第2章 赤と白の都市での任務

第9話 ミーティング

 一九八五年十月二十九日午前十一時五十八分。


 ビジネススーツ姿の水野は、日本皇国公安庁の薄暗い廊下を歩いていた。

 明日から始まる諜報活動についての内容を知るためである。この時点ではまだ何をするのか、そもそもどこへ行くのかすらわからなかった。

 廊下の一番奥に存在する、指定された小会議室のドアの前に立つ。一呼吸置いて二回軽くノックした。


「どうぞ」

「失礼します」


 小さな了承の声を聞き、ドアノブを下げて入室する。


 会議室の中は思ったより広かった。その割には三人用のロングテーブル一台と三脚のパイプ椅子に、奥にはCRTプロジェクタと木製の質素な司会台しかない。黒い常装を着用している上層部の軍人は既に司会台の前に立っており、全員の集合を待っている。


「あ、水野じゃん」

「お前もかよ……」


 先に来てた八坂が、病院で出会った時と同じスーツ姿で真ん中の席に座っていた。水野は右側の椅子を引いて着席する。


「まさか水野と一緒だとわね」

「なんだよ、嫌なのか?」

「別に。ただ意外だなぁって」

「そうか」


 水野が入ってくる時と同様にノックが会議室に鳴り響く。


「どうぞ」


 軍人が許可すると、天野が挨拶すらせずに入室する。


「チッ」


 二人と同じくスーツ姿の天野は水野を見て舌打ちをした。そのまま残った一席に勢いよく腰を下ろす。


「全員揃ったな。それでは、説明に入る」


 上層部の軍人が開始を宣言した。

 早速、ロングテーブルの前まで足を運ぶ。三つのホチキス止めされた『諜報作戦資料』と言うタイトルの書類の束を机に置いた。


「その資料はミーティング終了時に回収する。ここで頭に叩き込め」


 三人は初めて組んだにも関わらず、いざこざを起こすことなくスムーズに資料を取って斜め読みしていく。

 しかしページを捲る手が『作戦目標』に差し掛かったところで、一斉に軍人へ目を向けた。水野と天野はその必要性を疑い、八坂はあいつの趣味かと軽蔑視する。


「……お前らの言いたいことはわかる。でもこれは上からの仕事だ。取り敢えず、一通り読んでくれ」


 仕事の依頼人の弁解は三人にとって言い訳にしか聞こえなかった。

 全員は十分ほどでそれなりの厚さがあった資料を読み終える。それを見計らった司会が詳しい内容の説明を始めた。


「本作戦の目的は二つ。一つはアリエチカ邸への侵入経路の模索、もう一つはモスクワにいる少女の撮影だ」


 三人が軍人に目を向けた理由は後者である。改めて口にされると、会議室の空気が気不味くなった。


「まあ、後者の方から説明しよう。この中にアリエチカを知らない人はいないだろうが、一応説明しておく」


 愛称アリエチカ、本名アリーサ・イヴァーノフはソビエト連邦最高会議幹部会議長とソビエト連邦共産党書記長を兼任している、女性初のソ連最高指導者である。年齢は三十九歳であるが、顔は凛として美しく二十歳と言っても過言ではない。顔立ちからしてグルジア系の人種であることが推察されている。

 社会主義者でカリスマ性が高く、国民と社会主義を第一とした政策は功を成していた。アメリカ含む西側諸国とは仲良くしたい立場ではあるが、今年の一月二十日に就任したロナウド・スミス大統領が反共主義を掲げたために現在の両国の仲は最悪である。

 

 彼女の父称と能力保持者かどうかもそうだが、特に経歴は不明な箇所が多く、一九四六年に生まれてから二十数年間は全くと言っていいほど判明していない。KGBソ連国家保安委員会が揉み消したというのが一般推測論である。


 彼女の存在が公に残されている年は一九七九年の政変だ。

 当時の指導者レオニード・イリイチ・ブレジネフの政治の腐敗に遺憾し、アリエチカ主導の軍部によるクーデターがモスクワ市内で発生。軍部はそのままブレジネフ政権を打倒してアリエチカは最高指導者となった。


