第11話 エーリャ
ソ連の首都モスクワはヨーロッパ都市人口が一位であり、世界有数のメガシティだ。市内にはモスクワ川が蛇行して流れ、周囲にはロシア建築物が立ち並んでヨーロッパ風の橋が掛けられている。
観光地としては旧ロシア帝国の宮殿であるクレムリン、国家行事を含む重要なイベントの地となっている赤の広場、ロシアの聖堂で最も美しいと言われる聖ワシーリー大聖堂、装飾が豪華なことから地下宮殿と呼ばれてホームが深いために非常時には核シェルターの運用を想定されているモスクワ地下鉄などなど。
そこには平日休日問わず、観光客や市民が往来していた。
十一月頃の気候は全体的に寒冷で湿っている。平均気温が常に氷点下であるが一月にかけてさらに低くなる。天候はいつも曇天で日照時間は少ないがそこまで積雪せず、屋根の雪化粧は春が訪れるまで落ちない。
モスクワ時間十一月八日午前十時三十四分。
街中を寒風が疾走する。それが遅めに起床した、スラビヤンカ・ホテルの出入り口にいる水野を震えさせた。
「うーさむさむっ!」
厚手の茶色いコートに黒いマフラー、黒い手袋、青いニット製の帽子、黒いブーツを完全装備しても寒風は体を貫通した。無意識に背中を丸めて縮こまる。
今日の水野の仕事は、アリエチカ邸の周辺を観察することであった。
モスクワ市中心部にアリエチカ邸は鎮座している。一辺五百メートルほどの正方形の形で囲っている赤レンガの壁の中にあり、門も四辺に一つずつのみという強固なセキュリティだ。衛兵が一時間ごとに機械的に入れ替わる交代式はレーニン
敷地の中は入り口から伸びる車道以外は針葉樹に覆われ、傍にある高層ホテルからでも内部はほとんど見えない。
八坂はアリエチカ邸付近にあるホテルの高層階に泊まっていた。入り口の警備交代の時間の把握と、変装技術と能力を駆使して内部の情報を探る仕事に充てられている。
天野は足腰の身体強化の能力を使い、モスクワ市内の偵察を任されていた。
「ママ―、スケートリンクはまだ?」
「広場まであと少しよ」
寒さに抵抗しながらアリエチカ邸へ向かっている時、目の前から三人の親子連れが歩いてきた。親子連れはこの時期に赤の広場で開かれているスケートリンクへ向かっている途中らしい。
すれ違う寸前、水野は茶色いコートの右ポケットにあるボタンを押した。第二ボタンに内蔵されているカメラがシャッターを切り、親子連れの写真が保存される。親子連れは盗撮されているとは微塵も思わずに何事もなく去って行った。
水野はアリエチカ邸に着くまで計二組を撮影した。
「やっぱり駄目か」
水野は三十分掛けてゆっくりと周囲を回りながら、車道の向こう側に見えるアリエチカ邸の赤レンガ壁を眺めていた。が、外からは赤レンガのせいでまったく目視できない。
門も衛兵の交代式の前後を狙って怪しまれない程度に観察した。しかし交代式以外はネズミ一匹の漏れも許さないほどの構えを見せていた。交代式を狙って突破することは可能であろうが、能力者である水野でも敷地内に入った所で射殺されそうだ。
これ以上の収穫は望めないと判断してアリエチカ邸を後にする。
突然、腹の虫が大声で鳴き始めた。腕時計を見ると十一時半手前。
「……昼にするか」
朝食で温めた体も冷え切ってしまったので、昼食を取るために飲食店が立ち並ぶストリートへ足を運んだ。
中世ヨーロッパのような建物が、石畳の歩道に沿って建てられている。建物の一階が飲食店で二階以上が住居のようだ。
肉、野菜、スープ……
ジャンルから決めようにしても目に飛びついてくる様々な店のメニュー板が思考を混濁させ、水野を優柔不断にさせていた。
突然、誰かにコートを引っ張られた。
素早く後ろを振り向くと、赤毛で長い二つ編みの少女がコートの裾を掴んでいた。顔は俯いていてわからないが、服は赤と白を基調としたゴスっぽいドレスを着ている。靴は人形が履くような赤く艶のある靴だった。身長からして年齢は六歳から八歳前後。水野の妹が元気だった頃と同じなのか、無意識に姿を重ねてしまう。
「どうしたんだい? 君の名前は?」
「……エレオノーラ・アリーサヴィナ・ジュガシヴィリ……皆はエーリャって呼んでる……」
エーリャは震える声でそう言った。
「エーリャちゃんか。いい名前だね。迷子になっちゃったのかい?」
すると何とか抑え込んでいたエーリャの顔が今にも溢れるぞと言わんばかりの堪え顔になる。
ここで泣かれて不審者と周囲の人たちに思われ通報、
ロリコンという勘違いのレッテルを張られないためにも、早急になだめなければいけない。
「そ、そうか。でももう大丈夫だよ。お兄ちゃんがお母さんを見つけてあげるから!」
「ほ、本当に、おじさんが見つけてくれるの?」
エーリャは泣き顔ながらも、暗闇で一筋の光を見つけた時のような表情を浮かべる。
「あ、ああ任せ」
「任せろ」と言おうとした瞬間、エーリャの腹の虫が大きな音を立てた。途端にエーリャの顔が辱めで赤くなる。
「あ、ご、ごめんなさいぃぃ……」
「あ、ああ、大丈夫だよ。そうだ! 一緒にファミレスで何か食べようか?」
「ふぁ、ふぁみれす、って何?」
水野はエーリャがファミレスを知らないことに意外だった。もしかしたら裕福な家庭の子供かもしれないと、そのことも脳の片隅に置いておく。
「美味しい食べ物が沢山食べられる所だよ」
「ほんと? 行く行く!」
「離れないようについて来いよ」
この誘い方はありなのかと、周囲の目を気にしながらエーリャと一緒にファミレスへ向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます