第17話 いつかの光景
とある日の昼時。
寧々子とスーリヤはのんびりと、布の上に並べられた料理に舌鼓を打っている。
本日の昼食の献立は
ちらりと愛しい人の様子を窺うと、表情こそは見慣れた仏頂面のままだが、もふもふとしている虎の尻尾がゆらゆらと機嫌良く揺れているのが見えた。その様子からスーリヤは寧々子の手料理を美味しいと思ってくれているのだと分かる。それが嬉しい寧々子はより一層笑みを深して、もくもくと、もぐもぐと料理を食べていく。
「よく食べるな」
食事中は寧々子のお喋りに付き合って相槌を打っていることが多いスーリヤが珍しく話題を提供してきたので、寧々子は一旦手を止めて、スーリヤの方へと顔を向ける。するとスーリヤは腕を伸ばして寧々子の口元に触れて何かをとり、それをぱくりと食べた。どうやら口の端に食べかすをつけていたらしいと気が付いた寧々子は頬を染め、はにかんだ。
「ちょっと前までは胃がムカムカしてて、食欲が落ちてたんだけどね。この頃はもう、それが嘘だったみたいにお腹が空いて空いて……」
「ふぅん。沢山食うのは良いが、俺の取り分は残しておいてくれ」
「うん、気をつけるね……って!スーの分を横取りするほど食べたりしないからね!?」
自分が食べる分量とスーリヤが食べる分量をちゃんと計算して料理を作っています。寧々子はそう主張し、頬を膨らませて、じとっとした目でスーリヤを見る。そんな寧々子を見たスーリヤはどこか楽しげに目を細めて、「そうか」と呟いた。
食後のデザートにと作っておいた
寧々子は足音をなるべく立てないようにと気をつけながら近付き、スーリヤの傍に腰を下ろす。
「スー。御飯を食べて直ぐに横になると牛になっちゃうよ」
「……ならねえって」
「あたしの故郷では、こういう時はそう言うんです」
確かに牛にはならないけれど、食後直ぐに横にならない方が体に良いそうだ。いつだったか、母親がテレビ番組で見て知ったことを言っていたことを思い出した寧々子は何となく言ってみただけで、スーリヤの行動を咎める気はない。スーリヤも寧々子の言葉を聞き流すだけで、行いを改める気はないらしい。
目を閉じたまま寛いでいるスーリヤの耳の裏や喉元を撫でていた寧々子は徐に手を止めて、仰向けに寝ているスーリヤの腹の上に突っ伏する。寧々子はスーリヤに甘えたくなると、大抵こういう行動をとるのだ。スーリヤはそれを知っているので、吐息混じりの笑みを浮かべると、胸に耳を当てて自分の心臓の鼓動を聞いている寧々子の頭や背中を大きな手で優しく撫でてくる。
力加減が少し下手なスーリヤの愛撫はどんなに優しくても強く感じる。けれども、その強さは寧々子を安堵させてくれる力も有しているのだ。穏やかな気持ちになった寧々子が甘えた声で「スー」と彼の名前を呼ぶと、スーリヤは「んー?」と気のない返事を寄越してきた。
――これから伝えたいと思っていたことを伝えたら、彼はそんな反応を見せてくれるのだろう。”あの時”のように、「嬉しい」と言ってくれるだろうか。
想像したようになるのではという期待と、そうはならないかもしれないという不安を抱いた寧々子はスーリヤの顔を見ないように、突っ伏したまま呟く。
「あのね。子供がね、出来たかもしれない」
「誰と誰の?」
「スーと、あたしの」
寧々子の背中を撫でていた手が、ぴたりと止まる。スーリヤの腹にぐっと力が入ったのが触れている部分から伝わってきたので、寧々子がゆっくりとした動きで彼の腹の上から失礼すると、スーリヤもゆっくりと身を起こした。いつも通りの仏頂面は崩れていないが、スーリヤが驚いているのだろうと愛の力で察した寧々子は、ぽつぽつと説明をしていく。定期的に訪れていた月の障りが止まり、やがて匂いに敏感になったり、突然気分が悪くなったりすることがあったり、異様に眠くなったり、食欲が落ちたと思えば異様に食欲が増えてしまったなどの変化が起こっていると。話に聞いていた妊娠時の症状と、現在自分に起こっている体の変化に似通っているので、妊娠しているのではないかと思ったことを。
