第30話 黒幕

 ソ連の都市部では労働者確保のために街中や郊外に集合住宅が建てられている。それぞれ建築された時期の書記長の名から取っており、広々とした低層アパートのスターリンカ、立てやすさを追求した結果住心地が悪くなったフルシチョフカ、フルシチョフカに多少の改善を加えたブレジネフカの三種類だ。


 そしてイルクーツク風力発電所作業員宿泊施設は一九七三年竣工しゅんこうなのでブレジネフカであった。どの作業員や研究員にも一室ずつ与えられており、必要物資は国から支給してくれるため娯楽が少ないことを除けば不自由はない。


 現状に満足している研究主任ヤネス・ケスラーは、やせ細っている体躯を布団に乗せて本日も快眠を取っていた。しかしその眠りも天井に備え付けられているスピーカーの放送で阻害される。


『不審者が発見されました。職員は直ちに避難してください。繰り返します。不審な……』


 ケスラーはすぐに脳を覚醒させてアナウンスに耳を傾ける。しかし不審者が現れたという情報以外、何もわからなかった。

 もし研究所に現れたとしたら自身の仕事道具を安全な場所へ移動させなければならない。あの人に頼まれていた試作品が盗まれたら面倒だ。


 取り敢えず、他の職員が他の情報を持っていないかどうか確認するために部屋のドアを開ける。


「な、何だ何だ⁉」

「不審者⁉ こんな山奥に来るのか⁈」

「俺たちはどこに避難すればいいんだよ!?」

「俺に聞くな!」


 廊下でも流れている感情の抑揚がないアナウンスとは対照的に、外では研究員たちが寝間着姿のまま慌てふためいていた。


 ケスラーは望み薄と判断して、ゆっくりドアを閉めた。

 ベッドに戻り、傍に置いてあった黒い眼帯を何者かに引っ掻かれた傷跡が浮かんでいる右目に被せる。自分のクローゼットを開いて、寝間着兼普段着兼仕事着であるYシャツの上から使い古した白衣を羽織った。ズボンも四六時中スラックスのため変える必要はない。


「ふむ、流石に能力が使えなくなった時の保障が欲しいな……」


 ケスラーは小考し、ガンロッカーからマカロフと弾倉を取り出す。

 そのまま部屋から出て、この先を憂いて会話する人々を潜り抜け、兵士の制止も振り切って研究所へ向かった。




 ナランカを医務室に運んだケスラーに一通の電話が届いた。白衣のポケットに入れっぱなしの業務用携帯電話を出して、誰からの電話かを確認してから耳に当てる。


「おはようございます、アインスさん」

「おはよう。早速本題に入るが、お前が作ったと言っていた新作の能力活性化弾があるだろう」

「ありますね」

「それと専用の銃を持って、特別収容室行きのエレベーター前まで来てくれ」

「……もしかして、この騒動に紛れて侵入者を被験体として実験するんですか?」

「ああそうだ」

「知的欲求が強すぎませんかね……」

「この騒動で仕方なく銃を取って撃ったら試作の能力活性化弾でした、という言い訳で実験できるからな。全く、ユダヤ人を被検体にしていたナチスがいかに効率的であったか。で、お前は今どこにいる?」

「研究所の医務室ですね」

「貴様だって場所から考えて、私と同じことを考えていたんじゃないか?」

「そうですね。人のことを言える立場にいませんでした」

「だろう。取り敢えず、例の物を持ってきてくれ」

「わかりました。仕事場にあるので、寄り道してから行きますね」


 ケスラーは電話を切り、新品の玩具を買いに行くような軽い足取りで自分の仕事部屋へ向かった。




 十分後。

 特製のドラグノフ狙撃銃を収めたケースを左肩に掛け、黒色のアタッシュケースを右手に下げているケスラーはエレベーター前でアインスと落ち合った。白衣を着ているアインスは車椅子に座っており、ここまで押してきたのはサングラスとダークスーツを身にまとっている護衛だ。

 手前に存在したはずの扉は何者かによって塵として積もっている。


「それじゃ、行きましょうか」


 ケスラーがエレベーターのボタンを押す。


 数分後、閉じ込めていた死臭を解き放つようにエレベーターが開扉かいひした。

 中には打撲された跡が残る首なしの兵士が倒れている。ケスラーが乗り込もうとすると、護衛がアインスの車椅子を押そうと取っ手を握った。


「ああそうそう、君の護衛はここからいらないよ」

「いえ、何かあった時のための護衛ですから」

「大丈夫ですよ。僕も付いていますし」

「し、しかし規則で」

「いらないって、何度言ったらわかるかな?」


 アインスは笑顔で振り向いて自身の黒い瞳孔の奥に眠る深淵を見せつける。護衛は汗玉を体中の表面に浮かべ、手を放して怯えるように足を後ろへ動かす。


「では、行ってきますね」


 ケスラーは車椅子を中へ運び込んで地下二階を指定する。堅牢な扉が閉じて護衛と空間の繋がりは断たれた。


「ところでアインスさん、性別は女で正しいんですよね?」


 エレベーターが動き始めて早々に、ケスラーはアインスへ女性に投げ掛ける質問としては失礼に値するものを口にした。


「どうした急に?」

「いえ、そこまで女性的な容姿が見られないので」


 ケスラーはアインスの明らかに凸がない胸を上から覗き見る。明らかなセクハラであるが、アインスがそのような行為を吹っ掛けられても気にしない性格だと知った上での行いだった。


