第19話 物思う、心配性の虎
※【いつかの光景】の後の話です。
灼熱を齎す太陽が地平線の彼方へと姿を隠すと、カラカラに乾いた砂の大地は一転して、身を震わせるほどに寒くなる。日中、宿営地に張った天幕の中で休んでいた
その隊商の列の後方に、スーリヤとバイェーズィートの姿がある。バイェーズィートは丈高いラクダの背に乗っており、そのラクダの手綱をスーリヤが引きながら歩いていた。普段は見下ろす側でいることが多いスーリヤも、この時ばかりはバイェーズィートに見下ろされる側になる。
――首は疲れないし、歩幅や歩く速度を調整したりしないで良いので丁度良い。と、スーリヤは内心で思っていたり、思っていなかったり。
頭上にある天蓋はどんどんとその色合いを濃くしていき、青鈍は瑠璃へと変化を遂げる。そうすると月と星は輝きを増してくる。
「あー、やべぇな……。昼間に寝れねえから、暗くなると自然と眠くなっちまう……」
一方スーリヤはというと、規則正しい生活にも不規則な生活にもそれなりに順応出来るので問題はないようだ。だからこそ、隊商の護衛という仕事が出来るのだろう。
「バイェーズィート。眠いなら寝てろ、無理すんな」
ラクダの上で舟を漕いでいる方のが危なっかしい、と、スーリヤはラクダの背に乗っているバイェーズィートに声をかける。
「おぉー、悪いな、スーリヤー、そうさせてもらうわー……。俺がラクダから落っこちたら拾ってくれよー……」
「あん?お前が落ちたら……捨ててくに決まってんだろ。お前の妻子には砂漠で干物になったって言っておいてやる」
「……てめー、このやろー、覚えてろよー……。てめーに何かあったら…………………………ぐぉー……」
恐らく、「お前の妻子に同じ台詞を吐いてやるからな」と言いたかったのだろうが、それを言う前にバイェーズィートは睡魔に負けた。ラクダの鞍につけた背もたれに寄りかかりながら、バイェーズィートは前後に大きく揺れるラクダの上で器用に眠り始める。
「……お前、寝るの早過ぎだろ……」
そして、とても潔い。どれだけ俺を信用してるんだか。そんなことを思ったスーリヤは苦笑を浮かべ、寝息を立てているバイェーズィートを見上げ、そして直ぐに顔を前に戻した。
『よう、にいさん!あんた、
『……?』
『下!下だよ!かなり見下げて!』
『………………ああ、いた』
成人として認められる十五の年に
『そういやぁ、スーリヤのにいさんは
『……俺は十八だ』
『へえ、十八か、若いねぇ!…………え?十八?…………年下…………?』
『……………………あんた、年上だったのか……』
小柄な
巨躯を誇る
互いの実年齢を知った時の衝撃は、凄まじかった。その時の話は、今では酒の席の笑い種の一つとなっている。つまりは、良い思い出だ。
夜の砂漠は、小さな音でもよく聞こえてくる。
隊商の人々の砂を踏む音や、バイェーズィートの寝息を耳にしながら歩いているスーリヤは、ふと、空を仰いだ。目に飛び込んでくるのは、白く輝く月を浮かべ、燦々と輝く無数の星を鏤めた紺青の天蓋。吐く息が白くなるほどに寒い砂漠で見る夜空は美しいと、スーリヤは素直に思う。勿論、タウシャン村で見る夜空も、故郷で見る夜空も美しいことを彼は知っている。
(……今夜は妙に気が散るな)
護衛の仕事の際は常に気を張っているので、これほどに物思いに耽ったりはしない。砂漠の行軍は慣れているつもりだったが、スーリヤが思っているよりも、疲れが溜まっているのだろうか。やれやれ、と息を吐いて視線を元に戻そうとした時、視界の端で何かが動いた。それが気になったスーリヤが再び空を仰ぐと、南西の方の空で星が一つ流れ落ちた。それを目にしたのはスーリヤだけではないようで、前方を行く商人や護衛たちが、「今の見たか?」、「流れ星だったよな?」とひそやかに話しているのが聞こえる。