伝えようと思っていたことを話し終えた寧々子は、黙って耳を傾けてくれていたスーリヤの反応を窺う。
「……そうか。子供が、出来たのか」
氷が常温の中でとろりとろりと融けていくように強張っていた表情が解けてきて、スーリヤの仏頂面が穏やかな笑みへと変わっていく。肉球のついた大きな手が寧々子の頬を包むように触れてきたので、その掌に頬擦りをして彼の温もりを感じているうちにいつの間にか入っていた肩の力が抜けてきた。
「未だお腹は大きくなってきてないから、若しかしたら、違う、かもしれない、けど……っ」
若しかしたら気のせいなのかもしれない。心のどこかで付きまとっている漠然とした不安がどうしても拭えなくて、ぽろりと口から零れ落ちてしまった。それと同時にいつの間にか目に溜まっていたらしい涙も、ぽろぽろっと零れた。
「もっと早く、言いたかったんだけど、若し違ったらって思っちゃって、言えなか、たの。気のせいだったら、ごめ、ん、ね……っ」
「……気にすんな。そんなに泣くなって。鼻水垂れてるぞ」
「うえぇ~、この頃、何でか、涙脆くてっ。泣くと鼻水もっ出るしっ」
気持ちが不安定になっているせいか、些細なことで涙が出てきてしまうのに困っているのだと寧々子が言うと、スーリヤは寧々子の流れ出る涙と鼻水を拭いてくれた。何て出来た
次第に涙が止まってきた寧々子は胡坐をかいているスーリヤの膝の上に乗り上げ、彼の太い首に齧りつくように抱きつく。スーリヤは、やれやれ、と言いたげな息を吐くと、物凄く遠慮がちに抱きしめ返してくれた。
「スー。もうちょっと、ぎゅうってしてください」
「無理を言うな。腹の子が潰れたらどうすんだ」
亜人と違って、人間の体は脆いので力加減が難しいのだとスーリヤがごちる。寧々子がいくら逞しいからといって、体までそうとは限らないだろうと追加もされる。大事に扱われているような、そうでもないような複雑な気分になりそうだったが、寧々子は細かく気にしないことにした。
寧々子は不安に思ってしまっても、スーリヤは寧々子のお腹に命が宿っているのだと思ってくれているのだと分かったのだから、それで良いのだと思うことにしよう。能天気なのが長所であり短所なのだから、暗くなるのは、寧々子らしくない。
「分かった。それじゃあ、あたしがスーを力いっぱいぎゅうぅーってする」
「……あっそ」
寧々子なりの解決案を提示したのだが、スーリヤに呆れられてしまった。
寧々子がスーリヤに「子供がね、出来たかもしれない」と告白してから、暫しの月日が経過すると寧々子のお腹が大きくなってきたのだ。寧々子とスーリヤは、そのことを喜び合った。
**********
いつかの日の昼下がり。
隣家に住んでいるギュル夫人との世間話を終えた寧々子は、彼女からお裾分けして貰った
「ただいま~。ギュルさんにジェゼリイェ貰っちゃったぁ」
居間にひょこっと顔だけを覗かせると、今日は休みで特に用事もないスーリヤが例の如くクッションを枕にして昼寝をしているのが目に入ってきた。仰向けに寝ている彼の腹の上には、スーリヤを幼児にしたような姿の男の子がへばりつくようにしてのっており、すやすやと、健やかな寝息を立てていた。愛らしい虎の耳や尻尾の先をぴこぴこと気持ち良さそうに動かしている様が可愛らしくて、寧々子は思わず頬を緩める。
ギュルから貰ったジェゼリイェに布巾をかけて台所の机の上に置きに行き、居間へと戻ってきた寧々子はスーリヤと幼子の傍に静かに腰を下ろすと、幼子の頭を撫でながら、自分やスーリヤとは違う柔らかな髪の感触を楽しむ。
「カルナは”とと”が大好きだね」
寧々子とスーリヤの間に生まれた人間と
