第6話
「ねえ先輩、お昼を一緒にどうですか?」
そう声を掛けられ翼が振り向くと今年、入社した女子社員である白石千影(しらいしちかげ)が甘えるような仕草で明るく微笑みながら立っていた。
彼女は社内でも可愛いと評判の女性なのだが、なぜ俺に昼食の誘いが掛かったのか理由がわからない?
案の定、周囲の視線を集めてしまう結果となった。
「ああ、ちょっと用があるんで悪いけど俺はいいよ」
別に用があるわけでは無いのだがこういった女性が苦手な俺は用事を理由に断った。
「えぇっ!? 残念・・・」
「そう言えば金曜の夜だったかなぁ?」
「先輩が公園で歌ってるのを見ちゃいましたよ!」
「いつもあそこで歌ってるんですか!?」
「なんかカッコ良かったんでまた見に行きたいです!」
なるほど、そういうことか・・・
立て続けに話す彼女の会話を無視することも出来ずに聞いていた俺だったが頭の中では違うことを考えていた。
あんまり会社の中で歌っていることが知れ渡るのは何としても避けたい・・・
「それって人違いじゃないかなぁ?」
「俺って歌うのがスゴク下手で苦手なんだよね」
そんな思いで否定すると夜は雪がちらつくほど冷え込んで来たし、来年の春まで曲作りに専念してみるか!?
尚も何かを話し続けようとする彼女を後に俺は急ぎ足でその場を離れた。
「あれは絶対に先輩でしたよ!」
「また見に行きますからねっ」
背後でそんな彼女の声が聴こえた。
聴くんじゃなくて見に来るのかよ!?
何だか自分の音楽を否定されているようで多少、腹が立ったが自分では無いと否定したのだからそんなことはもう関係ない話だと聞き流した。
最近は残業が多かった為もあり、近辺で歌うことが多くなっていたので見られてしまったのは当然か?
広い場所でしばらく歌えなくなるのは残念だが歌う曲のレパートリーを増やすにはいい機会かも知れない!
これからの週末は部屋で曲でも作りながら春まで過ごすことにしようと決めた。
年末のこの時期になると毎年、忙しくなり残業が日常となってしまうのだが、すっかり暗くなった空を見上げながら俺はため息をついた・・・
雨が降っていたのだ。
「先輩はクルマですよね?」
「傘、一緒に入って行きませんか?」
背後からの声に驚いて振り向くと昼間、俺に話し掛けて来た千影が立っていた。
「君もクルマで通勤してるのかい?」
そう言った俺に
「違いますよ・・・私は電車で通勤してます」
そう答えたが駅に行くなら駐車場とは逆方向だ!
面倒臭いことになりそうな気はしたが
「じゃあ駅まで乗せて行くから入れて行ってくれ」
人の厚意を断る理由も咄嗟に思い浮かばずにそう言ったのだが彼女は俺の答えが意外だったらしく嬉しそうに慌てて傘を広げると
「駅までは近いですけど宜しくお願いします!」
そう言って俺の隣りに並んだ。
激しい雨に大騒ぎしながら歩く千影を連れて駐車場へと急いだ俺はクルマに彼女を乗せると運転席へと走って回り込み乗るとワイパーを動かしながら発車する。
隣りで話し続ける彼女に曖昧な返事をしながら走っていると楽器店の軒下で雨を避けながら立っている人影が目に止まった・・・
いつかの彼女だ!
瞬間的にそう思ったのだが確証などは無く、ただそう見えただけかも知れない?
隣りに千影が乗っていなければ恐らくクルマを止めて乗せたであろうがそのまま通り過ぎてしまった。
駅まで千影を送った後に再び引き返したがそこに彼女の姿は無く、止まらなかった後悔だけが心の中に残った。
ライターを渡した彼女と拍手を送ってくれた彼女がいつの間にか俺の中でピッタリと重なり合っていた・・・
途方に暮れたように空を見上げていた彼女の姿が頭の中で何度も何度も繰り返される。
名前さえ知らない彼女になぜ俺は兄貴である友樹の形見の1つだった大切なライターを渡したのだろうか?
あの時、俺は自分が持っていた一番、大事なモノを彼女に渡さなければならないと感じた!
今は亡き兄貴が俺にそうさせたのか!?
もしかして兄貴は音楽じゃなくてもっと大切な何かを失い、絶望の中で死を選んだのだとしたら・・・?
彼女と出会った橋をゆっくりとクルマを走らせながら家路に向かう俺はそんなことを考えていた。
冷たい雨はやがて雪に変わり静かに降り続いた。
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