「別に乳がなけれど、私は女だ。お前に付いている物はないから安心するといい」


 ケスラーへの返答に視線を加味して、アインスは淡々と答えた。


「そうなんですか。いやー僕、アインさんみたいな人がタイプでして」

「ほう、物好きだな、私のような無愛想な人が好みだとは」

「そうなんですよ。よかったら、僕と付き合ってくれないかなーって」

「断る」

「えー、でもそこがいいんだなー」


 ケスラーはエレベータの中で内で大きく動きながら、笑顔でオーバーリアクションを取る。アインスは扉の方を終始真顔で眺めていた。


「あー、でもそんなにあっさり断られちゃうと、流石に悲しくなってきますねぇ」

「悲しみを感じない奴が一体何を言っているんだか」


 アインスは呆れて嘆息する。


「感じないのが感じちゃうくらい、悲しくなってるということですよ」

「……言葉遊びは嫌いでね」


 アインスが言い終わるとエレベーターが減速を開始した。二人は黙って上から下へ流れる重力の変化を感じ取る。


 地下二階に到着して無言で扉は開かれた。古血ふるちまみれた廊下で死臭と倒れ込んだ屍たちが二人を歓迎する。

 ケスラーは車椅子を押して廊下へ降り立つや否や、アインスに願いを言う。


「アインスさん、ここからは自分で歩いてくれませんか?」

「なぜだ? 別に死体など、お前が蹴散らせばいいだけだろう」


 アインスは動きたくなかった。ただ単に、立ち上がるのが面倒なだけである。


「いえいえ、車椅子が血で汚れるのは如何かなかと思いまして」


 アインスは視線を先に向け、死体の数とそこから流れ出て下に広がる黒血くろちの池を確認する。


「……確かに、お前がこの量の死体を跳ね除けるとなると、大幅なタイムロスになりそうだな。替えの車椅子もないし」


 一呼吸置いたアインスは、車椅子の背面に映る影から黒い霧を発生させた。霧はすぐに収束して二本の腕に変形する。

 アインスは両手を車椅子の肘掛けについて「ふんっ」と掛け声を上げる。両腕を伸ばして座面から臀部でんぶを離した。即座に影の両腕が太ももを押して立ち上がらせ、白衣の後ろに隠れて目立たぬように密接する。こうしてアインスの歩行の手助けを行うのだ。


 水溜まりを横断するように血の池を越えて、屍には尻目も向けずに無言で通り過ぎる。二人は最初で最後の曲がり角の前で止まった。


「音が聞こえますね」


 耳を立てたケスラーが小声で話し掛ける。


「わかった。私が確認しよう」


 アインスは角から体を乗り出して音の正体を確認する。

 特別収容室の向こう側では、ミハイルがアカツキを馬乗りにして抑え込んでいるところだった。アインスはアカツキがいることに驚き、すぐにケスラーの方へ振り向く。


「どうしました?」

「グズニェッツだ。グズニェッツがいる」

「グズニェッツですって⁈」


 ケスラーは半ば信じられず、自分も首を出す。上司の言葉が戯言ではないことを確認して首を引っ込めた。


「確かに、自分が見た報告書と一致しますね……」


 二人は予想外の事態に驚きの顔が隠せない。

 ケスラーは過去の実験資料や報告書でしか、グズニェッツの存在を知らなかった。

 なぜ、紙媒体でしかグズニェッツの存在を知らなかったのか。それは彼が脱走してしまったからである。そのため追加実験も行えず、以降の研究報告でグズニェッツの名が挙がる欄は考察欄だけだった。

 グズニェッツの存在自体機密事項のため、ソ連も事を荒立てて捜索することもできない。一度だけ捕える寸前まで行けたが、その時は確保員が単純に見逃しただけだ。それ以降の所在は全く不明だったが、神の導きによってなのか、十数メートル先で戦闘している。


「いや、勝った方に撃ち込めばいい話だ。気にすることはない」


 アインスの言葉の意味に、グズニェッツのことで頭が一杯だったケスラーは反応が遅れる。


 そう。別にグズニェッツだろうと、実験に使えばいい。

 しかし殺し合いの中でこれを命中させても、折角作ったものが相手の手で殺されてしまっては堪らない。よって、勝った方に撃ち込んだ方が実験結果も正しく取れるのだ。


 ケスラーは相槌を打っていつでも撃てるように射撃の準備を始める。

 持ってきた黒いアタッシュケースの鍵を解除して開けた。内部にはクッションが張り付けられ、そこに埋め込まれる形で十発の麻酔弾の形を模した能力活性化弾と弾倉が収められている。幼い頃に狩りをしていたケスラーは慣れた手つきで弾倉に弾を込めた。


 ドラグノフ狙撃銃を肩に掛けていたケースから取り出して弾倉を装填する。それと同時に、曲がり角の向こうから何かを床に叩き付ける音が響いた。


「そろそろだ」


 壁越しに様子を見ていたアインスが報告する。


「了解です」


 ケスラーはコッキングレバーを引き、片膝を付いていつでも飛び出せる態勢を取る。


 二人がいる曲がり角まで響く巨大な雷撃が空気を振動させた。静かな環境を好むアインスは思わず首をすくめて両手で身を塞ぐ。


「行きますよ。耳は塞いだままにしてくださいね」


 ケスラーはドラグノフ狙撃銃を抱える形で転がり、廊下の真ん中で伏せて照星を合わせる。

 引き金に人差し指を伸ばして引く。銃声が廊下に轟き、空薬莢が吐き出される。

 能力活性化弾はミハイルの右肩に突き刺さった。

 素早く引き抜いたミハイルだが、能力活性化剤に入っていた麻酔によって気絶して倒れる。


「成功です」


 ケスラーは起き上がるとアインスが曲がり角から現れる。


「さて、君の言っていた通りの効果は出るかな」

「それは見てみないと、何とも言えませんね」

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