第15話 さらばモスクワ

 水野は次の日から滞在最終日前日の十一月十一日まで毎晩、時には昼頃にアリエチカ邸へ足を運んだ。


 遊びで屋敷の中をエーリャと一緒に探検するついでにアリエチカ邸の構造を暗記する。防衛意識が高く複雑な構造をしているが四日間もあれば立ち入り禁止区域内以外は全て把握できた。


 そして探検中、屋敷の外壁がコンクリートで厚く補強されている箇所を発見した。


「エーリャ、これは何だい?」

「あー、これは私が壊しちゃった所」

「こ、壊しちゃった? どっ、どうやって?」

「何かいきなり、こう、線? みたいなものがその壁に伸びていてね、それに合わせて手をこうやって当てたら崩れちゃったの」


 エーリャは小さな握り拳を壁にコツンと押し付け、水野のために当時を再現する。


「崩れ、て、え?」


 只々困惑する水野に対し、エーリャは頭に片手を回してえへへと少しばかり恥ずかしがる。


 崩した? 赤レンガを? 怪力の一言で表現できる力じゃないぞ。


「……で、でだ。そこからどうやってあの壁を超えたんだ?」

「あの赤い壁?」

「そう、外にあったあの赤い壁」

「さっきと同じ感じ。壁を通り越すように線が見えたから、その方向に軽くジャンプしたら超えちゃったの」

「超えちゃった……か」


 三メートル以上の高さがある外壁を飛び超えた? この幼女が?

 彼女には既に身体強化系の能力が発現しているかもしれない。いや、確実に発現している。しかも、軍事的価値が見いだせるほどの能力が。


 水野はその事を留意し、親のアリエチカも能力者である可能性も考慮する。

 子が能力者の場合、親も能力者である場合が多いのだ。実際に水野の両親も軍事利用できる程度ではないが能力者である。

 一般則として成長するに連れて能力も強くなるが、六歳の今からこの出力ならば将来的に有用な能力者となるのは目に見えていた。そして子供の頃からこの威力であれば、アリエチカは軍事的価値を持つ能力者の可能性は高い。


 アリエチカから得られた目ぼしい情報はこれと言ったものがなかった。日常会話から探ろうとしたが話題が趣味的なので、スミノフというウォッカの銘柄が好きだとか、シャシリクという肉の串焼きが好きだとか、シガー・クラウンという葉巻を好んで嗜むとか、そのような情報しか手に入れられなかったのだ。


 しかし酒の席に紛れて、家族構成で有力な情報を得ることに成功した。


「アリエチカ、ずっと思っていたのですが、エーリャのお父様は一体どちらに……」


 スミノフで火照っているアリエチカの顔色が一瞬曇ったのを、酔いかけていた水野は見逃さなかった。


「ああ、父親のことか。実はエーリャが生まれる前に亡くなってしまってな……」

「そ、それは申し訳御座いません。失礼な質問を投げ掛けてしまって」

「いやいや、君が謝ることは何もない。父親が見当たらないから聞くのは致し方ないことだ。気にしなくてもいい」


 アリエチカの顔には昔を懐かしむ表情を微かに浮かべている。

 この調子で暴こうとしたが、酔っているとは言え流石に故人について酒の席で話すのは如何なものかと思い、それ以上は踏み切らなかった。




「良かったら、ここで働いてみないか?」

「え?」


 最後の晩餐後、アリエチカは唐突に水野へ提案を投げ掛けた。水野は頭が一瞬白くなったがすぐにその質問の意図を探ろうとする。


「もちろん、すぐにここで働けとは言わない。そっちの仕事を終えて、もし良かったらの話だ。君はロシア語も堪能だしエーリャに懐かれている。礼儀もいい。こっちで衣食住は用意する」


 自分が竹本達也なら間違いなく引き受けただろう、と水野晶は思う。日本人民共和国で働くより、モスクワで指導者の屋敷の執事をした方が給与はいいし衣食住も付いてくるだろうから。給与は諜報員より劣っても物価が低価格で統一されているソ連で問題ではないし、良質な物が欲しければアリエチカに頼み込んで共産党員専用店舗から調達してもらえばいい。

