第20話 異世界こみゅにけーしょん(1)――或る日、霧の中――

※【いつかの光景】~【物思う、心配性の虎】の間の話です。


 日が暮れるのが、段々と早くなってきた。冬の足音は確実に近づいている。直に、寒くて堪らない日々がやって来るのだろう。

 タウシャン村は高原地帯の一角に存在している。春は温かく、夏は比較的涼しく、秋は少しだけ肌寒いと感じられる気候はなかなか過ごし易い。ただ、冬が訪れると遠くの山々から強い冷風が吹き下ろしてくるので、人によっては体感温度は零下に達するかもしれない。そして、豪雪地帯には遠く及ばないが、浅く積もる程度には雪が降る。その時期が巡ってくると、炬燵の中で丸くなる猫宜しく、寝床の中で丸くなる大きな虎の亜人ドゥンが見られるようになるのだ。

 熱帯、或いは亜熱帯と思われる地域で生まれ育ったスーリヤは寒さを苦手としているらしい。自前の毛皮の上に厚手の服を重ねているので、冬毛だけでは防寒が間に合わないのかもしれない。一方の寧々子はというと、冬季は確りと雪が降り積もる地域に生まれ育ったので、寒さには慣れきっている。番となって以来、冬が訪れるとスーリヤは寧々子で暖をとろうとして後ろから抱きしめてくることが稀にあったので、寧々子は密かにそれを喜んでいた。

 その二人の間に生まれた、人間と虎の亜人ドゥンの混血児であるカルナはどうなのかというと――


「ちゃぶっ」


 父親の性質を強く受け継いでいるのか、寒さを苦手としているようだ。

 居間の絨毯の上に、寧々子お手製の木の玩具を広げて遊んでいるカルナがくしゃみをして、ぷるぷると震えている。家事に精を出していた寧々子はそれに気がつくと、クッションの上に置いてあった子供用の上着を、我が子に着せてやった。


「おやおや?」


 凝った作りのお古の上着――隣家のギュル夫人から頂いた、十歳くらいの兎の亜人アルミラージの男の子が着る大きさのもの――の袖丈が少し短くなり、袖周りも少しきつくなっている。カルナは体の成長が早いのか、服が直ぐに小さくなってしまうので大変だ。


「いつも頂いてばかりだからなぁ……一度くらいは自分で作るかなぁ、母親だもんね」


 何やら思うところがあったらしい寧々子は一念発起して、カルナの体の成長を考え、大きめの冬着を作ることにした。

 タウシャン村には日本のように既製品の服を取り扱っている店はなく、村人は各家庭の女性の手作りの服を着ている。新しい服を必要とした場合、自分で作るしかないのだ。

 異世界に迷い込んだばかりの頃の寧々子は、繕い物は出来ても、服を作る程の技量はなかった。だが隣家のお喋り好き母娘や、スーリヤの相棒(自称)バイェーズィートの細君デニズや、村長夫人のスィベルたちと交流していくうちに裁縫の腕がめきめきと上がっていったので、寧々子は自力で服が作れるまでになっていた。但し、刺繍の腕だけは上がったとは言い難い。技術そのものはあるのだが、如何せん寧々子にはセンスというものがない。刺繍は、ギュル夫人の助けを借りよう。寧々子は心にそう決めた。


「うーん子供服に合うような布が余ってるかなぁ……?」


 物置に向かった寧々子は、機織りをして作り貯めしておいた布地をしまっている櫃をひっくり返して、ああでもない、こうでもないとカルナに布を合わせていく。ふと覗き込んだ時、櫃の底の方にしまわれていた衣装を発見した。それは明らかに、寧々子が今着ている衣装とは違う作りのものだ。


「うわぁ……懐かしいなぁ。こんな所にしまいこんでたのかぁ……」


 日焼けして色褪せた黒地に白い文字で”模範囚”と書かれたTシャツに、これまた色褪せたインディゴブルーのデニムパンツ、そして白茶けた色の古びたスニーカーは、寧々子が此方の世界にやってきた時に身に着けていたものだ。