 ここまでの情報を軍人は話し、流れるように追加情報を言い渡す。


「公に子供がいないとされているが、実際には女子の出産経験があるらしい」


 三人はここまでの説明を聞いて、少女を撮影する行為の理由を理解した。


「ここまで話せばいいだろう。質問はあるか?」


 しかし少女を盗撮して何になるのか。上層部の目的を詮索するのは諜報員以前として、軍人としてやっていいことではない。

 手を上げる者はいなかった。


「よし、今度はアリエチカ邸の侵入経路の模索についてだ。侵入経路の模索、警備の交代時間など諸々の情報が──」


 その後も続き、一時間でミーティングは終わった。実行する三人は会議室から出て明日の備えを始める。




 一九八五年十月三十日午前五時五十七分。


 軽めの防寒着を着ている水野は、寮の玄関前で落ち葉を足で盛っていた。それを意味もなく蹴散らし、また集める。

 自分の荷物は少し汚れた茶色のリュックサックとガタつくスーツケース。日本人民共和国民を装うため、日本皇国の新品で丈夫な物を持ってはいけないのだ。よって、服装も使い込まれた茶色のコートにダメージジーンズを着ている。


 天野がスーツケースを牽引しながら玄関から出てきた。

 いつもと同じく、二人の間に会話は起こらなかった。京都を駆け抜けている冷たく乾いた秋風が猛スピードで通り過ぎる。

 

 三分後、敷地外からやってきた黒塗りの一般車がブレーキ音を短く立てて二人の目の前に停車した。


「二人共、荷物積んで乗りなさい」


 佑が後方座席の窓から顔を出して言う。二人は無言で各自の荷物をトランクに積み、水野は祐の隣へ、天野は助手席に座った。

 車は発進し、乾燥した秋の道路を走り始めた。運転手はもちろん、俺も天野も佑も、誰も喋らず空虚な空気のまま、車は軍港までの道路の上を滑らかに走る。


 約二時間後、車は福井県舞鶴市の軍港へ着いた。

 桟橋に繋がっている軍艦たちに紛れて、三隻の個人が保有できる白いメガクルーザーがぽつんと停泊している。

 それらに佑、水野、天野の順でそれぞれの船に乗り込んで出発し、ウラジオストクの民間港に到着。その後は列車が来るまで各々ウラジオストクを観光し、列車が来たら別々に乗り込んで七泊八日の退屈な旅をする。


 正直言って、ウラジオストク国際空港を使えば九時間ほどで到着する。しかし、『シベリア鉄道に乗ることとモスクワの観光』という嘘の目的のために、列車に乗ってそれっぽさを出すのだ。水野は初めての鉄道旅に興奮と心配が織り交ざった、複雑な感情を抱いていた。


 三十分後、始めに八坂が出発した。

 一時間半後に水野は出発するが、それまでは用意して貰った海軍の施設の一室で暇を潰す。本当は携帯ゲームを持って行きたかったが、それは西側にしかないため暇潰しの道具が本しか持参できなかった。しかも共産主義のプロパガンダ臭しかしない物ばかり。

 仕方なく、適当に『ドクトル・ジバゴ』という小説をリュックから取り出して表紙を捲る。余談だが、この小説によって作者ボリス・レオニードヴィチ・パステルナークはノーベル文学賞を授与されることになった。しかしソ連当局が圧力を掛けて自主的に辞退させたが、ノーベル委員会は一方的に贈って公式的には授与されていることになっている。


 一方、天野も水野に背を向けて黙々と読書をしていた。




「水野様、そろそろ船が出発する時間です」


 一時間二十分後、海軍常装を着用している軍人が水野を呼びに来た。


「わかりました。直ぐに行きます」


 本の隅に折り目を付けてリュックに仕舞って背負い、スーツケースを引いて軍人の後を追う。建物を出て傍らに伸びている桟橋へ移動する。

 小さく波に揺られながら停泊している白いメガクルーザーに乗り込み、スーツケースをコンクリートの桟橋から船へ移した。


「出港してもよろしいですか?」

「いいですよ」

「では、出港します!」


 船主がエンジンを掛けると、船体が唸りながら小刻みを始めた。

 案内してくれた軍人が縄を係船柱けいせんちゅうから解き、船へ投げ入れる。軍靴で船体を蹴って、船はゆっくりと揺れながら少しずつ桟橋から離れていく。


 その最中、水野はスーツケースを船内への入り口近くに置いて甲板へ出た。そのまま大きく背伸びをして、心地いい風を全身に受け止める。

 吹き抜けてくる海風が潮の香りを運んで、頬と鼻を刺激した。それが仕事で疲れた水野に生きているという実感を与えてくれる。


 メガクルーザーはすぐに最高速度を出し、若狭湾から脱出した。

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