第1章 出会い

第2話 始まり

 日本人民共和国に存在する日工学会社は、国民の要望を受けて安価で丈夫な商品を製造する会社である。無論、共産主義国内の会社なので、品質はどうしても資本主義国の商品よりも悪いが、近年は侮れないほど向上している。

 そしてもう一つ。国からの要望に応じて研究・開発を行っているのだ。戦車や爆撃機から造船や発電所まで、そのジャンルは多岐に渡る。


 そんな会社の本社は池袋に構えられていた。他のビルたちよりも一回り大きく、ガラス張りなことから存在感はかなり大きい。


 そのビルに、一人の黒服をまとった青年がどこからともなく暗い資料保管室へ侵入してきた。


 監視カメラの死角を縫うように書類棚の間を移動し、ついに台座の上に乗っている目的の紅いUSBを発見する。

 しかし、一台の監視カメラがUSBを中央に収めていた。


 青年はここから怪しまれないように盗む算段を持ち合わせていない。

 なので、警備員が監視カメラを運良く確認していないという奇跡を信じ、駆け寄って素早くUSBを手に取る。


 素早くカメラの死角へ足を運ぶ。

 バレなかったか、と一瞬期を緩めた瞬間、警報音が鳴り響いて赤いランプが点滅し始めた。


「誰だ!」


 やらかしたか、と悟った直後、資料保管室の両扉が開き、AKS-74を装備した警備員が入ってきた。


 すぐにドアから入る光に照らされ、警備員は銃口を向ける。


 しかし青年はUSBを懐にしまってその方向へ駆け出した。相手が怯まないことに警備員が困惑するうちに包囲網を抜けられてしまう。


 青年が廊下へ足を踏み出して右掌を見せる。

 すると壁がそこから出現し、追跡を拒んだ。


 そのまま白い廊下を懸命に駆け抜ける。素顔を見せないようにフードを被って走るが、時折汗に濡れて黒髪が張り付いた素顔が見え隠れした。


「追え! 相手は皇国の能力者だ! 気を抜くな!」


 後方から警備員の喧騒が耳に入った。

 青年は曲がり角に片手をつけながら急旋回する。

 すると触れている手の指先から灰色の壁が出現し、瞬く間に青年が走ってきた道は封鎖された。


「たっく、もうそこまで情報が回ってるのかよ……」


 青年は愚痴を零しながらも走り続ける。

 今度は正面からAKS-74を構えた数人の警備員たちが現れた。


「ウザったいなもう!」


 青年は足に力を入れ、その周りにスプリングを生成した。


「う、撃て!」


 少しぎこちなく警備員たちは発砲した。


 青年は膝を曲げ、天井すれすれに背中を合わせて警備員達の後ろへ跳躍する。 着地と同時に右手を床に付けて警備員との間に壁を出現させた。


「そ、そろそろ階段か?」


 青年は追手が予測しづらいよう複雑に移動して地上一階を目指していた。

 現在駆け抜けている階層は地上三階。最悪、窓を割って外へ飛び降りる選択肢もあるがそんなリスキーなことはしたくない。


「こんなに走るんだったら、もうちょい走り込んどくべきだったな……」


 そんなことを考えていると、突然奥から警備員が現れた。

 彼は素早く引き金を引き、麻酔弾の形を模した対能力者弾を二の腕に命中させる。


「チッ!」


 咄嗟に左手を床に触れて壁で空間を分割する。刺さった弾を抜きながら後ろを向いて、薬が全身に巡り切る前に全力で廊下を走り抜ける。


 手段など選んでいられない。

 青年は走りながら壁に手を触れる。そのまま服ごと壁に吸い込まれるようにして向こう側へ渡った。


「奴は能力が使えない! 囲い込め!」


 この機会を逃すまいと、警備員たちは青年を捜索する。しかしその努力も虚しく、既に青年はそのビルから脱走していた。




「……クセェ……」


 青年は路地裏のゴミ捨て場に倒れ込んでいた。

 黒や白のゴミ袋からは何かの果物や腐った食べかすの臭いで満たされていた。しかし青年はそれらを気にするほどの気力すら残ってない。


「うーん、能力は使えないのに、どう帰ろうかねえ……」


 紅いUSBを握りしめながらあれこれと考えを張り巡らす。


「集合場所に行くには能力を使わなきゃ間に合わない。でも今は対能力者弾を撃たれて使えないし、しくじったせいで体力が限界だ。休んで行けばいいけど……幸い、ハンカチとパンツに地図が書かれているし……」