 丁寧に畳まれていたTシャツやデニムを床の上に広げて眺めてみると、様々な思い出が鮮やかに蘇ってきた。


「”かか”、なぁに?」

「んー?これはね、”かか”の服だよ」

「”かか”、着てない」

「うん、着ることがなくなっちゃったから、この中にしまってたみたい」


 異世界の服をじっと見つめているカルナが、恐る恐るデニム生地に触れる。初めての感触に驚いたのか、一瞬身を強張らせたが、直ぐに新しい玩具を見つけたような顔をして、ぺしぺしと叩くようにそれに触り始めた。


(こっちに来たばかりの頃は大変だったな……。亜人なんて見たことがなかったから驚いたし、言葉は全然通じないし、それにスーの顔が怖いし、虎だから絶対食べられると思って、スーに慣れるまでずっとビクビクしてたよね……)


 全く異なる世界にやって来てしまったのだと納得するのは早かったのだが、そんなところにたった一人でいることが心細くてどうしようもなくて、寧々子は夜が訪れると泣いていたものだ。愛想はないけれど、根は優しいスーリヤにもいつしか慣れて、どうにか此処で生きていこうと考えられるようになってから、我武者羅に頑張っていた日々が懐かしい。

 一向に元の世界に戻ることは出来ていないけれど、愛する人が出来て、その人と共に暮らせて、子供まで出来たことは幸せだ、と、ついつい感慨深い思いに浸っている寧々子の袖を、小さな虎の手が引っ張ってきた。


「”かか”、着ないの?」


 この服に着替えろ、ということかと寧々子が尋ねると、カルナはこくりと頷いた。


「あれから全然着てないし……そうだね、久しぶりに袖を通してみますかー」


 思い立った寧々子は早々に着替え、その場でくるりと回ってカルナに披露してみる。


「カルナ、”かか”、この格好似合ってる?」

「う?」

「あはは、分からないかー」


 寧々子の服から興味が失せたらしいカルナは、開けっ放しの櫃の中に潜り込んで遊んでいた。この様子では暫くは大人しくしていそうなので、寧々子は腕を上げたり、腹回りを触ったりしながら、違和感の正体を探ってみる。心なしか、服がきつくなっているような気がするのだ。


(……こっちに着てから、太ったのかな?でもなぁ、運動量とかは特に変わってないと思うんだよね……。あ、そうか、今は妊娠中だった!そうだよ、妊娠中だから服がきつく感じられるのかも!膨よかにならないとお腹の子に栄養がいかないものね!)


 必要があるから肥えたのであって、必要がないのに肥えたのではない。二人目の子供が宿っている、膨らんできたお腹を優しく擦りながら、寧々子は自分に言い聞かせた。


「あ~~~っ!そうだった!買い物に行こうと思ってたんだ!カルナ、お外に行くよっ!」

「は~いっ」


 ふとした瞬間に用事を思い出し、慌てた寧々子は普段着に着替えることはせずに、その格好の上に冬用の上着を羽織り、ブーツを履く。手際良く頭に布を巻きつけると、財布と買い物籠を手にして、カルナと共に出かけていった。






**********






「あれ?こんな時に霧が出るなんて珍しいなぁ……」


 タウシャン村の付近には、汽水湖がある。ある条件が揃うことによって湖で発生した霧が風に乗って流れてくると、村全体が霧に覆われることがある。霧が発生すること自体は大して珍しくもないのだが、それは専ら早朝に起こることだ。今時分は地平線から太陽が昇ってから随分と経っており、昼時とも言える時間帯だ。そんな時間に霧が現れているのは、非常に珍しいことである。


「うーわー、周りが全く見えないなぁ。カルナぁ、何か見える?」


 人間の寧々子の目には見えなくても、父親譲りの亜人の目を持つカルナには見えるものがあるかもしれない。白霧の中、足を止めて辺りを見渡している寧々子は、手を繋いでいるカルナに問いかけた。


「まっちろ」

「そっかー、カルナの目でも見えないか。困ったなぁ……」


 視界が悪い中を下手に動くのは避けたい。幼いカルナを連れているし、更に寧々子は妊娠中だ。寧々子たちに何か起こってしまっては、仕事に出かけているスーリヤに心配をかけてしまうことになる。


