第12話 スタローバヤ

 歩いて五分ほどの距離にソ連のファミレス『スタローバヤ』はあった。


『スタローバヤ』はソ連全土に店舗を構える有名な大衆食堂だ。店内には作り置きの料理がショーケースの中に並んでいる。それらを客が指さしや言葉を使って注文し、店員が料理を盛るスタイルだ。


 扉を押して入ると、店内は沢山の客と店員でごった返していた。


「うわぁ、沢山の人……」

「手でも繋ぐか?」

「うん」


 道中のおしゃべりでそれなりに水野と打ち解けたエーリャは不釣り合いなほど大きい水野の手を握る。店員に「少々お待ちください」といわれたので、一つだけ残っていた待ち人用の丸椅子にエーリャを座らせた。


 案内されるまでの間、エーリャの仕草を観察する。

 立ち振る舞いは行儀良くお嬢様そのものだ。所々繕うのがキツくなって崩してしまい、子供らしい行儀の悪い振る舞いをする箇所が見受けられる。


 エーリャの退屈凌ぎのお喋りに付き合って待つこと十分。

 店内の隅っこにある二人席のテーブルへ案内される。水野は目印として椅子にコートを被せ、エーリャと一緒に注文しに行った。


 エーリャは黒パンにボルシチ、ソバの実、山盛りのソーセージと海藻サラダ、ペプシコーラを頼む。水野は黒パンにボルシチ、ソーセージ、ハンバーグ、チキンとトマトの炒め煮、キュウリのサラダにオレンジジュースを注文した。


 支払いを済ませて二人は席に着くと黙って料理を食べ始める。水野は頼んだ料理を十五分も掛からずに平らげた。


「おじさん、食べるの早くない?」


 エーリャは山盛りのソーセージを食べているところだった。


「そうか? あと、俺はこう見えても二十一だ。できればお兄ちゃんって呼んでほしい」


 自分がそこまで老けて見えるのかと、まだ若い水野は心配になる。


「分かった。じゃあおじさんで」

「……もういいよその呼び方で」


 エーリャの食器を丁寧に使う食べ方は、貴族のお手本以外の何物でもなかった。

 ソ連の人々は食事を栄養補給という考えの元、黙って食べるのが一般的である。その食事の仕方に加えてスプーンとフォークを上手く扱っているのを加味して裕福な家庭であることは間違いなさそうだ。


「美味しかった~! また来たいな」

「そうか。今度、お母さんに頼んで来てもらったらいいさ」

「うん! そうする!」


 さっきまでの涙目になっていた顔の面影はもうなくなっていた。水野がコートを着ている間、元気一杯になったエーリャが先に店外へ出る。

 入り口をまたごうとしたその時、水野は撮り忘れに気が付いた。コートのポケットに右手を突っ込んでボタンを握る。


「エーリャ、ちょっとこっち向いて」

「何?」


 シャッターを切り、エーリャの写真を収めた。


「口元が少し汚れているぞ」


 左手でズボンのポケットからハンカチを取り出し、エーリャの口元を拭う。


「さて、どこか保護してくれる所に行くか」


 ソ連に交番はないが、ミリツィア人民警察が街中を巡回している。その人達に預けて事情説明をして自分はおさらばするのが算段だ。その前に両親を見つけた方が公的機関と関わらずに済むので、水野として大いに助かるのだが。


「えー、私はもっとおじさんと一緒にいたいよ」


 水野も少し別れにくかった。慕われている幼気な少女から離れることもそうだが、エーリャが元気な頃の妹の生き写しにも見えるのだ。

 だが、もし深く関わって自分の身元調査をされてしまったらたまったものではない。諜報活動がバレてルビャンカKBG管轄の刑務所にぶち込まれ、拷問に掛けられるのだろう。


「すぐに別れるわけでもないし、そんなに悲しくなるな」

「それでも嫌だよ」

「お母さんと出会ったら連絡先交換してやるから。そうしたらいつでも遊べるだろ?」

「おじさん頭いい! そしたら今度はお母さんと一緒にまた散歩しよ!」

「……そうだな」


 叶うことがないと思いながら表に出ないようにグッと堪える。周囲を見回しながら、エーリャと共にモスクワ市内のどこかにいる両親とミリツィアを探した。




「おい、こっちは探したか?」

「いや、まだだ」


 慌ただしい喧騒が大きいT字路の左の曲がり角から聞こえた。その異様な必死さに水野は違和感を覚える。

 すると黒いコートとウシャンカを身に着けた屈強そうな男が曲がり角から現れた。


「おい! いたぞ!」


 その瞬間、水野達の方を見て叫ぶ。同じ服装の男がもう一人、曲がり角から慌てて飛び出した。


 水野の脳内は自分に起こりうる最悪の事態を想像し、心臓がバクバクと動き出す。しかしそれでも表は平然を何とか繕おうと表情筋を強張らせないように笑顔を保つ。


「あっ……」


 エーリャが水野の後ろに回り込み、ズボンの太もも辺りを両手で掴んだ。小刻みに震えているのが確かに感じ取れる。

 その瞬間、水野の護衛本能が働き始めた。


「すまないが、あなたの後ろにいるその少女をこちらへ渡してくれないか?」


 男の内の一人が物腰を柔らかくして、しかし隠しきれていない敵意を見せながら大股で足早に歩み寄ってきた。水野は右手を前に出してエーリャが飛び出さないように下がらせる。


「悪いが、こちらも時間がないんだ」


 男が水野の左側を通ってエーリャに素手を伸ばそうとするその時だった。

 水野は左手で男の右肩を掴むと同時に自分の足を相手の裏へ回す。素早く左肩に力を入れて足を引っ掛け、男を床に押し倒した。


 攻撃されるとしても対応できると信じ切っていた男は、叩きつけられてから一瞬何も考えられなくなっていた。水野はそのまま肘打ちを相手の腹に決め、うつ伏せにさせて両腕を拘束する。


「貴様! 両手を上げろ!」


 もう一人の男がマカロフPMを腰辺りに隠していたホルスターから取り出す。両腕で構えて水野の眉間へ照星を合わせた。


「きゃああああ!!!」


 道を歩いていた貴婦人が金切り声を上げて逃げ出す。同じ光景を見ていた道端の人々も、それが引き金となって蜘蛛の子を散らすように逃げた。


「くっ……!」


 水野は男に命を握られている以上、降参するしかなかった。しかし降参した所で取り調べを受けて身分がバレてしまう可能性も否定できない。その後はお察しの通りである。


「待って!」


 すると後ろに下がっていたエーリャが双方の間に立ち、水野を庇うように大の字で立つ。


「お嬢様!! 危ないのでそこを退いて下さい!!」

「この人は私を助けてくれた人だよ!」

「え?」


 男は予想外の言葉に軽く銃口を下に向けてしまった。


「この人は良い人だよ! 信じて!」

「……わかりました。取り敢えず、お屋敷まで一緒に行きましょう」


 男は構えた両腕を下ろしてマカロフ拳銃をホルスターに仕舞う。


 水野は嫌な予感を感じ取っていた。このモスクワ市内でお屋敷といえばあそこしかない。郊外に他の屋敷があるかもしれないが、そんな距離までエーリャが徒歩で都心まで来れるとは考え辛い。


 かくして、水野はエーリャと共に二人に連れられてその「お屋敷」へ向かうこととなった。

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