『あたしがいたところではね、流れ星にお願いすると、願いが叶うって言われてるんだよ』
スーリヤは不意に、以前に寧々子が言っていた言葉を思い出す。
流れ星が消えるまでの間に願い事を三度唱えるのだと彼女は言っていたが、流れ星は一瞬のうちに現れては消えるので、それは至難の業だろうとスーリヤは思ったものだ。
(これだけあれば、何とか叶いそうかもなぁ……)
ぽつぽつと現れては消える流れ星は、気が付けば雨のように紺青の空に降り注いでいる。この状態であれば、沢山願い事を唱えれば一つくらいは叶うかもしれない、などという考えが浮かんでくる。とりあえず、一番大事なことだけ、願ってみよう。そう考えたスーリヤは、心の中で願う。
――自分が留守にしている間、家で待っている寧々子とカルナの身に何事も無いように。
寧々子もカルナも元気なのは良いのだが、それが過ぎることがある。無鉄砲というか、向こう見ずというか、頑張りすぎるというのか、無茶をしてくれる時があるのでスーリヤは心配になることが少なくない。いや、多い。
カルナはまだとても幼く、”自分に出来ること”と”出来ないこと”の境が分かっていないので、目を離すと危ない。寧々子は今、二人目の子供を宿しているお腹が大きくなっているのだが、流石はカルナの母親というべきか、能天気に無茶をする。この隊商の旅に出る前に隣家のギュル夫人や、バイェーズィートの細君デニズ、村長夫妻にも「暇があったらで全く構わないので、ネネとカルナを見張って欲しい」と頼んでおいたけれども、スーリヤはどうにもあの二人の行動が心配だ。
あの二人は油断をすると、何かを仕出かす。そのことをよく知っているスーリヤは、夫として妻のことを、父として息子のことを案じている。それが杞憂に終わってくれることを、スーリヤは流れ星の雨に願う。
(……こんなこと、昔の俺だったら絶対にしなかったな)
寧々子に出会ったことで、自分はなかなかの心配性だったと気付かされたスーリヤは、声を出さないように思い出し笑いをしてから、視線を前に戻す。すると、その瞬間を狙ったのかは定かではないが、ラクダの体が大きく揺れて、頭上から眠っているバイェーズィートが落ちてきた。スーリヤは難なく受け止めると、バイェーズィートを鞍に逆向きに跨らせて、背もたれを抱えるように寄りかからせてやる。
「……バイェーズィート、お前、眠りが深すぎだろ」
スーリヤとしてはそれとなく手荒く扱ったつもりだったのだが、熟睡しているらしいバイェーズィートは起きる気配を全く見せない。一度深い眠りに入ると梃でも起きないバイェーズィートに呆れたスーリヤは溜息を一つ吐いてから面を上げ、護衛の仕事に専念し始める。
バイェーズィートに呆れたことで気持ちの切り替えが出来たのか、それからのスーリヤは気を散らせることもなく、静かに蒼い砂漠を歩いていった。
**********
「おかいりなさい、”とと”!」
長い隊商の旅を終えて戻ってきたスーリヤを玄関先で迎えたのは、元気いっぱいに駆けてくるカルナだった。
「……ただいま。”かか”と一緒に良い子にしてたか、カルナ?」
「してた!」
脛に抱きついているカルナをそっと剥がして抱き上げて、スーリヤは居間へと向かい、其処で不安定な動きでカルナのおやつを用意している寧々子に出会した。スーリヤが長旅に出る前よりも、二人目の子供を宿している彼女のお腹は大きくなっているようだ。
「おかえりなさい、スー」
「ん、ただいま」