 ゴミ袋に寄り掛かっている変質者は打開策を考えながらブツブツと呟く。


「車に乗って楽に帰りたいなぁ。でも次に能力が使えるまで多分二時間ぐらいだから……」


 青年はおもむろに立ち上がり、右腕に巻いているデジタル時計を確認する。


「朝の五時かぁ……七時まで使えねぇじゃん」


 青年は再びゴミ袋に倒れ込み、ビル群の隙間から僅かに見える薄明の夜空を仰ぐ。生憎、今夜はずっと曇天だった。


「もう一回車寄越せとか言っても聞いてくれないし、連絡入れて朝まで待つしかないか……」


 青年はここにあるゴミ袋で一夜を明かせる程度の寝床を作ろうと決意した。プライド的には許せないが、生死が関わっているのだ。そんなくだらないものを守って死ぬよりはゴミに埋もれて生きていた方がまだいい。

 鉄のように重い手足をなんとか動かしてゴミ溜まりから這い出ようとする。



「あんた、いつまでゴミに埋もれて寝ているつもり?」

「俺だってこんな所で寝たくねぇよ」



 誰かにロシア語で貶された気がしたので、思わず顔を上げる。


 目の前には肩まで黒髪を下しているツインテールの少女がいた。青年より背が低いのにも関わらず、青年の座高よりは高いため、貶すような目で見下している。顔立ちは整っており、透き通るような白い肌から欧米人なのは一目瞭然だった。

 服装は黒のオーバーTシャツに太ももまで見えるミニスカートというラフな格好。下から覗き上げる形で中も見えたが、既に茶色のニセパンで対策していた。今時の魔女か死神が現代社会へ紛れる時に着そうな服装だなと、呑気に想像する。


 生意気な問い掛けに答えてから青年の思考は停止していた。しかし一呼吸置いた後に我に返って、自分が置かれている状況を思い出す。


 追手、捕獲、拷問、殺人──


 青年の頭にぎった言葉はどれも穏やかな単語ではなかった。

 考えるより先に青年の体は逃げようと動き出す。


 だが次の瞬間、青年の逃走は自らの首筋に突き出された鎌のようなものに阻まれる。

 その鎌は大小様々な人間の眼球が無数に張り付いた、『生きた鎌』と呼ぶのに相応しいほど不気味な形をしていた。黒いもやが鎌全体から空気へ滲み出している。冷たく、所々熱く睨まれているような何かを感じる感覚に直視できず恐怖に駆られていた。


 首筋からは冷や汗が垂れ、路地裏に響くのではないかと思うほど心臓が波打つ。


 少しの間が経った後、流暢りゅうちょうなロシア語が青年の耳に入る。


「私はリザ・エンプーサ。あんた、名前は?」

「……水野みずのあきらだ」


 水野は震える声で答えた。


「なるほど、アカツキが言っていた通りね」


 水野はもう諦めていた。

 盗んだUSBは奪われ、自分はその不気味な鎌で首と胴を泣き別れにされると理解したからだ。諜報員になってからいつか来ると覚悟してきたが、いざ死ぬとなると胸に込み上がってくるものがある。

 先ほどの追手から逃げていた時より発汗しており、今にも失禁しそうだった。


「左手に握っている物を渡しなさい」


 水野は目線を変えずにプルプルと震える左の握り拳をゆっくりと前へ差し出す。


「何? 軍人のくせに死ぬのが怖いの? ダッサ」


 リザは嘲笑して握り拳を無理やり解かし、汗で湿っているUSBを取り上げた。


「まぁでも、あんたが死なれたら私も困るから」


 リザは差し出していた鎌を一旦引いたかと思うと、首筋に刃を叩き付ける。

 水野は気を失う直前、朧気な視界の向こう側で生意気な笑顔を浮かべているリザが垣間見えた。




 朝日の光芒こうぼうが差し込む薄暗い路地裏で、水野は目覚める。気を失った路地裏とはまた別の場所だった。

 寝ぼけた頭をすぐに覚醒させて急いで黒く細長い直方体の端末を取り出す。電源を点けてGPSと年代を確認する。


『一九八五年十月十五日午前七時三十三分 日本人民共和国東京都足立区』と、端末は持ち主が求める情報を機械的に表示した。

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