第14話 食事会
モスクワ時間十一月八日午後七時五十三分。
水野はスラビヤンカ・ホテルから少し離れている自動販売機の前に立っていた。チェーンに付属しているコップを注ぎ口の真下に置き、コイン投入口に五カペイカを投入する。
『オレンジ』と書かれた
立ち去る直前、八坂と天野の報告のために特殊な硬貨を釣銭入れに残した。
その硬貨の外見は一カペイカ硬貨そのものである。しかし表側の小さな穴に針を差し込んで横にスライドすると、中には極小の暗号が書かれた紙が入っているのだ。水野はその紙に今日の出来事を書いて入れた。
飲み干したコップを下向きにして網の窪みに入れて上から軽く押す。すると周りから水が吹き出してコップが水洗いされた。
水野はその場を去り、花屋へ足を運んだ。
モスクワ時間午後八時。
氷点下の暗い曇天の下、スラビヤンカ・ホテルの出入り口にいる水野は震えていた。右手には白いラッピング用紙で包まれた十本の赤バラの花束を抱えている。
すると黒く艶光りする特製のZIL-41041が、アスファルトを踏み締めながら水野の方へ向かってきた。速度を落として水野の立ち位置に後部座席のドアが来るように寸分の狂いなく停車する。運転席側のドアが開いて執事服を着た白髪の男が降り立つ。
「竹本様でいらっしゃいますね?」
「は、はい」
「お待たせしました。私はアリエチカ邸専属執事のイワン・イリイーチ・マカロフと申します。アリエチカ様がお屋敷でお待ちです。どうぞお乗りください」
イワンはそう言うと、真っ白なドライバー手袋で後部座席の取っ手を掴んで開ける。ブワッと暖房で暖められた車内の空気が水野を包み込んだ。吸い込まれるように白いシーツが敷かれた座席に座るとイワンがドアを閉めて運転席に戻り、シートベルトを装着して車を発進させた。
五分ほどで高級車はアリエチカ邸の南門に着いた。手続きを素早く終わらせて両脇に森が鬱蒼とする暗闇に車を進めさせる。
一分も掛からずに、赤レンガと大理石が入り混じったアリエチカ邸が目に映った。入り口は大理石の正面階段が数段あり、両脇から回り込む形で車が登れるようになっている。アリエチカ邸の左側には、水野が乗っている車と同じZIL-41041が何台も止まっていた。
三メートルほどの巨大な赤い両扉の前でゆっくりと停車する。水野が取っ手に手を掛けて出ようとすると、先に外で待機していた三十代の執事がドアを開けた。座席に倒れかけた態勢を立て直して大理石の上に降り立つ。
「竹本達也様、お待ちしておりました。食堂でアリエチカ様がお待ちです。どうぞこちらへ」
執事は赤い両扉をタキシード越しからでも分かる筋骨隆々な両腕で押す。扉は重い音を立てながら開放して賓客を招き入れた。
扉の向こうには大広間があった。赤色のロングカーペットが中央奥の階段に伸びており、床の磨かれた大理石が鏡のように天井と水野を映している。壁には巨大で高価な絵画が幾つも飾られており、天井には応接室と比にならないほどの大きなシャンデリアがぶら下がっている。
中央奥には踊り場で二分する階段があり、分岐点である踊り場にはエーリャが水野の到着を待っていた。
「あ、おじさん! いらっしゃい!」
「こんばんは」
「こんばんわ!」
エーリャは階段を駆け下り、執事にコートを預けている水野の元へ来る。
「はい、どうぞ」
水野は膝を曲げてエーリャに赤バラの花束を手渡した。
「わ〜綺麗! ありがとう!」
「いえいえ、どういたしまして」
エーリャは覗き込むような形で、赤バラの本数をキラキラとした親譲りの金褐色の瞳で数える。しかし全て数え終わると、一本だけ赤バラを抜き取った。
「はい、おじさん」
そして残った九本の花束を水野に差し出した。水野はその行為に困惑する。
「あ、え、あ、もしかして気に入らなかったり……」
「いえいえ、違いますよ」
赤い扉を
「ソ連では葬式の時や墓参りの時に偶数の花束を供える習慣があるのです。だからエーリャ様は花束から一本抜き取って奇数にしたんですよ」
