第13話 アリエチカ邸

 水野とエーリャは、政府高官を接待するために使われるアリエチカ邸の応接室にいた。

 室内は豪華絢爛ごうかけんらんを極めていた。床には赤が基調の絨毯が隙間なく綺麗に敷かれており、壁際に茶器類と茶葉が収められた木製の食器棚が二個ある。暖炉からは暖かい光を放っており、壁には高価な絵画が幾つか掛けられている。天井には三台のシャンデリアが煌めいていた。

 部屋の真ん中には、湯気を上げている温かい紅茶が入れられたティーセットが二客乗せられている。二台のロングソファーが一台のテーブルを囲む形で置かれていた。


「はぁ……嘘だろ……」


 そのソファーの上で水野は肘を足に付けて腕を組み、拳を額に付ける形で目を閉じていた。なぜ、こんな所にいるのか、もう一度思い返す。


 二人の男がエーリャの護衛だと知り、彼らに水野は全力で詫びた。

 謝罪は後で聞くから車に乗るよう護衛たち言い渡され、エーリャと一緒に言われるがままに乗る。その車の行先はアリエチカ邸であった。そして門の傍にある守衛部屋で、エーリャと一緒に事情聴取を受けていた。


 数分後、門番にもう一度車に乗るよう指示される。車は敷地内の森に轢かれている一本道を通り、堅牢さを放ちながらも美しさも持ち合わせるアリエチカ邸の玄関前で停車した。


 そのままダンスホールのような広々とした玄関を通り、初老の執事に応接室に案内されて現在に至る。

 しかしこんな状況でも、水野はエーリャの母親の正体がわからなかった。いや、そうでないと信じたかった。


 うだうだしてもしょうがない。取り敢えず、ティーカップを持ち上げて差し出された紅茶に初めて口を付ける。しかし貧乏舌のせいで、この紅茶が美味しいのかどうか判別がつかなかった。口から離してティーカップを受け皿の上にそっと戻す。


「おじさーん、遊ぼうよ~」


 エーリャが水野の頬っぺたをソファー越しから引っ張る。エーリャは水野にだいぶ心を打ち解けていた。


「ん? おおうっておい、ほっへはいじるなほ」

「え、じゃあ頬っぺた以外なら弄っていいの?」

「場所によるが基本的には駄目だ」

「じゃあ適当に触るから、駄目な所は駄目って言って」

「え~、はいはい……」


 すると突然、応接室の両扉が音よりも早く開いた。二人は驚いて首を動かす。

 無数の勲章をぶら下げてた濃緑色の常装を着用している女が立っていた。髪は一つ編みの長い赤色で、酸素を体に送るために体を大きく動かして呼吸を荒くしている。凛とした顔には汗玉が無数に浮び上がって台無しになっている。タイガーアイのような金褐色の目は真っ直ぐと二人の方に向けていた。


 間髪入れずに、女はエーリャ目掛けて走る。エーリャは寸前に水野から手を離したが、抱きつく母親からは逃げられなかった。四肢全てでホールドされたエーリャは絨毯の上に倒れ、女と共にゴロゴロと転がされる。


「エーリャ⁉ 大丈夫⁉ 怪我はない⁉」

「ちょっ、お母さん苦し、苦しいって……」

「あああ!! 無事で良かった!! 良かったぁ!!」

「お、おかあ、さんくるしっ……」

「ああ! ごめんねエーリャ!」


 母親はエーリャにしがみついていた四肢を離して起き上がる。服に付いた埃を両手でパンパンと軽く掃いた。


「全く、心配したんだから……ん?」


 母親が唖然としている水野に気が付く。

 水野は見てしまってはいけない事象を目の当たりにした気分だった。それが一般人であれば良かったが、残念ながらエーリャの母親は世界中に知られている人物だったのだ。


「З、Здравствуйтеこんにちは……」


 苦笑しながらも、取り敢えずは当たり障りない挨拶をする。


「あ……Здравствуйтеこんにちは……お、お見苦しい所を客人に見せてしまったな……コホン」


 母親は顔を紅潮させながらも、咳払い一つでそれを抑えた。


「君がエーリャを見つけてくれたのかい?」


 母親は母性溢れた先ほどの声とは掌を返したように、男気溢れる声で水野へ問う。


「え、あ、ああ、はい、そうです」

「そうか。私の愛娘を保護してくれてありがとう。さ、ソファーに座ってお茶でもしようか」


 母親はエーリャをソファーに座らせ、紅茶を汲みに食器棚からティーカップと受け皿を取り出す。ソファーに腰を下ろして、置かれているティーポットからまだ温かい紅茶を注ぐ。


「自己紹介と行こうか。私はアリーサ・イヴァーノフ。ソビエト連邦最高会議幹部会議長とソビエト連邦共産党書記長を務めている」


 アリエチカは先ほどの溺愛する母親としてではなく、態度を引き締めて水野と向き合う。顔は四十近くとは思えないほど若々しいが、母親特有の艶がそこにはあった。しかし、それほどの美人を掻き消す威圧感が漏れ出していて迂闊に近寄れない雰囲気を醸し出している。


 水野は無意識に固唾を飲み込んでから自己紹介を始めた。


「私は竹本たけもと信也しんや。日本人民共和国の日本人です」


 竹本信也というのは今回の任務で使っている偽名で、過去に日本人民共和国内のホームレスから日本皇国が秘密裏に買い取った戸籍の一つである。


「日本からわざわざこんな遠いモスクワまで来てくれたのか。観光かな?」

「はい。長期の休みが取れたので、一度遠い所へ行ってみようと思って」

「ねーねーお母さん。おじさんの隣に座っていい?」


 エーリャが足をバタバタさせながら、大人しくしていることに耐えかねた様子でアリエチカに聞く。


「おじさんじゃなくてお兄さんと呼びなさい。達也、いいかな?」

「わ、私は構いませんけど」

「やったぁ!」


 エーリャは水野の隣にべったりとくっついて座る。水野は懐かれたことに表面上は嬉しくも胸中は悲しかった。


 その後は紅茶を飲みながらアリエチカの会話に付き合った。


 アリエチカは水野に、自分の教育方針についてどう思うのかを聞いてきた。エーリャを屋敷からほとんど出したことがない。出したとしても、屋敷内で重要な客人とのお付き合いだけである。国民や他の役人たちに、自分が母親として舐められたくないからそのような行動に走ったのだ。エーリャがファミレスを知らない理由も、アリエチカ邸の近くで迷子になっていたことにも理屈が通る。

 水野はそれに対して自分の率直な意見を言った。一緒にお忍びで旅行へ行ってみてはどうだろうかとか、エーリャにも庶民の暮らしを体験させてはどうだろうかとか。アリエチカはどんな意見でも一つずつ真面目に耳を傾け、今後の教育に反映するという。水野はそんなスタイルに終始調子を狂わされっ放しだった。


 時折、外から職員たちの喧騒が中まで届いていた。アリエチカは仕事をすっぽかしてここへ来たので、部下が指示を仰ぎに来ていたのだ。だが、会話中に誰一人として応接室に立ち入った者はいなかった。




 アリエチカはふと、壁に掛けられていた金色の時計を見る。


「もう一時間も話し込んでしまったな。続きは今夜にでもしようか」

「え? 今夜?」

「ああ。夕食を一緒に食べたいのだが、どうだ? そちらの気を害さないならお誘いしたいのだが」

「……わかりました。今夜の予定も特にないので、ご馳走になります」


 こうして水野は、大国の指導者との晩餐会へ行くこととなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る