第5話 聖なる王冠

 それから数日ごとに、ベスはエルネストの診察室を訪れた。

「ほう、エリザベスさん、顔色がかなり良くなったね。エルネスト先生は本当に腕がいいようだ。ミルトン、診察が終わったら例の紅茶とお菓子を用意しておくれ」

「かしこまりました」

 ウェリントンさんはいつも大歓迎してくれる。ベスはウェリントンさんに挨拶とお礼を言って、ウキウキしながら診察室に入って行く。

「かなり毒が抜けてきたな。あと一息だ」

 エルネストは、ベスの大きな瞳に光をあててのぞきながら優しく言った。

「先生、毒って言ったけど、私は神経の病気なんでしょう。それってどういう毒なの?」

「心の毒、精神性の毒だ。恐怖やショッキングなイメージとして心を侵食して回復を遅らせるのだ。でもかなり抜けてきたから、どうだい、嫌な思い出に悩まされることも減ったはずだ」

「そういうことなの、そういえばいやな夢も見なくなって、心が軽くなった気がする」

「さあ、また薬を飲んで一時間ほど横になるんだ。時間がくるまで激しい運動は禁物だ。安静にしているんだよ」

 しかしだんだん回復してきたベスはこの頃は三十分もしないで目を覚まし、おしゃべりを始める。

「話すだけならいいでしょ。先生、ウェリントンさんが言っていたんだけど、先生、研究のために世界中を旅したんだって? どこに行ったの?」

 すると、エルネストは、にこにこして話し始めた。

「このイギリスに来るまではアフリカだ。ケニアやエチオピアにしばらくいたんだ。エジプトにしばらく滞在していたこともあるし、二年前は、メキシコのユカタン半島に行ってたな。あとは最近だと、バリ島、ネパール、ペルーってとこかな」

「なんか、すごいところばっかりね。ねえねえ、世界のおもしろい話をしてよ、先生…」

「いいよ。でも今の君には楽しい話をしないと体に障るから、少し作り話が入っても構わないかな」

「いいわよ。先生もともとほら吹きでしょ」

「言ったな…。ええっと、何から話そうかな」

 サバンナの朝、気球に乗ってサバンナを行けば、象の群れ、駆け抜けるキリン、ちょっとひんやりした朝の大気の中で食べる朝食の話…まではよかったが、草原に姿を現した巨大なマンモスやサーベルタイガーのくだりになると、ベスが突っ込む。

「学校で習ったわ。マンモスやサーベルタイガーはもう、一万年も前にいなくなったって、さっそくほら話ね…」

「いたかもしれないよ。真実は神のみぞ知るさ」

「もう、先生ったら。話し方がうまいから本気にしちゃうじゃない、もう!」

 そう言ってベスは大笑い…。嘘か本当はともかく、エルネストの話は迫真に迫っていてつい、聞きほれてしまう。他にもマヤのピラミッドの興味深い話が聞けたかと思うと、神殿の神官に聞いたんだとか、もうどこまで信じていいのかわからない。でも、一緒にいるだけで、世界が広がって行くような、無限の可能性を秘めて輝きだすような気がしていた。

「そういえば、前に水中人類を飼っているって人の話を聞いたけど、あれは本当なの?」

「本当だとも。サンジェルマン伯爵は子猫ぐらいの水中人類を飼うために大きな部屋をまるまる使っているんだ」

 なんでも、最初に森の水槽という、百種類の植物が入っている大きな水槽に水を流し、その鉄分・ミネラルなどの栄養とたっぷりの日光で次の水槽では植物プランクトンをたくさん育て、次の海藻の水槽にそれを入れて、動物性プランクトンをどんどん増やしていく。そして、それらを混ぜて中央の海藻が美しい大水槽に流し込む。大水槽には、いろいろな波や流れが作られ、そこに海の小魚から、クラゲやイソギンチャク、海牛や小さなイカやタコ、エビやカニ小魚までが入れられて、食物連鎖のピラミッドが出来上がる、生き物たちが安定して支え合うようになると、これで第一段階成功。波間に漂う絡み合った藻のかたまりが育つ環境ができると、やっとそこにトリトンと呼ばれる水中人類を入れる。彼らは藻の屑の中を手の指を使って猿のように進み、やがて自分たちの寝床やリビングを作り始める。少しでも水槽全体の生き物のバランスが崩れたりすると、彼らはすぐ弱ってしまう。生き物の組み合わせにもいろいろあり、伯爵は、究極のパズルだと言って楽しんでいたという。