「残った九本はお母さんにあげてね」
ここまで気遣いが出来る子はそうそういない。しかも強欲な子供は多い方を手に取るのが普通だが、自身は一本だけで満足して残りの九本を母親に渡す気遣いをエーリャは見せた。
水野は大人ながら素直に感嘆する。
「そうか。ありがとな、エーリャ」
「これぐらいお安いご用だよ」
「エーリャ様、棘が刺さると危ないので私がお持ちしましょうか?」
「うん、お部屋に飾っておいてね」
「承知致しました。それではお二人様を、アリエチカ様がお待ちになられている食堂へご案内いたします」
エーリャから渡された赤バラを持っている執事は、二つに別れている階段の右上を登る。大広間の上を回るようになっている廊下を歩き、そのまま二階の赤い絨毯が隙間なく敷き詰められた廊下に行く。執事が幾つも並ぶ扉の一つで執事は足を止め、扉を開ける。
食堂は白いテーブルクロスが掛けられた細長いテーブルを中心にして置かれていた。黒パン、ボルシチ、茹でられたソーセージなどの料理が金枠の食器と共に並べられている。二十席の金箔が目立つ豪華な椅子がテーブル越しに向かい合い、天井には応接室と同じようなシャンデリアが三台並んでいる。例に漏れず、巨大な絵画も壁に掛けられていた。
「待っていたぞ」
扉から少し離れたテーブルの真ん中の席にアリエチカが座っていた。服は白いYシャツで常装の上着は椅子に掛けられている。
「こんばんは。アリエチカ様」
「様は付けなくていいと言っただろう。気軽にアリエチカでいい」
「では遠慮なく、アリエチカ。ほんの気持ちですが、花束をどうぞ」
アリエチカの席に近寄って花束を渡す。
「おお、気を利かせてしまってすまないな。うん、綺麗な赤バラだ。私の仕事部屋に飾らせて貰うよ」
「それはそれは、ありがとうございます」
アリエチカは花束を執事に預ける。エーリャと水野は席に着いて食事会が始まった。
食事中、アリエチカは日本との食文化の違いを水野に訪ねてきた。日本人民共和国から来た設定である水野に気を使ったのである。水野は正直に違いを説明し、アリエチカは興味津々でその話を聞き入った。肝心の料理の味は貧乏舌の水野にとって、美味くも不味くも感じなかった。
先に食べ終わったエーリャは水野の隣へ座る。当たり触らずちょっかいを出しながら、時々アリエチカとの会話に入ったりしてくる。
料理を食べ終わった後は紅茶を飲みながらアリエチカと時間を忘れて談笑する。
「もう十一時を回ってしまったな」
時間という概念を思い出したアリエチカは高価な壁掛け時計を見て呟いた。
「エーリャも寝てしまいましたね」
エーリャは水野の膝の上で
「そうだな。玄関まで見送りに行こうか」
「いえいえ。自分一人でも玄関までは行けますから」
「まあまあいいじゃないか。そう遠慮するな」
「……わかりました。では、お言葉に甘えて」
エーリャを執事に預け、外套を着た水野とアリエチカは玄関前まで行く。外はうっそうとした私有地内の森林のせいでモスクワの街明かりが見えない。
玄関前でアイドリングしている高級車に水野は乗り込んだ。
「ああそうだ、これを渡さないとな」
アリエチカは上着のポケットから『入邸カード』と書かれた金枠の赤い紙のカードを取り出して水野に手渡す。
「これは?」
「滞在中、もし暇だったらいつでもここへ遊びに来てくれ。このカードを門にいる衛兵に見せてくれたら通してくれる。私はいないかもしれないが、エーリャと遊んでやってくれ」
「何から何まで気遣いありがとうございます。では、お休みなさい」
「ああ、お休み」
執事が後部座席のドアを閉めて運転席へ座る。
高級車はアリエチカに見送られながら、真っ暗な南門まで砂利道を踏み締めて消えていった。
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