カルナを片手で抱えながら、スーリヤはゆっくりとしゃがみ、寧々子をそうっと引き寄せる。寧々子はスーリヤの頬を両手で包むと、そっと唇を重ね、そして微笑んだ。
――良かった、寧々子もカルナも大事無いようだ。それを漸く実感出来たスーリヤは、ほっと息を吐く。
「俺が留守の間、何かあったりしたか?」
旅の間の心配は杞憂に終わったのだと確認したくて、つい、スーリヤはそんなことを口に出していた。すると寧々子は急に口元を引き攣らせ、不自然に目を逸らした。これは確実に何かを隠しているな、と、スーリヤは直ぐに勘付き、じいっと彼女の様子を窺う。寧々子は頑張って、目を逸らし続ける。
「あのね、”とと”、聞いて?」
「うん?何だ、カルナ?」
小さな手が胸を叩いてきたので、スーリヤは腕に抱えているカルナに目を向ける。寧々子はカルナが何を言おうとしているのかを察し、あたふたと慌てる。
「ひぇっ、だ、だめっ、カルナぁ~っ!」
「”かか”ね、湖に落ちた!」
「あぁあぁぁぁ~~~~っ!」
きらきらと目を輝かせているカルナの言葉に、寧々子はがっくりと項垂れた。彼女のその様子から、カルナが言ったことは事実なのだとスーリヤは悟った。
「…………………………ほう、詳しく話してもらおうか、ネネ?」
「うぁ、はいぃ……っ」
スーリヤがちらりと一瞥すると、寧々子は滝のような汗を流しながら、カルナが言ったことの説明をし始める。
スーリヤが帰ってくる三日ほど前のこと。バイェーズィートの子供たちがカルナを魚釣りに誘ってくれたので、寧々子は引率者として、彼らと共に汽水湖まで出かけたのだ。汽水湖の桟橋に腰を下ろして、カルナと一緒に釣竿を持っていると、強い引きがあった。寧々子が魚に負けじと大きく撓む竿を引こうとしたが、かかっていた獲物は想像していたよりも大きかったらしい。魚との勝負に負けた寧々子はバランスを崩し――大きな水音を立てて、湖に落ちたのだそうだ。
「オルハンくんたちが直ぐに助けてくれたし、カルナを巻き込まなかったし、それにね、お腹も何ともなかったよ。その後、魚が沢山釣れたし!濡れた服を乾かすためにオルハンくんが火を起こしてくれたから、ついでに魚を焼いて食べたのよね」
「おさかな、おいしかった♪」
「ねー、美味しかったねー♪」
「……」
似た者母子は、スーリヤの心配を余所にきゃっきゃとはしゃいでいる。
スーリヤが留守にしている間、寧々子が湖に落ちるという想定外の出来事に見舞われたものの、お腹の子には何事もなかったようであるし、寧々子もカルナも元気なので――過日、流れ星の雨に願ったことは、半分は叶ったようだ。それで良し、としようとスーリヤは思うことにした。能天気な妻と我が子に呆れて怒る気力が無くなった、とも言うが。
そこで、スーリヤは、あることを思い出した。家に帰ってくる前にバイェーズィートの家に立ち寄った時、デニズと子供たちが、スーリヤに物言いたげな表情をしていたことを。あれは若しかすると、彼らは寧々子が湖に落ちたことを伝えようとしていたのだろうか。だが、彼らはそのことをスーリヤには告げていない。となると、寧々子が彼らに口止めでもしたか――?
「……ネネ、オルハンたちに口止めでもしたか?」
「そりゃあ、勿論、スーにばれたら……。いや、してません、口止めなんて高等技術、使ってません」
「……ネネ、後でじっくりと話をしような?」
それとなく冷気を孕ませて、スーリヤはうっすらと笑みを浮かべた。それを見た寧々子は、蛇に睨まれた蛙と化す。父と母の間で何が起こっているのか理解していないカルナは、「おやつ食べないの?」と首を傾げたのだった。
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