第10話 ウラジオストク

 ウラジオストクに到着するまでの十時間、水野は持ってきた小説を読み漁っていた。

 外の風景はどこまでも続く水平線だけなのだ。休憩中に浴びる海風は心地よかったが、部屋に戻って読む小説がなくなった後は船内にあるキングサイズの豪華絢爛ごうかけんらんなベッドで仮眠していた。


「そろそろ着きますので、降りる準備をお願いします」


 船主が船内無線を通して連絡してきた時は、やっとこの閉鎖的な空間から出られると歓喜した。荷物を素早くまとめ、すぐに出られるようにコートも着用する。


 メガクルーザーはウラジオストクにある民間港の桟橋に着いた。船主がロープを持って飛び移り、係船柱けいせんちゅうに手早く括りつける。


 水野はスーツケースを桟橋に移してから飛び移る。直後に北海の厳しい海風が歓迎してきた。想像を上回る冷たさに鳥肌とコートの襟を立てる。

 船主に礼を言い、メガクルーザーは夜景に押されて真っ暗な海の向こう側へ消えていった。


 列車が出発するまで二時間半弱。早めに乗車することを考慮して、国からの支給金を使って観光する。

 まず身軽にするために、ウラジオストク駅の荷物預かり所へ向かう。ここは治安の良い日本皇国ではない。いつ所持品がられるのかわからないのである。


 港から十分ほど歩き、水野はウラジオストク駅舎に着いた。

 建物は街明かりと大通りの車のヘッドライトに照らされ、明暗がはっきりしている。下から一メートルほどの赤いレンガで線引きされており、それより上は白いレンガが積まれていた。それらが小さな宮殿を形作っていて駅舎と言われなければ古い建物を模した博物館か役場に見えてしまいそうなほどだ。


 駅舎の正面玄関から入って地下一階へ降りる。そのままトイレ案内の看板の指示通りに歩く。

 しかし水野はトイレ前を素通りして、さらに奥の通路へ足を運んだ。階段を上って外に出て駅舎の目立たない壁沿いにある荷物預り所に到着した。

 付近には大通りと煌めく観光街があるが、ここがあまりにも存在感を発していないせいで静寂を保っている。


「ふぅ~、やっぱ遠いなぁ……」


『荷物預かり所』と書かれた木製のドアを押す。中はこぢんまりとしていて、スーツケースなどの大荷物が数個、奥の方に預けられているだけだった。


「すみません、荷物を預けてもらいたいのですが」


 カウンターでプラウダソビエト連邦共産党機関紙を読んでいる老人へ話し掛ける。老人はプラウダを閉じて顔を上げた


「どこからの旅行者でしょうか?」

「日本人民共和国です」

「日本ですね。一つの荷物につき二百三十円ですよ」

「では、このスーツケースをお願いします」


 水野はスーツケースを渡し、老人に二百三十円分の硬貨を渡した。


 なぜ、ソ連の領土なのに現地通貨であるルーブルでなく円で支払われるのか。

 既に東側諸国同士の貿易は成り立たなくなっているのである。そのために西側諸国と貿易をしているのだが、取引としてドルなどの相手国の外貨を用意しなければならない。そうして外貨の徴収先として選ばれたのは他国からの旅行客や留学生である。各地にある専用の店で相手国の通貨を使わせて外貨を得ようというのがソ連の策略だ。


 それにのっとって、老人も相手がどこの国民なのか聞いて外貨を徴収したのだ。


「確かに、代金を受け取りました。引換券代わりのチップを渡しますのでなくさないように持っていてください」


 赤いプラスティック製の円盤に『No.35』と油性ペンで書かれたチップを渡される。


「ありがとうございます」


 預け終わった水野はにぎやかな街の方に戻り、夕食として近場のイタリアン料理を食した。


 その後は外貨専用の雑貨店に足を運んだ。

 店内にはチョコレートやポテトチップスからウォッカ、観光客向けの土産が棚に所狭しと並んでいる。時間を忘れて品物に見入った。

 結果として歴代ソ連指導者が描かれたマトリョーシカ、毛皮で作られた帽子のウシャンカ、小腹が空いた時用に菓子を少しと、寝たきりの妹のためにソ連の絵本で有名な両耳が大きく毛深い猿の人形を購入した。


 土産袋をぶら下げたまま、自由気ままにウラジオストクの美しい街並みに見惚れながら散歩する。

 ふと道路のど真ん中で我に返り、腕時計で時刻を確認する。短針と長針は九時四十五分を示していた。


「そろそろか」


 荷物預り所へ戻って老人からスーツケースを引き取った。中身を荒らされていないかを確認してからウラジオストク駅舎へ入り、保安検査場へ入場する。

 保安検査場ではチケットとビザにパスポートの確認とボディチェックを受ける。その間に水野の荷物はX線に掛けられた。

 軍服とほとんど同じデザインの制服を着たチェキストKGB職員はパスポートと三枚綴りの入国ビザ、そして旅行計画表を無表情でチェックしながら、外国人である水野へ鋭い目を向ける。


「旅行の目的は?」


 感情の抑揚なく保安官は問い掛ける。


「シベリア鉄道に乗ることと、モスクワの観光です」

「列車でモスクワまで行って、その後はどちらへ?」

「スラビヤンカ・ホテルに行きます」

「なるほど、わかりました」


 チェキストは判子を朱肉に付ける。手慣れた造作で広げたパスポートに判を押して閉じ、旅行計画表と重ねて不愛想に返す。水野はそれを検査し終えた荷物と共に笑顔で受け取った。


 外国人がソ連へ入国する場合は煩雑な手続きを踏まなければならない。

 まず事前に自国の旅行社を通じてインツーリストソ連国営旅行社に、こと細やかに記入した旅行計画表を持ち込む。数日後にインツーリストから赤で修正されまくった旅行計画表を返されてソ連大使館へビザを発行しに行く。

 発行してもらっていざ出国しても、到着時に税関でチェキストに旅行目的などを問われる。ここまでを潜り抜けたとしても旅行計画表に沿って行動しなければならず、出国時にまたチェキストに尋問される。


 手続きどうこうは良しとしても、チェキストによる質問は誰もが恐れ慄くだろう。

 貴様の考えていることなど全てお見通しだぞと言わんばかりの鋭い視線に、機械のようにマニュアルに沿って投げかける質問、怪しい挙動を一瞬でもすれば傍で待機している仲間に捕らえられる恐怖。KGBソ連国家保安委員会に旅行記録が残ることも知っていたら、旅行中は心臓を常に握られている気分になるだろう。


 水野は荷物を持って冷や汗と脂汗を掻かないように薄暗いホームへ出る。

 ホームには美しい駅舎とは釣り合わないほど古臭い九両編成のロシア号が停車していた。早速乗り込んで狭い廊下を歩き、自分の部屋を見つける。

 二段ベッドが二つある簡素な四人部屋であり、既に一人の女が右下のベッドで荷物の整理を始めていた。水野はスーツケースと一緒に右上のベッドに上げて荷物の整理を始める。


 整理し終え、思いっ切り肩の力を抜いてため息を吐く。それが引き金となってどっと汗が体中から噴き出てきた。

 しかしここは敵国である。弛んだ気を引き締め、心に休む暇を与えさせない。


 予定時刻より十分ほど遅れて車内放送が流れ、ドアが閉まった。少しの間が空いて列車が動き始める。

 敵国の諜報員を乗せた列車は、定刻通りにウラジオストク駅を出発した。

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