「私、水族館に何回も行ったけど、そんな面倒なことやって魚なんか飼っていなかったわ。またほら話でしょ」

 エルネストはそらとぼけた顔をして黙ってしまった。それをじーっと覗き込むベス。やがて最後に二人は大笑い。

 そんなことが何回かあったが、そのうちベスもエルネストのほら話を楽しみに行くようになった。でも、エルネストのほら話の中に出てくる、サンジェルマン伯爵は聞けば聞くほどとんでもない人物だった。マリー・アントワネットから高価なアクセサリーをもらっただとか、絶滅したドードーという鳥を飼っていたとか、ダ・ヴィンチに肖像画を描いてもらったとか、リビングに時計台が建っているとか、小学生でもわかるようなめちゃくちゃな話が多いのだ。

「まるで、伝説のほら吹き男爵みたいね」

「いや、うそじゃないよ。伯爵は、ダンディーで金持ち、博学で、思慮深い素晴らしい人物だ。いつもポケットにダイアモンドをジャラジャラ持ってるし、服のセンスもかなりいいよ」

「うふ、もしかして大金持ちの素敵なオジサマなのね。でも、そんな人いるわけないわ」

「じゃあ、今度来たときに、伯爵の書いた本を見つけておくよ。見たら驚くね」

「本当かしら…」

 それから数日後、診察室を訪れたベスは、また診察のあと、期待をしないで聞いてみた。きっとごまかすに違いないと思いながら。

「エルネスト先生、サンジェルマン伯爵の本を見せてくれる約束ですよね」

 するとエルネストは書棚の奥から、アフリカのサバンナの風景画が表紙の、美しい本を持ってきた。なんか古い本かと思っていたら、けっこう新しい感じだ。

「先生、サンジェルマン伯爵ってフランス人よね。なんで英語なの?」

「うほん、伯爵は語学も堪能で十六ヵ国語を自由自在だ。ほら、サンジェルマンって書いてあるだろう」

 確かに書いてある。『巨大宗教の源流』という本だ。早速最初の方を読んでみる。

「…というわけで広く世界各国をつぶさに見てきた私が、そのたびに思うのは、宗教の類似性である。世界にはキリスト教やイスラム教、仏教にユダヤ教、ヒンズー教、神道など、教義も歴史も全く異なる巨大宗教がいくつもあるが、時代が下るにしたがって、どれも酷似してくるのである」

 一つ目は『祈り』これは宗教の本質の一つである。これは似ていても不思議ではない。

でも、二つ目、『聖人崇拝』、三つ目『聖地巡礼』などはいかがだろうか。だんだん歴史が進むにつれてあちこちに似たような現象がみられるようになった。ヨーロッパはもちろん、中東、はては極東の島国までどこでも似たようなことを行うようになってきている。

 そして、『大寺院』『大聖堂』『大モスク』『神殿』が世界中あちこちに建っている。この巨大建築は宗教の生まれた時代にはほとんど存在しなかった。

『もとはまったく違う宗教でありながら、その本質はどんどん似通ってきている。これは我々人類の遺伝子の中に、宗教の原型ともいうものが形成されているからではないのか。私はその源流を見た…』

 …私はその源流を見た?…って、どうやってみたっていうわけ? なんかよくわからないけど、やっぱりあやしい本だ。

「どうだい。本物だろう。」

「…本当かしら?」

 でも、確かに本は実在した。なんか狐につままれたような、うまくごまかされたような感じだった。

 それからいつものように大広間に出て、ウェリントンさんたちとティータイムだ。だがその時に、ウェリントンさんからとんでもない事実が発表された。

「御嬢さんはかなり良くなってきた。さすがだね、エルネスト先生。あとどのくらいで完治するかな」

「そうですね、あと2、3回ですかね」

「それはよかった、もう来月にはフランスに帰ってしまうっていうからな。間に合いそうだね」

…え、うそ、先生がフランスに帰る?

