第40話 大陸脱出

「──で、その後は皇国に任せる。わかった?」


 脱走から二日後の中国時間一九八六年一月二日午後十時。

 中国遼寧リョウネイ丹東タントウ市に巡っている一般道の脇に、一台のモスクヴィッチが停車していた。灯りがないその中では、ケーシーと水野が後部座席で秘密の作戦会議を行っている。議題は『どうやって日本皇国へ渡るのか』である。

 ケーシーからマキシムと練りに練った方法に水野は耳を傾けていたが、あまりに突飛的なそれに一つの短編でも作れそうなほど物語性に秀でていた。


「……いや、理論上できるかもしれないが、マジでやるのか?」

「やる」


 しかし現実を直視するほど、それが今考えられる最善策なのは嫌でも理解できてしまう。


「いや、そもそも、誰が操縦すんだ?」

「私よ。あなたは後ろに乗って楽しんでなさい」

「えぇ、不安だ……」


 水野は心の底から嘆息し、渋々ながらも了承する。


「トイレは済ませたわね?」

「さっき済ませたけど、もう出そうだよ」

「それじゃ、行こうか!」


 この二日間で俯いていたケーシーはいつもの快活な性格に戻っていた。それと今から行う作戦に高揚している気分を足に相乗させてアクセルを踏む。

 中国ナンバーのモスクヴィッチは、唸りを上げながら道路を蹴り上げた。




 午後十時二十三分。

 北朝鮮への航空支援基地となる丹東タントウ空軍基地は、夜の静寂に包まれていた。

 滑走路の誘導ランプと管制塔の赤いランプがゆっくりと点滅していて、それ以外の光は見受けられない。滑走路に面している四機の戦闘機の格納庫は常時開きっぱなしであり、いつでもスクランブルに対応できるようになっている。


 その中の一つに、電流フェンスを突破した黒服の侵入者たちが現れた。


 水野は第四世代ジェット戦闘機のMiG-31に掛けられている操縦席側の黄色い梯子を素早く上る。

 操縦席のキャノピーには黄金色の南京錠が掛けられていた。素手で触れると吸い込まれるようにして水野の体内へ蓄積される。戦闘機の主翼の上に足を移し、後部座席にも掛けられている南京錠を吸収。


 その間、ケーシーはタイヤについている車輪止めを外し、機体の異常を大まかにチェックするためにグルグルと周回する。


「ケーシー、終わったぞ」


 水野は音量を絞ってケーシーに報告する。


「了解。耐Gスーツを着たら、ヘルメット被って後ろに乗って待機」

「了解」


 水野は格納庫の壁に掛けられている濃緑色の耐Gスーツを手に取る。黒服の上から着込み、ぶかぶかしているのを実感しながらも確実に着ていることを確認した。


「よいしょっと」


 黒いヘルメットを取った水野はまた梯子に足を掛けて翼の上に立ち、両手で意外に重量があるキャノピーを持ち上げる。

 トルコ石のようなターコイズブルーに塗装された内部には、革張りの座席に黒い機器類が所狭しと並んでいた。機器類は全て前方に収められており、操縦席も相まって前方の視認性が皆無である。


 ゆっくりと座席に腰を下ろして諸々の作業手順に移る。

 空気が送られてくるコネクタへ耐Gスーツの腹辺りにあるホースを接続。同様にヘルメットに付属しているマスクのホースを繋いで、酸素供給がされるか確認して装着する。黒いグラスを下げると万物の色彩が濃灰色のうかいしょくを帯びた。


 全ての作業が終わって一息つくと、ケーシーが梯子を登って先頭座席へ乗り込んだ。

 水野が数分掛けて行ったことを三十秒足らずで終わらせる。機器類を起動させてエンジンを点けると、戦闘機が咆哮を上げ始めて耳が麻痺しそうになるが、すぐに降りてきたキャノピーが騒音をシャットアウトした。


「水野、聞こえる?」


 マスクの中に内蔵されているマイクを伝って、後部座席のスピーカーからケーシーの声が耳に届く。


「大丈夫、はっきり聞こえるよ」

「了解。離陸するときからG重力加速度がかかりっぱなしになるけど、下半身に力入れてしっかり気を保ってね」

「……正直言ってそれがどんなものなのか、いまいちわからない」

「大丈夫大丈夫、できなくてもそのスーツが守ってくれるって!」


 水野は多少時間を掛けて自分に合うサイズの物を探さなかったことを、今更ながら後悔する。

 ケーシーは機体を立たせているか細い三つのタイヤを回し、ゆっくりと滑走路へ進出。最寄りの滑走路と平行に停止して周囲を確認する。


「それでは、快適な空の旅をお楽しみください」


 ケーシーのCAキャビアテンダントもどきに対して、水野は嘆息を含む深呼吸で返した。


 MiG-31の唸りが大きくなったその刹那、機体は滑走路を駆け抜ける。体中にGが押し掛かって座席にベッタリと張り付く。


 数秒すると重々しいその機体は宙に浮かび上がり、タイヤを格納して瞬きをする暇もなく急上昇を始める。

 太ももに違和感を覚えたので、Gを振り切って首を下に向ける。両足がこれでもかというほどパンパンに膨らんでいる光景に驚いたが、Gが掛かると圧搾あっさく空気がスーツへ送り込まれて下半身を圧迫し、血液の降下を軽減することを思い出した。


