第1話 エリザベス・アシュフォードの特別な朝
「じゃあ、行って来まぁす」
ベスは大きく深呼吸していつもの道を歩き始めた。古い生垣をぬけて、田舎道を歩いていく。
「ベス、おはよう。まあ、おめかししちゃって、どこにお出かけ?」
「おはようございます、サザランドさん、ウェリントンさんのお屋敷に行くんです。今日もお庭のバラがきれいですねえ」
元気に挨拶をして、教会の横を抜け、さらに古い水車小屋をながめながら、沼地の横を抜ける。沼の岸では大ナマズを狙って、たくさんの老人がにこにこ語りながら、釣り糸を垂らしている。そして、小川に沿って柳が揺れる通りに出る。さあ、もうすぐだ、ウェリントンさんの大きな邸宅が遠くに見えてきた。だがその時、目の前に二人の黒づくめの男が立っていた。二人のうち一人がベスに気づき、近づいてきた。
「刑事のスペンサー・ロックハートです。夕べ新事実がわかってね。どうしても急いで君に確かめたいことがあるんだ」
知っている若い刑事だった。でもベスは逃げるように足を速めた。
「必ず、母にオーケーを取ってからにしてくださいって言ったはずです。約束違反です」
「君の親友のレベッカ・スカーレットの持ち物らしいものが、魔女屋敷、いいや例の空き家で見つかったんだ。それだけ見てほしいんだ」
例の空き家? 魔女屋敷? 思い出したくもない、話すことなんか何もない。ベスはさっと走り出し、角を曲がるとそこの白い壁のある家の門の陰に隠れた。
「ちょっと確認だけでいいんだ。待ってくれエリザベス・アシュフォード!」
追いかけるロックハート刑事、だが、角を曲がるとベスの姿はなかった。刑事はあたりを見回すと、あわてて先に走って行った。ベスは門の陰にもいなかった。
「さあ、こっちよ」
「すみません。初めて会ってお助けいただいて…」
「変な若い男にしつこく付きまとわれて…これは何とかしなきゃって誰でも思うわよ」
「ありがとうございます。私はこの近くに住んでいるエリザベス・アシュフォードです。ベスとお呼びください」
「初めまして、私はヘミング。旦那と最近ここに引っ越してきてね」
背の高い上品なおばさんだった。その家は黄金のバラの茂みに包まれ、白い大理石でできたテラスと階段が見事だった。大理石の床を踏みしめて、家の中に入る。
「すごいお家ですね」
「イタリア人が別荘として建てた家らしいんです。裏にブドウ畑が付いているのをうちの旦那が気に入ってここに決めたんですよ」
そういうと夫人は窓からそっと外を窺ってベスに教えた。
「まだ、へんな男たちがうろうろしてるわね。しばらくここで様子をみるといいわ。時間が許すなら…」
今日は張り切って、一時間近く早く家を出た。ベスはうなずいて、しばらくかくまってもらうことにした。
夫人は黄金色のローズティーと自家製のグレープゼリーを出してベスをもてなした。でも、どうしたことだろう。このおばさんには一度もあったこともないのに、なぜかもう何十年も前から知り合っているような感じがする。しかも肉親以上のものを感じるのだ。
「わあ、おいしい。お料理上手ですね、ヘミングさん…」
「まったく、こんなかわいらしいお嬢さんが来てるのに、うちの旦那は、まだ釣りをしているのかしらねえ。なんか今度知り合いになったジョージ・バートさんにいい釣りの穴場を教えてもらったとかで、もう今日はウキウキして朝早くから近くの沼に出かけて行きましたのよ。全くしょうがないわね、ブドウ畑の世話もしないで」
「ああバートさんね。あの人、本当に記録になった大ナマズを釣ったとかで、このあたりじゃ有名ですよ。もともと測量技師で真面目な人だわ」
「あら、そうなの? じゃあ、今日は本当に大ナマズを釣ってくるかしら? フフフ」
広いリビングの奥には釣竿が何本か並べられ、その前の棚には、素朴な象の彫り物や工芸品が並べられている。中でも目を引くのは、革と木で作られた鮮やかな腕輪だ。
「ああ、あれね。うちの旦那が若いころ仕事先で手に入れたものらしいの。あの象さん、とてもやさしい眼をしているのよ」
話せば話すほど他人とも思えず、ベスはつい、今日のことを話してしまった。
「本当に助かりました。実は私、好きな人がいて、今日これから告白しようと決死の覚悟でやってきたんです」
「あら、そんなこと話しちゃって大丈夫? でもいいわね、私にもそんな頃があったわ。とっても興味があるわ。どんな彼なの?」
ベスは夫人の目をみてはっきり言った。
「とってもやさしくて、物知りで、いつも世界のことすべてが勉強だと学び続けているまっすぐな人です。彼といると世界がどんどん広がって光りだすような気がするんです」
すると婦人はなぜか目を潤ませてその言葉を聞いていた。
「そう、すばらしい人ね。うまくいくと思うわ。おばさんのカンはけっこう当たるのよ」
「ありがとうございます。そう言ってもらってうれしいです」
ベスは夫人にお礼を言って、再びウェリントン邸へ歩き出した。黄金のバラに囲まれた、白い大理石の不思議な家だった。
もう刑事たちはどこにもいなかった。でもウェリントン邸が近づくにつれて、だんだん不安になってくる。告白なんてやっぱりやめよう、かえって今のいい関係が崩れるような気がする。でも、今日でもうエルネスト先生は、どこか遠くへ行ってしまう…。今日が最後なのだ…。