「どうしようかなぁ……」


 今回の霧は濃く、一メートル先もよく見えない。

 然し近くに誰かはいるはずなので、姿は見えなくても、話し声くらいは聞こえてきそうなものだが――不思議なことに声が聞こえてこない。それよりも、人の気配が全く感じられない。霧が出てくる寸前まで、寧々子たちの視界には、確かに村人の姿があったというのに。


(何だろう、胸騒ぎがする……)


 かろうじて見えるカルナの手をぎゅっと握って、寧々子はその存在を確かめる。


「”かか”、あっち、匂いする。聞こえる。モーモー?」


 カルナは繋いでいる手を揺すって、寧々子の意識を自分に向けさせる。指を指している方向から、カルナの耳には何かが聞こえてくるらしい。寧々子の耳には、何も聞こえてこない。


「モーモー?メエメエとかコケコッコじゃなくて?」


 村人の殆どが何がしかの家畜を飼っているので、家畜である羊や山羊、ロバや鶏は頻繁に見かけるのだが――村には”モーモー”と鳴く牛を飼っている者はいない。五感で感じとったものを素直に言葉にするカルナのことだ、恐らくは嘘を言っているのではないのだろう。

 然し、”モーモー”の正体は何なのだろう?と考えながら、寧々子は別のことを考え、徐に虚空を仰ぎ見る。


(……あの時も、こんな感じだったよね)


 ”あの時”も白い霧の中にいて、いつの間にか別の世界へと迷い込んでいたと、寧々子は振り返る。


「”かか”、ちゃぶっ!足、つめたいっ!」

「本当だ、急に寒くなってきたね……。ん?足が冷たい……?」


 徐々に霧が晴れてきて、隠されていた風景が朧に見え始めてくる。寧々子の目に飛び込んできたのは、霧とは違う白色。


「――えぇ?」


 嘗ては、よく目にしていた風景だった。

 遠くに見えるのは、雪化粧を施した山々。目の前に見えるのは、広々とした雪原。その中には、除雪されて出来た道が真っ直ぐに一本通っている。辺りを見渡すと山際の方にやや古びた建物があり、広い敷地を囲う柵も見えた。あれは、牧場だ。

 この雪景色は間違いなく、寧々子が知っている――彼女の故郷の冬の風景だった。


「う、そ、嘘、嘘っ、帰ってきたの、日本に……?どうして……っ!?」


 はらはらと天から降ってくる白い雪が顔に当たり、体温で解けて水に変わっていく。水滴は冷気で熱を奪われて氷の冷たくなっていき、微かに皮膚に痛みを感じるような気がする。カルナは濡れた感触が気になるのか、顔を忙しなく手で拭いているが、寧々子はさして気にした様子もなく、ただただ呆然としている。


「”かか”、顔、冷たい、足、冷たいっ!ちゃぶっ!どこっ!?」

「あ、ああ、御免ね、カルナ。冷たかったね、御免ね……」


 見慣れない風景に不安を覚えたカルナが喚いたことで、寧々子は現実に引き戻される。ふと視線を落として、カルナが裸足――カルナもスーリヤも雨で地面がぬかるんだり、地面が熱くなったり、冷たくならない限りは基本的に外でも裸足で過ごしている――で雪の上に立っていることに寧々子は漸く気が付いた。彼女は慌てて頭に巻いていた布を外すとマフラー代わりにカルナの首に巻いてやり、カルナを抱き上げる。そしてカルナの頬に自分の頬を摺り寄せて、不安がっている我が子を安心させようとする。


(どういうこと?あたし、日本に帰って来られたの……?)


 或る日突然異世界へと迷い込んでしまったように、或る日突然元の世界へと戻って来てしまったというのだろうか。この状況は、そうなのではないかと寧々子に想像させる。


(兎に角、カルナを温かい所に連れて行ってあげないと……)


 このまま雪原の中に突っ立っていては、自分はともかく、寒さに慣れていないカルナが凍えてしまう。寧々子は腕に抱いていたカルナを背負い、微かに轍の残る道を牧場の方へと向かって歩き始めた。

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