第7話 目覚め

 一九八五年十月十五日午後一時十三分。


「……ん?」


 水野は深い意識の底から浮かび上がった。意識が混濁する中、なんとか力を入れてまぶたを開く。


「うっ!」


 蛍光灯の光が水野の瞳を刺した。思わずまぶたを閉じ、もう一度落ち着いて開く。すると、見知らぬ新築の天井が視界に映った。


「おっ、やっと起きたか」


 知らない声の日本語が聞こえたので、ゆっくりと左側に頭を向ける。ベッドの隣には白衣を着た白髪の男が赤い瞳で見下していた。白衣のボタンは閉めておらず、隙間から赤いTシャツと藍色のジーンズを履いているのがわかる。


「……誰、だ……?」


 毒のせいか、呂律ろれつが回らない口で発音する。


「俺か? 俺はアカツキだ」

「……俺、を、た、助けてく、れたのは、お、前か……?」

「そうだ。死にかけてたお前を助けたのは俺だ」

「……そう、か。アカツキ、か……」


 水野は腹筋に力を入れてゆっくりと起き上がる。しかし力が入らず、すぐに後ろへ倒れてしまった。


「あっはっはっ! 全くバカだねぇ! 点滴がぶっ刺さって、しかも傷が塞がりきってない体で起き上がろうもんとは! バカだねぇ!」


 アカツキはその場で大笑いする。ここが個人の病室でなければ、看護師がすっ飛んできて注意を受けていただろう。


「……なんだよ、ありがとう、とか、言おうと思っ、たのに……」

「ん? ああマジで? そっかそっか、ありがとな」


 水野から感謝の意は完全に消え去った。


「……で、ここは?」

「ここか? ここは津市の国立病院だ」


 水野は敵国内の病院で治療を受けていたという最悪の事態を回避できて安堵した。


「……お前、何じんだ?」


 水野はアカツキにふと思った疑問を言う。

 諜報員は相手がどの人種なのか即座に把握する必要がある。それが体に染み付いていて、相手が何じんなのか判断するのが職業病に侵されていた。

 しかしアカツキは髪を染めているのかは知らないが白髪のため人種すらわからない。せいぜい顔立ちと肌からして白人としか推測できなかった。


「言いたくないな。俺は人種で区別する人間じゃないし」


 アカツキは自分が人種無差別主義者のように、ただそれだけ答えた。


「そうだ。お前が奪ったUSBだが、皇国に送っといたぞ」

「……え?」


 水野の混乱している頭がさらに混乱した。確か奪った当日、リザと言う短めのツインテールの少女に取られたのだ。そのUSBがもう皇国の手に渡っているという話はおかしい。


「おい待、て、え?」

「アカツキ~、まだ起きないの?」


 病室の外から、聞き覚えのあるロシア語の女声がした。


「あ、やっと起きたのね」

「お前……リザ、だったっけか?」

「名前覚えてるんだ。意外ね」


 黒いオーバーTシャツとミニスカートを履いているリザは、アカツキの横にやってきて同じように見下す。


「あれ……じゃあなんで、お前は俺か、ら、USBを、奪ったんだ?」

「俺がその中に入ってる情報を欲しかったからだよ」


 アカツキは皇国の反逆行為を行ったことをあっさりと白状する。


「お前、それ、皇国にバレたら……」

「それなら、これからお叱りを受けに行くところだよ」


 水野はケロッとしているアカツキが図太いのか馬鹿なのかわからなかった。


「俺はそれを言いに来ただけだから。じゃ、また会う時まで」


 アカツキとリザはベッドに背を向けて立ち去ろうとする。


「あ、ん、ちょ、え?」

「あ、なんだ? 何か言いたいことでもあんのか?」

「あ……いや、なんでも、ない……」

「そっか。じゃあな」


 二人は無言で水野の病室から立ち去った。


「……なんなんだ、あいつら……」


 水野はまぶたを閉じ、どっと襲ってくる疲れに身を任せて再び眠りについた。




 三時間後、水野はまた目が覚めた。誰かいないか、首を左へ傾ける。

 視界の隅にビジネススーツを着用した女が丸椅子に座って読書をしていた。黒いサイドポニーテールを右肩に乗せ、凛々しいその顔はとても麗しい。明らかに退屈そうにした目で再生紙のブックカバーが掛かった本を、モデルのような長い足を組みながら読んでいる。