 そして、今の仕事にいるよりずっと楽しいはずだ。水野は妹の生き写しにも見えるエーリャとずっと一緒に居たかった。ふと、自分の膝の上で寝息をたてているエーリャに目を向ける。使用言語も人種も髪も国も何もかも違くても、幼き頃の元気な妹そっくりなのだ。


 でも、俺は水野晶だ。日本皇国の国民だ。今の自分の境遇と、成すべきことを思い出せ。


 そう自分に言い聞かせ、首を横に振った。


「お気遣いありがとうございます。しかし私にはまだやり切れていない職場がありますので、退職したら次の職場の一つとして一考させて貰えたら幸いです」


 アリエチカは終始笑顔でその返答を聞き入っていた。


「君ならそう言うと思ったよ。急に試すような、変なお願いをしてすまなかったな」

「いえいえ。お気になさらずに」

「明日、ホテルを出る時間は何時頃なんだい?」

「朝の八時半には出ようと思います」

「なら、その時間に車を手配しよう」

「いえいえ、とんでもない。この四日間、毎日夕食をご馳走になってしまって申し訳ない気持ちでいっぱいなのに、これ以上のご気遣いは……」

「送らせてくれ。私も娘を保護してくれたお礼がしたいんだ。最後までさせてくれ」


 アリエチカは金褐色の瞳で真っ直ぐと水野を見つめる。


「……わかりました。最後まで甘えさせて頂きます」




 モスクワ時間十一月十二日午前八時三十分。


 水野は茶色いコートの襟を立ててスラビヤンカ・ホテルの前で車を待っていた。定刻通り、ZIL-41041がホテルの入り口へ滑らかに止まる。

 初日に水野をアリエチカ邸へ運転したイワンが運転席から降り立ち、取っ手を掴んで後方座席のドアを開けた。


「竹本様、どうぞお乗りください」

「ありがとうございます」


 スーツケースをイワンに預けて広々とした車内へ入る。すると座席の上に乗っているブリキ製のランチボックスが一つ、水野の目に入った。


「エーリャ様からの贈り物が後方座席にあります。ご確認ください」


 運転席に戻ってハンドルを握ったイワンはそう言い、車を発進させた。

 蓋を開けると中には手紙が一つと形が少し崩れているサンドウィッチが四つ入っていた。早速、手紙を広げて目を通す。



 ─ おじさんへ ─


 毎日おうちまで遊びに来てくれてありがとう! 楽しかったよ!

 お別れの挨拶ができなかったので、サンドウィッチを作りました。またモスクワのファミレスでご飯を食べようね!


 ─ また会えることを楽しみにしているエーリャ より ─



 手紙に書かれていた字は急いで書かれていたため、少しばかり汚かった。

 エーリャと出会った時の事を思い浮かべ、サンドウィッチを一口頬張る。それは今まで食べたどのサンドウィッチよりも美味かった。




「……そう言えば、エーリャの本名ってなんだったっけ?」


 今回の任務で何か大きな見落としをした気がした。それもエーリャに関してだ、と己の勘が鮮明にそう告げる。


「確かエレオノーラ・アリーサヴィナ……ジュガシヴィリ」


 エーリャの本名をゆっくりと読み上げる。「ジュガシヴィリ」と口に出した瞬間、水野の脳にとんでもない憶測がぎった。


「ウェッゲホッゲホッ‼」


 頬張っていたサンドウィッチでせてしまう。


「ど、どうなさいましたか、竹本様」

「あ、あぁ、ちょっとせてしまっただけです」

「左様でございますか。もしよろしければ、私が水を買いに車を止めて外へ出ましょうか?」

「いっいえ、大丈夫です」

「承知致しました」


 イワンは前を向いてハンドルを握り直す。


 思い違いではないか、身に着けている知識を呼び起こして再確認する。

 ジュガシヴィリという姓はそこまでソ連国内に多くない。しかし全員のソ連人民がこの姓を教育課程で習う。それはヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリが世界に名を刻んだからであった。


 ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。

 又の名を、ヨシフ・スターリンと言う。

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