「まあ、それまでには治るでしょう」

「そりゃあ、よかった。ところで今日のパイはうちのシェフの特製だ、さあ、召し上がれ、きっとうまいぞ」

 パイはすごくおいしかったが、ベスは食べ終わるのがやっとだった。大好きな先生がもうじきいなくなるのだ…。

 その次にウェリントン邸を訪れた時、ベスは、直接エルネストに尋ねた。するとエルネストは、やさしく笑って、

「ベスは大事な患者だから、また連絡をするよ。心配しないで」

と言ってくれた。それ以上はもう何も言えなかった。

「そうだな、あと1回、1回だけ来てもらえば、もう大丈夫。よくがんばったな」

 あと1回…その声を聞いたとたん、なぜか悲しくなってきて、ベスは不安になってきた。それにそう、心のどこかに引っかかっているあの事件のことが思い返される…あの消えた7人はその後もいろいろな憶測が飛んでいるが、全く手がかりも見つかっていない。あの事件は何も解決していないのだ。自分はあの時何を見たのか、何が起こったのか…。

「あれ? どうした? また心が沈んできた。よくないぞ。楽しいことを考えないと、またぶり返す…」

「先生…あの…」

「どうしても、引っかかることがあるのなら、言ってごらん」

「私は、あの時、なぜ魔女屋敷のそばで倒れたんですか? なぜ、神経の病気になったんですか?」

「ぼくもその時その場所にいたわけじゃないからわからない。でも、何か見たくないショッキングなことを見て、心に傷を負った。毒が流し込まれたようになり、こうして治療をしているわけさ」

「そうなんですか…それから…。」

 ふと思い出したことをベスはエルネストに告げた。

「あの、それから、神のカードってなんなんですか?」

 その途端エルネストの顔色が変わった。

「神のカード? ベスはいったい誰からその話を聞いたんだい?」

「あの、魔女屋敷で消えた友達が、レベッカ・スカーレットが言ってたんです。私たち神のカードを手に入れられるかもしれないと…」

「何てことだ…そういうことだったのか…」

 エルネストは小さくつぶやくと、遠くを見るような瞳で何かを思い返していた。膨大な何かが頭の中を駆け巡り、一つにつながったようだった。

「私の思い違いだった。早く気付けばよかった…。やつの狙いはそっちの方だったのか」

「先生、どうしたの? 神のカードっていったいなんなの」

 するとエルネストは落ち着いて話し出した。

「古代の偉大な霊能力者が霊界の歴史書を見て作ったと言われるカードゲームの中の一枚だ。ゲームの名前はセイナル王冠。人類の創成期から未来に及ぶ進化の様子が聖なる言葉によって書かれている」

「それでその神のカードには特別な力があるんですか?」

「一つ一つのカードの聖なる言葉には、人類を変容させる特別な力が備わっているという。神のカードになにが書いてあるかは知らないが、とりわけ強力なカードだという…」

 誰も知らないようなことをエルネストはすらすらと言ってのけた。

「神のカードが絡んでいたとすると…私にはわからないが、あの7人はもしかしたら、とても遠いところに行ってしまったかもしれない」

 ベスはとても不安になってエルネストに近づいた。

「先生、私、どうしたらいいの…」

 するとエルネストは優しく微笑んでベスの手を取った。

「君は被害者で、何も悪くないし、一つの責任もない。君が悩むことは何もない。でも念のため、なにかおかしなことがあったら、すぐ私のところに来なさい。どんなことがあっても君を守るから…」

「はい…」

エルネストの手は大きくて暖かかった。手をしっかり握ってくれると、心が落ち着いてくる。エルネストがいれば、自分は前向きに生きていける…。あと1回、あと1回、だけ…ベスはエルネストへの思いを募らせていた。

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