第16話 これから(了)――どう思っているのか知りたくて――

「じゃあね、愚息その1に嫁ちゃん」


 村で落ち合うことになっていた隊商が漸く到着したらしく、ヴィカラーラたちは出立する前に寧々子たちに挨拶をしにやって来てくれた。これから南の地まで隊商を案内する長い旅路が待っているのだという彼女たちにお土産を持たせて、寧々子とスーリヤは別れの挨拶を済ませた。



**********




 その日の夜。夕飯を済ませてから、寧々子はヤセミーンに教えてもらっている刺繍に悪戦苦闘し、スーリヤはのんびりと紅茶チャイを飲んで寛いでいる。


「急に静かになっちゃったね」

「……そうだな」


 スーリヤの家族が突然現れてからの日々はとても忙しなかったように思える。スーリヤの妹のカーリーとはとても仲良くなれたし、全く理由が分からないのだけれど彼の母親のヴィカラーラにも気に入られたようだ。弟のチャンドラはというと、きついことを言われてしまって立腹して、つい足を出してしまったり口論をしてしまったりしたけれど、彼の本音のようなものを聞いてからは距離が縮まったように思える――寧々子が勝手にそう思っているだけとも言うが。但し寧々子とスーリヤの仲は何が何でも認めたくないようで、偶然鉢合わせするたびに睨まれたり、悪態をつかれたりはしたけれど。そんな日々も今日で終わってしまったのかと思うと、少しだけ寂しいような気もする。


「ネネ」


 刺繍をする手を止めて物思いに耽っていた寧々子を現実に引き戻したのは、スーリヤの声だった。


「何かな?」

「今更な話だが……ネネに訊きたいことがある」


 寧々子がその問いに応じると、彼は静かに息を吐いた。


「随分と前に言っていたよな、『ニッポンはこっちにない、帰れない』って。”こっち”っていうのは……”この世界”のことか?そうなんだとしたら……ネネは違う世界から来た人間ってことだよな?」


 全く予想もしていなかった言葉に驚いて、寧々子は反射的に目を見開く。

 寧々子を故郷に帰してやろうと、スーリヤが日本を探してくれていたことは知っている。だから寧々子は、日本はこっちにないのだと言った覚えがある。異世界から此方にやって来ました、なんて正直に言っても信じて貰えることはないだろうと判断して、そのようにした。スーリヤも村人たちも深くは突っ込んでこなかったので、それに安心して甘えて何も言わないでいたのだけれど――スーリヤはそのことに気付いていたらしいと知って、寧々子は愕然とする。


「あの、スー、あのね、騙してた訳じゃないの、そんなつもり、全然無くて……っ」

「……ネネのことを責めてる訳じゃない。気になってはいたことだから……何となく訊いてみただけだ。今更だけど、な」


 寧々子の故郷だというニッポンという地名は、この世界の何処にも見当たらないのでおかしいとは思っていた。その事実と寧々子の言葉、そして寧々子が此方の常識を全く知らないことから、何となく気が付いたのだとスーリヤは言う。


「違う世界から来た、なんて言っても誰にも信じて貰えないと思って……言わなかったのか?」


 その問いに寧々子が素直に頷くと、彼は「そうか」と呟いた。


「あたしが違う世界から来たって、スーは信じてくれるの?」

「夢みたいな話だから信じ難いのは確かだな。だけど、納得がいくこともあるから……そうなんだろうなとは思ってる。ネネは……元いた世界に帰りたいか?」


 といっても、どうやって帰るのか、その方法は見当もつかないが。彼はそう付け加える。


「……こっちに来たばっかりの頃はね、帰りたくて仕方がなかったよ。あまりに突然のことで、心の整理がなかなかつかなかったし……」


 けれど、此方での生活に慣れていくにつれて、元いた世界に帰りたいという気持ちは少しずつ薄れていってしまった。スーリヤのことを好きになってしまってからは、彼に振り向いてもらうことに必死で元の世界のことなんて忘れ去っていたくらいだ。