 水野はその女が誰なのか、一目でわかった。


「おい、なんでここにいるんだ。八坂やさか

「あ、起きた起きた」


 八坂ゆうはポケットから紙のしおりを出し、開いていたページに挟んで閉じる。


「満身創痍だね」

「うっせー黙っとけ」


 同期の八坂にダサい姿を見られたくなかった水野はそっぽを向く。外から差し込む初秋の夕日を浴びて顔を橙色に染めた。


「私、結構待ったんだよ。その間は退屈だったんだから」

「知るかよ。本でも読んでたんじゃないのか?」

「あれは仕事の本。内容もつまらないわ」

「そうか。で、何の用なんだ?」

「事実確認。パッパと終わらせて早く帰りたいの」


 八坂は会話を続けながら、斜陽しゃようを遮る形で水野の前に立つ。


「嫌だ。あの感覚は嫌いなんだよ」

「はいはい」


 しゃがんで水野と視線を合わせる。

 八坂が目を見開いた瞬間、水野が日本人民共和国に潜入してから多量出血で瀕死になるまでの記憶と感覚がフラッシュバックした。


「うっ!」


 我に返った水野は布団に潜らせていた右腕で頭を、左腕で胴体を守るように抱え込む。


「あ、撃たれた時の感覚、思い出しちゃった?」

「嫌がらせかてめぇ……」

「これは仕事だから、ごめん」


 八坂は立てた右手を顔の前に置いてわざとらしく言う。


「確かに、黒いツインテールの女の子に馬鹿にされてUSB奪われてたね」

「一言余計だ」

「じゃ、退院するまでお大事に~」


 八坂は黒いパンプスの靴音を鳴らしながら、京都にある職場へ戻って行った。




 それから十三日後の十月二十八日午後九時三十八分。


 午前中に退院してそのまま業務を終えた水野は、寮にある自室の玄関で靴を脱いでいた。


 水野が宿泊している寮は日本皇国防衛省が保有している木造建築物である。三十五年前に竣工しゅんこうなので所々古く、木製特有の軋む音が常に鳴っている。部屋は各階に二人部屋が十室の二階建て。朝夕の二食付きで浴場も完備。宿泊者は基本的に予備軍へ集められた訳ありの能力者たちで、大半が予備軍である。なので平日休日関係なく鍛錬を適度に行いながら各々が怠惰な生活を送っていた。


 水野は着ていたスーツを脱いでワイシャツ姿になり、梯子はしごを伝って二段ベッドの上に寝転ぶ。


「はぁ〜疲れた……」


 枕に顔を埋めて、もう一度大きく嘆息する。


 それに共鳴するように、木製のドアが軋む音を響かせて開いた。

 同じ部屋に住んでいる天野あまの四郎しろうが帰宅してきたのだ。彼も水野と同じく予備軍であり公安庁に勤務している。今日は公安庁での仕事だったのか、ビジネススーツを着ていた。

 無言で黒い肩掛けバックを下ろし、スーツを脱いでハンガーに掛ける。度が低いボストン型の眼鏡を外して洗顔道具にタオル二枚と部屋着を持つと、水野に声も掛けず部屋を出て浴場へ向かった。


 険悪な仲の二人は、天野が入室してきた初日に敵対心を見せから必要最低限以外の会話をしていない。今日は特別例外というわけもなく、部屋の中で会話は行われなかった。なぜここまで険悪なのか、水野なりに一年以上考えてきたが今はもう諦めている。


 突然、悪魔が子守唄を囁き始めた。無論、それは幻聴なのだが疲労が溜まっていたので抵抗せずに布団を被る。ワイシャツのまま、電灯が灯る中、気を失うように目を閉じた。

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