「水野、大丈夫?」

「は、はい、何とか……」

「君の席の目の前にレーダーがあるでしょ。それに何か映ったら教えて」


 水野は機器類の中でも一際目立つ、円形で黒縁のレーダーを確認した。


「わかりました」

「三分で日本海の真ん中を超えるから、あんまり戦闘機の体験できないけど楽しんでね!」


 水野は早く安全にここから出たいと、Gに耐えながら神に祈るばかりだった。


 しかしその祈願は故郷まであと一分というところで潰えた。

 レーダーの端に淡緑色の点が浮かび上がったのだ。すぐに報告しようとしたが、次々と同様の点が無数に浮かび上がる。


「ケ、ケーシーさん‼」

「何⁉」

「点が無数に出てきました!!」

「あーなるほど、多分日本皇国海軍の艦隊。若狭湾辺りを目指してるし。計画変更。陸じゃなくて船に降りるよ」

「え!? 船!?」

「陸でもいいんだけど、早めにここから脱出しておいた方が防空ミサイルでおじゃんになりにくいじゃん」

「ええ……俺、降下とか人生初なんだけど」

「大丈夫、操縦も簡単だったでしょ? 男なら潔く覚悟を決めなさい」


 それは説明上ではな、と言いたいのを堪えて「了解」の二文字だけを送る。

 水野は気持ちを落ち着かせるために両手を膝の上に置いて深呼吸をすると、ケーシーが言い忘れに気付いた。


「あ、1つ言い忘れてた」

「な、なんですか?」

「座席が射出して脱出するんだけど、その時15G以上は余裕で掛かるから気を付けてね」

「……は? あ、あのちょっ」


 水野はその言葉を聞いて「わざわざ戦闘機をハイジャックして自殺しに来たんじゃないぞ」と叫びたくなった。

 それもそのはず。人が耐えうる重力加速度は12Gと言われていることを知っていたが故の結果である。


「体中に力入れな。じゃないと脊椎が損傷して歩けなくなったりするよ」

「は、はいっ!!!」


 水野は火事場の馬鹿力を発揮する気持ちで全身に力を込める。


「じゃあ行くよ! 3! 2! 1! 0!」


 ケーシーは座席真下のレバーを勢いよく引いた。


 その瞬間、先頭座席のキャノピーが吹き飛んだ。コンマ数秒の遅れでケーシーの座席ごと空中に放り出さる。


 水野が驚く暇もなく、空気抵抗をカバーしてくれたキャノピーが戦闘機から離脱して宙に放たれた。座席全体にマイナス二桁の突風が流れ込んでくる。


「うおっ!?」


 寒さを感じるよりも早く、水野の座席が射出された。瞬間的に耐久不可のGが水野を襲う。

 数秒もせずにパラシュートが展開されて急減速。水野はハンドルを握ってケーシーを追いながら、空の彼方へ消えていく無人のMiG-31を見送るのだった。




 三十分後。

 こちらに艦首を向けている日本皇国海軍の主力艦隊が闇夜の水平線から現れ、水野たちの方へ向かってきた。向こう側は自分達の意図がわからないので、取り敢えず捕らえようと甲板にMP5を装備した兵士が集まって照星を重ねる。


 ケーシーは十数隻の軍艦から目印として目立つ超大型戦艦『紀伊』を選んで甲板へ着地。水野もハンドルを思いっきり引っ張って減速し、五点着地を決めた。

 座席のシートベルトを外して立ち上がるとケーシーが歩み寄ってきてハグし、喜びを分かち合う。


 それら一連の行動に合わせるように水兵たちは銃口を向けていた。

 気が付いた二人は無言で両手を上げ、敵意がないことを示す。


「貴様ら、一体何者だ!」


 すると奥から海軍佐官が水兵たちの間から現れる。


 水野は天野に誘拐されてからここまで来た経緯を全て口に出そうとした。


「……水野?」


 しかし急に地獄のような環境に置かれ、誰かもわからない人々に体を弄られまくり、日本人と対等に話す機会が全くなかった水野には、日本語が喋れるという環境が途轍とてつもなく幸福なことだと思ってしまった。

 そのため口が震え、顎をガクガク震えるだけで上手く言葉が発せない。急に視界がぼやけたかと思うとクリアになり、またぼやけるの繰り返し。顔面がくしゃくしゃになって俯いてしまった。


 その様子を見た水兵は勿論、佐官も戸惑いを隠せなかった。銃で囲まれていることに恐怖して大粒の涙を零しているとは思えなかったのだ。

 見たところ、青年なのは間違いないのだろう。まだ堪え性が足りない年齢かもしれないが、そうだとしてもここまで泣くことはそうそうない。


「……何があったかは知らんが、落ち着いてから話は聞かせてもらう。そこの女と一緒に空き部屋に入れておけ」

「わ、わかりました」


 佐官は何があったのか不思議がりながら、報告のため艦橋へ戻っていく。水兵は水野が泣き収まるまで待ってから二人と一緒に空き部屋へ案内する。




 こうして、水野は日本皇国に生還した。

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