口に出す言葉の種類が増えてきたカルナは父親であるスーリヤにべったりと貼り付くのが好きなようで、隙あらばスーリヤにくっついている。寧々子とは違いスーリヤは言葉少なだが、温かい目をして見守ってくれているのが伝わるのか、カルナはスーリヤをとても慕っているようだ。それはもう、寧々子がちょっと焼きもちを焼いてしまいそうになるほどに。スーリヤにも、カルナにも。
「”かか”もね、”とと”が大好きなの」
「……知ってる」
寝起きだからだろうか、寧々子の大好きな低い声が掠れて聞こえた。寧々子は我が子に向けていた目を、いとおしい旦那様に移す。眠っていると思っていたが、職業柄か人の気配に敏感なスーリヤは既に目を覚ましていたのか。
「えーと、起こしちゃった?」
「……まあ、ネネが帰ってきた気配で目が覚めてたな」
「ということはつまり、寝たふりをしてたってことね」
腹の上に乗っているカルナを起こさないようにと気をつけながらスーリヤが欠伸をするので、寧々子はじとっとした目をお見舞いするも、彼が動けないことに気が付いたので、それを良いことに彼の喉元を撫で始め、先程までギュルと話していたことを聞かせる。
「ヤセミーンが母親になるのか。ついこの間、嫁に行ったばかりだと思ってたんだがな」
「秋頃には子供が生まれるんじゃないかって、ギュルさんが言ってたよ。ヤセミーンの子供かぁ、どんな子が生まれるんだろうね」
「……女だったら確実にお喋りだな」
「……あたしもそんな気がする」
この村に住んでいる
(あ、そうだった)
ヤセミーンの話題が出たことで大事なことを思い出した寧々子は、「ねえ、スー」と声をかける。そうすると「んー?」と気のない返事を寄越された。
「二人目の子が出来たかもしれません。あ、ヤセミーンじゃなくて、あたしのお腹にね」
「……そうか」
返事は素っ気無いものだったが、スーリヤは嬉しそうに微笑んでいた。寧々子もつられて、にこにこと微笑んだ。
「カルナ。お前、兄ちゃんになるんだとさ」
「弟かな?妹かな?」
うつ伏せで眠っている我が子の背をスーリヤが、ぽんぽん、と優しく叩く。それに反応したのか、スーリヤと同じように黒いアイラインが引かれた眼がのろのろと開いた。
「んむぅ?ごはん?」
「ありゃ、目が覚めちゃったか。御飯はまだだよ、カルナ。あ、おやつはあるよ。ギュルさんがくれたジェゼリイェ、食べる?」
「おやつ、食べる!」
まだまだ子供らしい細い虎の尻尾をぴんと立てて、カルナは急いで起き上がってスーリヤの腹の上から下りると、勢い良く寧々子に抱きついてきた。それが結構な勢いだったのでスーリヤが心配そうな目を寄越してきたが、寧々子はカルナの頭を撫でながら、あっけらかんとして「大丈夫だよ。スーとあたしの子供だもん」と笑って言い切った。
「”かか”はおやつをとってくるから、それまでの間、良い子にして待ってるんだよ、カルナ?」
「あいっ。”とと”ー!」
カルナは寧々子から離れると、起き上がって胡坐をかいていたスーリヤの膝の上にちょこんと座る。スーリヤが家にいる時のカルナの定位置は、大抵スーリヤの傍や膝の上だ。
「……ネネ」
「うん?」
立ち上がろうとしていたところで呼び止められた寧々子は膝立ちでスーリヤに近付く。「どうかした?」と尋ねようとして顔を近づけた途端に首の後ろにスーリヤの手が周り、ぐいっと近寄せられて――唇を重ねられた。
「”とと”ー、まっくらー!」
スーリヤの膝の上にいるカルナの目は、彼のもう片方の手に覆われていた。突然目の前が真っ暗になったので、驚いたカルナは足をばたつかせている。
「……有難う」
唇を離すと、スーリヤはそう呟いた。それが何に対しての感謝であるのかは見当がつかなかったのだが、寧々子は嬉しくなって、満面の笑みを浮かべてこう返した。
「どういたしまして」
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