「今はもう帰りたいとかあまり思わなくなってるけど……若しも帰れるなら、帰りたいかな?あたしは今、大好きな人と一緒にいられて幸せだから……心配しないでって家族に言いたい。いきなりいなくなっちゃったから、きっと心配してるだろうし……。だから、えーっと、里帰り?はしたいかも」

「……そうか」


 正直な気持ちを話すと、スーリヤは徐に寝転がって寧々子の膝に頭を乗せて腰に腕を絡ませてきた。寧々子は手にしたままの針と糸、布の存在を思い出し、危ないから、と小さな籠の中に慌てて片付ける。


「……今すぐにでも帰りたいと言われたらどうしようかと思った」


 スーリヤが弱音らしいことを言うのも、自分から甘えるような仕草をすることも滅多にないので、寧々子は驚きを露にする。ふと、以前に『スーも辛かったら、あたしに甘えてね?』 と言ったことを思い出し、彼がそうしてくれたのかなと思った寧々子は微笑んだ。寧々子の腰の辺りに顔を埋めているスーリヤの頭や広くて逞しい背中、肩の辺りを撫でると、腰に回された彼の腕の力が少し緩んだような気がした。


「あたしの故郷、こっちにないのに……探してくれて有難う。大変だったでしょう?……正直に言わなくて、ごめんなさい」

「……何となく気が付いてからは、止めてた。だから、謝らなくて良い」


 薄々勘付いていたのに何も言わないでいた此方にも問題があるから、とスーリヤは言った。「じゃあ両成敗ということで!」と寧々子が提案すると、「それで良い」と返事があったので、そういうことにする。


「どうして突然……そんな話したの?」

「……鬼婆が妙な話をしてきたから」

「ラーラさんが?」


 極稀に別の世界から此方の世界に迷い込んでくる人間がいるらしいということ。その人間は此方の世界の住人が知りえない知識を有していることがあり、それを聞きつけた人間の国は彼らを手に入れようと捜索を始めたり、怪しげな魔術を用いて彼らを呼び寄せようと躍起になっているらしいということなどを聞いたのだと、スーリヤは教えてくれた。


「あくまで噂話だからな、全てを全て信じてる訳じゃない……が、それを聞いてネネのことが思い浮かんだ」


 寧々子が違う世界から来たとか来ていないとか、そういうことを気にしている訳ではなくて、寧々子が何をどう思っているのかを知りたくなったから、唐突に訊いてみたらしい。


「……あたしが人間に連れて行かれちゃうかもとか、自分からそっちに行っちゃうかもとか……帰れるなら元の世界に帰っちゃうかもって……不安になったとか?」


 ――なんてスーリヤが思っている訳がないかと、言った後に思ったのだけれど。意外なことに「ああ」という肯定の返事がきたので、寧々子は吃驚する。

 やだ、スー、可愛いじゃないの。


「さっき言ったことが、あたしの本当の気持ちだよ?だから、不安にならなくて良いよ。……噂話が本当のことじゃないと、良いな。スーと離れ離れにされたら、あたし、暴れる」

「……逞しいのは良いけどな、あまり無鉄砲なことはするな」


 寧々子は向こう見ずなところがあるから時々心配になる、と、スーリヤがぼそりと呟く。思い当たる節が多々あるので、寧々子はぐうの音も出ない。


「……気をつけます」


 と言うのが精一杯だった。



 ――暫くの間、希少価値の高い”甘えてくるスーリヤ”を堪能していた寧々子は、ふと或る事を思い出す。


「そういえば、あたしも訊きたいことがあるんだけど……」

「んー……?」

「ラーラさんにね、早く孫の顔を見せろって言われたんだけど……人間と亜人の間に子供って出来るの?」


 この世界の亜人は動物と人間を足して二で割ったような感じがするので、半分は人間みたいなものではないかと寧々子は思っている。若しもそうなのであれば何だかいけそうな気はするのだけれど、実際はどうなのだろう?

