい。

 彼女は外に出てきて倒れた私を助け起こし、家の中に入れてくれたのである。

「これ、君の?」

 問われて彼女の手の中にあるガラス壜を見たとたん、心臓が止まりそうになった。ポケットの中に入れてた錠剤の壜だった。いつ落ちた。

 彼女は聞いたなりじっと私の目を見ている。

「うん」

 手を差し出したが、彼女は返してくれなかった。こっちから目を離さず、ぶっきらぼうに言う。

「これ、買ったことある」

「ああそう? 市販薬だしね」

 ちょっとだけ愛想笑いしたら、彼女は無表情で返した。「でも失敗したんだよね」

「え?」

 聞き返すと同時だった。

「君の計画は、これじゃ『無理』だよ」

 彼女は鋭い目でこっちを見てがたつく窓を開け、風唸る闇の中に壜を素早く放り込んだ。何かにぶつかってガラスの割れる音がした。私は思わずソファから立ち上がる。

「何すんの……!?」

「無駄を省いただけ」

 まるでわからないことを言って、彼女は雨の吹き込む窓を閉めた。


(『計画』? 『無駄』!?)


 勝手に薬を捨てられたんだから怒ってもよかった。でも、その薬を何に使うつもりだったか、見抜かれた気がして一瞬ひやりとする。……まあ、薬はまた買える。

 私は極力穏やかに言った。

「私物なんで勝手に捨てないで」

「ごめんね」

 ちっともすまなさそうじゃなく彼女は返す。さっき捨てた、と思った右手から再び薬の壜が現れる。


(おいおい、手品……!?)


「これはここに置いておこう」

 彼女は台所の棚を開いてそこに壜をしまい、扉を閉めた。かちりと小さな鍵を閉める。

「ああ!?」

 振り返って彼女は鍵を見せ、自分の胸ポケットにしまう。私はぎごちなく言う。

「それ私のだから……」

「知ってるけどここに置くね。病気で本当に必要なとき取りにくれば」

「いや、だからそれ私のだから。返して」

「ごめん、リュックの中ちらっと見ちゃったんだ。同じ薬がたくさん入ってた。あれだけあれば、すぐには足りなくなりそうもないね。それに薬たくさん持ってひと気のない小屋に来る理由って大体予想がつくし」


(ああやっぱバレてます?)


 私は力が抜けてソファに再び座り込む。

「……何でもいいでしょ」

「でも、失敗するよ」

 彼女はもう一度私を見た。

「ほっといてくれないかな」

 弱く笑って私は言った。死のうが死ぬまいが人の自由だろ。あと、戸棚に鍵かけるなんて無意味だ。無駄なのはそっち。ここまで取りにこなくても、市販薬なんてまた買える。


「帰る」

 立ち上がって玄関で建付けの悪い戸を開けようとしてると、折しも間近で雷が落ちたらしく、どん、と轟音が鼓膜を揺らす。思わずびくっと肩を揺らすと、後ろからさっきの人が来て窓の外を見た。


「近いな。おさまるまでもう少しいれば」

「別に怖くないし」

「うん」


 うなずいた顔が思いがけず優しかったので、私は回れ右をしてまた部屋に戻った。指さされたソファに座る。……何やってんだ、私。


 破れたソファに座ったまま辺りを見回せば、壁際には学校で使っているのと同じ灰色の味気ない本棚が備え付けられていた。ほこりをかぶった狭いキッチンにはほとんど物がない。見渡してから視線を彼女に戻す。


 この人何でこんなところで寝てたんだ……。

 私の視線に気づいた彼女は笑った。

「そんな不審な目で見なくても」

 私は頭をかいた。

「いや、真面目な話さ……。なんでこんなところにいんの。転入生?」

 彼女は黙ってかぶりを振る。

「じゃ、町から来た?」

 とはいえここは離島の最南端で、港町から軽く5キロは離れている。

 町から徒歩でここまで来る人などいない。自動運転車用のループ以外に道がないからだ。港町から山中のループを通って来るとして、到着ポイントは研究所内である。周囲に人家はない。嵐の中安全な所内を出て、わざわざ立入禁止の森の小屋に来る?


 ただ、彼女はこの問いにもかぶりを振った。

「ちょっとした用事」

 と彼女は曖昧に言った。


 用事。嵐の中、こんなところで寝なきゃならないような用事って何の用事だ、と聞きたかったけど聞かないことにした。さっき、彼女は言葉を濁した。  きっと聞いても無駄だ。


 私は本棚を振り仰ぐ。

「紙の本がいっぱいある」

 部屋を見廻して目を戻すと、彼女は他人事のように棚へ目を上げる。

「ああ。珍しいね」

 それから続けた。「いつでも読みに来てよ。でもこの場所のことは」

「誰にも言わない。だから薬」

「あるよ。ここに。だから、また来るでしょ?」

 私はちょっと眉を寄せた。つまり……『また来い』ってこと?