まだ約束の時間まで少しある。いろいろな思い出がいっせいに押し寄せてくる。
それは二か月前のことだった。
その日、ウェリントン邸に、カレン・アシュフォードとその娘が訪れた。
バラ園とハーブ畑を抜け、大きなノッカーをたたくと、執事のミルトンがやさしい笑顔で迎えてくれる。
「あら、ミルトンさん、今日は今度進学するこの子の寄宿舎のことでお伺いしたのですが…」
「はい、お待ちしておりました、アシュフォード様。主人のウェリントンもすぐまいります。こちらへどうぞ」
大きなホールを歩いていくと、奥からウェリントンが出迎えてくれた。でもその時、ベスはよろよろとふらついた。
「おや、いつも元気なエリザベスさん、どうしました? 顔色が悪いですね」
近くのソファに座り、少し落ち着く。
「どうなされたんですか?」
「実は…」
母親のカレン・アシュフォードはいつも元気な娘を心配そうに見ながら話し始めた。
「娘は毎朝、愛犬のシェパードを連れて近くに散歩に行くのですが、昨日はアレックスだけがリードを引きずりながら一匹で帰ってきたんです。私はあわてて警察に電話しました。すぐに若い刑事さんが駆け付けてくれて、大人数であたりを探すと、家から十分ほど離れた、丘のふもとに倒れていたのを発見されたのです」
「丘のふもとですと?」
「ええ、あの牧場のむこうにある、街のみんなが『魔女の家』とか呼んでいる古い空き家の、その近くですわ」
「いったい昨日、何があったんです」
「それが、この子、何も覚えてないんです。すぐにあの主治医のスミス博士に見ていただいたんですけど、どこも異常はないと言われて。とりあえず、昨日は一日寝て様子を見て、今日お伺いした次第で…」
するとウェリントンははたと膝を打ち、ひらめいたように話し出した。
「ちょうどよかった、実はうちにしばらく腕のいいフランス人の医師が滞在することになっていて…エルネスト先生、ミルトン、先生を急いでお呼びしてもらえるかな」
「はい」
やがて、ミルトンに連れられて、とてもやさしそうな若い医師がやってきた。ところが紹介されて一目エリザベスを見た途端、顔色が変わった。
「こりゃあ、大変だ。ちょっとお待ちください。ミルトンさん、水差し一杯の水とコップを用意してください」
「はっ」
エルネストはすぐに自分の部屋から大きなカバンを持ってきて、中からいくつかの瓶を取り出した。そして鮮やかな手つきで薬を調合すると、それを飲みやすいようにコップの少量の水に溶かして、エリザベスに飲ませた。
「あ、おいしい…」
ベスはごくごくとそれを飲みほした。意外なおいしさに満足げだった。母親は驚いた。ベスの顔色がみるみる良くなってきたのだ。
「これでひと安心。一応少し横になるといい。ミルトンさん、どこかにベッドを用意できますか?」
「は、今使用人に申し付けまして、客室の一つを臨時の診察室にしまして、もうベッドも用意させてあります」
「さすが、ミルトンさんだ。じゃあお母さん、娘さんを連れて行ってください。しばらく私が見ていましょう」
やがて、ベスは診察室のベッドで横になり、すぐに寝息をたてて眠ってしまった。母親のカレンとウェリントンは応接室で今日の用件を話し合うことになった。
ベスは悪夢にうなされていた。丘の奥にあの魔女の空き家があって、そこに若い男女が近づいていく。アレックスとともにそれを眺めるベス。だが、その時、空き家のガラス窓の奥に何かが動く。誰がいるのか? その次の瞬間、灰色の不気味な瞳がベスの眼前に迫ってくる。
「ううう…」
「…かわいそうに…ソウルイーターの毒か…。」
誰かがささやいた。その直後、不思議な夢を見た。寝ている自分の体から黒いオーラのようなものが立ち上り、近くの机に座っているエルネストに近づいた。そして黒いオーラは一瞬大きな怪物になり、エルネストに襲い掛かる。だが、エルネストが振り向き、その瞳が光った瞬間、怪物は黒い灰になって崩れ落ち、消滅していった。
やがてしばらくして、母親とウェリントンが入ってきた。
「よかった。顔色も生き生きして…。ありがとうございます、エルネスト先生。ところでなんという病気だったんですか?」
母親はそういいながらベスを優しく抱き起こした。エルネストは少し間をおいてからこう言った。
「思春期に時折みられる急性の神経症です。エリザベスさんは運がよかった。私は、こちらの専門でして。少しはお役に立てそうです。今日、お薬を出しておきますから、一週間に一度ほど、ここに来てください。まだ完全ではありません。それから、神経の病気なので、なにかきっかけがあると、また容体が悪くなることが考えられます。あやしいと思ったら、すぐにこちらによこしてください。お願いします」
「あのう、エルネスト先生、ウェリントンさん、ありがとうございました。本当に気分がよくなりました」
エルネストは治療代も一切受け取らず、カレンとエリザベスは、ウェリントンに送られて帰って行った。
それが、ベスとエルネストの出会いだった。
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