 そんなことを尋ねてみると、寧々子の腰に抱きついていたスーリヤが身を起こして、寧々子をじっと見つめてきた。


「……それは、分からない。ネネは、子供が欲しいか?」

「うん、欲しい、かな。……スーは?」


 スーリヤはよくバイェーズィートの子供たちや村の子供たちの相手をしているし、彼らに懐かれてもいるようなので子供嫌いなようには見受けられないのだが、本心は分からない。そんなスーリヤに子供はいらないと言われてしまったら、少し落ち込んでしまいそうだ。


「子供を授かったなら、それは嬉しい。授からなくても、寧々子が傍にいてくれるなら……それで良い」


 そう言って、スーリヤは大きなその手で寧々子の頬を優しく撫でてきて。そんな科白をスーリヤが言ってくるとは思わなかった寧々子の顔が一気に赤くなって、熱を持つ。彼の言葉は嬉しいのだけれど、物凄く恥ずかしい。一人涼しい顔をしているスーリヤが恨めしい。


「……じゃあ、いつか子供が出来たら良いね。色々と大変だろうけど、あたし、頑張るっ」

「子作りを?」

「うぐっ、それ、は、その……そうだろうけどもっ!子育てです、子育てっ!」

「ふぅん……?」


 寧々子の反応が面白いのか、スーリヤが目を細めている。からかわれた!と気付いた時には、既に寧々子は彼に押し倒されて唇を奪われていて。

 そうして襟元を広げられて、露になった喉をスーリヤが”いつのものように”甘噛みしてきた。とある人物に”その行為の意味”を教えて貰った今、そうして貰えることがとても嬉しい。

 ――そうされたらね、こうやって返してやるんだ。スーリヤとよく似た目を細めながら、どこか愉しげに微笑んでいた人物の姿が脳裏に浮かぶ。


「スー、こっち向いて?」

「ん……」


 甘噛みを止めたスーリヤの顔を捕らえて、寧々子はかぷっと彼の鼻に噛みつく。密着しているので、スーリヤの体がぴくっと反応したのが伝わってきた。

 番の喉を甘噛みする行為には、”食べてしまいたいほど、あなたを愛しています”という意味がある。そうされた番はお返しに鼻を甘噛みするのだという。その行為には、”美味しく食べてね、私の可愛いアナタ”といった意味がある。

「きっと喜ぶんじゃないかい?」とあの人は言っていたので、彼が喜んでくれるならと、寧々子は行動に移した次第だ。


「……寧々子、誰の入れ知恵だ?」


 どのくらいやっていたら良いのだろうかと考えながら、はむはむと彼の鼻を甘噛みしていると呆然としていたスーリヤが漸く我に返ったらしい。怪訝そうな声音で尋ねてきた。顔は普段通りの仏頂面だけれど、顔に出ない心情を読み取らせてくれる立派な虎の尻尾がゆらゆらと大きく揺れているのが見えた。

 ――おお、喜んでくれているのかも。


「ふふ、内緒っ」

「……へぇ?」


 先程からかわれたお返しにと少々強気に出てみると、スーリヤがすぅっと目を細めて、唇を吊り上げたのが見えた。何だか嫌な予感がした寧々子は反射的にぎくりと身を強張らせる。

 逃げるなら、今がチャンス?でも逃げ切れるかな?ほら、今まさに押し倒されてる状態だし?


「……逃げようとしても無駄だからな、寧々子?」

「うぁ、はいぃ……っ」


 その嫌な予感は見事に的中して、寧々子はスーリヤに美味しく頂かれたのだった。但し遠慮はして貰ったので、次の日に寝台から出られない体にはされなかったのは幸いというべきか。




**********




 ――それからの或る日のこと。

 台所にて食事の準備をしていた寧々子は急に吐き気を催して、その場に蹲ってしまった。鍋の中から漂う美味しそうな香りが何故だか不快に感じられて。


「……あー、吐くかと思った……。でも何で急に気持ち悪くなるかなぁ?変なものを入れた覚えはないし……」


 本日の体調は頗る良好。悪いものを食べた覚えはないし、スーリヤに食べさせた覚えもなし。となると、原因は何だろうか?特に思いつかない。ただ気になることといえば、毎月きちんとやってくる月のものの訪れが未だないことくらいで――。




 んん?まさか?

 いやいや、まさか、ねぇ?

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