「……ほんとに来るけど?」

「いいよ」

「連絡先は?」

 連絡先を交換しようとしてリストバンドをさわると、彼女はかぶりを振った。ぱき、と首を鳴らして言う。

「持ってない。……というか、それ今電源入れるとまずいよ。ラボの支給品でしょ? GPS入ってる」

「え。あ」

 私は固まり、リストバンドを見つめた。そうだった。うっかり忘れていた。 危うく立ち入り禁止区域に侵入したことを自らラボに知らせるところだった。


「でも、じゃあ連絡……どうすれば」

「気が向いたら来なよ。いなくなってなければいるから」

 私は頭をかいた。アポなしでいいとは。

「え。わかった……なんて呼べばいい?」

 質問を変えると、彼女はひと言で答える。

「コードC/2157R2」

「何それ」

「名前だよ」

 英数字である。2157って今年のことだよね……。CとかRとかよくわからないナンバーを答えられても困るが、名乗る気はないらしい。

 私はがしがしと後ろ頭をかいた。

「2157ってさあ……いいよ、じゃあ……Cちゃん」

「『ちゃん』はなしで」

 彼女は即答して笑った。呼びすてで『C』? まあいいや。

「私はアキラ。よろしく」

 名乗るとCはうなずき、笑って窓を見た。

「雷おさまってきたよ。戻るなら今かも」

 ああ、と私も窓を見て、それから無駄だろうけど言うだけ言おうとCに目を戻す。


 薬、買おうと思えば買えるけど……発注の頻度が高いとさすがにラボの人にも怪しまれる。また来れば返してくれるかもしれないけど、今もらっておけば面倒がない。

「戻るから薬返して」

「駄目」

 Cは頭を振った。私は軽くキレる。

「私のだっつってんだろ」

「取りにくればいいって言ってんでしょ。渡すよ、1錠ずつな」

「信っじらんない。クソ偽善者」

「るっさいクソガキ」

 Cはむっつりと言った。「どうしてもって言うんならまた来れば。私はここにいるから」


 それを聞いて一瞬、あっけにとられる。口論していたことも忘れて私は訊いた。

「ここって……ここに住んでるわけじゃないよね」

 尋ねるとCは一瞬止まり、それからかぶりを振る。

「まさか」

「だよね……」

 見た感じ天井の電球も割れてるし、電気がきてないなら夜には真っ暗になりそうだ。住める環境ではない。

 Cはため息をついて玄関を指さす。

「いいから戻りなって。門限までに」

「こんな所に1人でいたら寂しくない? 一緒に帰ろ」

 立ち上がってつかない電気の紐をカチカチ引っ張りながら言うと、Cは驚いたように一瞬動きを止めた。瞬く。

「一緒に?」

「うん。あいてる部屋に泊めてあげるからさ。ここに1人じゃ怖いでしょ」

 自殺者が出た場所なんだし、とは、言わなかった。噂を知らないのなら、わざわざ知らせて怖がらせることもない。Cを振り返る。

「あのさ、ずっと1人でここにいたの? 危なくない? 変な奴が来たらどうするの?」

「誰も来ない」

 Cは淡々と言った。私は肩をすくめる。

「でも、現に私が来た。私だからよかったけど、次はわからない。どこに住んでるの?」

 Cは窓の外の空に目をやった。遠く轟く雷鳴を背景に木々は絶えまなく揺れてざわめいている。

「近く。……寮まで送ってく」


 立ち上がるCに促されて玄関から外に出ると、空を見上げる。雨足はまだ強く、軒先の屋根からよじれた水が激しく滴り落ちていた。


「鍵は?」

「無いよ」


 私は片手で戸を閉めようとする。ガタガタと大きな音がした。

「くっそ、閉まらない」

「ああ、大丈夫」

 Cが手を添えると、戸はレールの上をすべり出した。軽い音をたてて閉まる。私は思わずCの顔を見つめる。


「……なんで?」

「コツがある」

 Cはきちんと戸を閉め終えて、当然のように言う。まるでずっとここに住んでいるみたいだった。


 Cはフードを被り、言葉少なに樹々の小枝をかいくぐって歩く。とくべつ雨具も着ていなかったが、彼女の白い服は雨に濡れても、濡れて透けたり色が変わったりする様子もない。


 見失わないようについていくと、来た時よりも早く校舎裏までたどりついた。そこだけ、ちょうどフェンスに穴が開いているのだ。

 するりとCは穴からぬけだし、私が出てくるのを見守ってからうなずいた。


「じゃあ、ここで」

「Cは?」

「この近くだから」


 とCは言ったが、島浦の人魚ラボは一種隔離された環境にある。周辺に民家などない。旅館すら一軒もない。

『近く』。嘘だ。


「またね!!」

 そう言ってCは笑顔を見せた。背中を押すように手を振る。……本気で言ってんのかな。初対面の人から私物を奪う変な女にまた会いに行くと思ってる?


 あの小屋に行こうとした時点でおかしいのは私もか、と見送られながら歩き出し、しばらく歩いてから、あれ? と思った。


『ラボの支給品でしょ? GPS入ってる』


 関係者しか知らないようなことを、彼女はなんで知ってるんだ。


(それにさっき『寮まで送ってく』って。私、自分が寮生だって言ってないけど)


 気になって振り向いた。

 もう、そこにCの姿はなかった。

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