第15話 これから(5)――寧々子は逞しい――

 打撲した足が完治するまで大人しくしていろ。と、スーリヤに言われたのだけれど、大人しくしている寧々子ではない。


「凄い目に遭った……まさかスーがあんなことするなんて……っ」


 手当てをして貰ったので少しくらい無理をしても大丈夫だろうと高を括ったら、珍しくにっこりと笑ったスーリヤによって寝台の住人にされてしまい、昨日一日を棒に振ってしまった。一昨日の夜の出来事を思い出すだけで、物凄く恥ずかしくて顔が熱くなってしまう。

 と、まあ、そんなことがあったり、カーリーから貰ったという秘伝の軟膏がよく効いてくれた御蔭で足はすっかり良くなったのだけれども。体がだるい、主に腰から下が。

 然しそんなことで休んではいられない。どうしても気になるのです、百姓の仕事と家事が。体力は何とか回復したし、スーリヤは仕事で朝早くに家を出ているので、寧々子は土の様子を見ながら畑に肥料を与えたり、美味しそうに実ってくれた作物を収穫したり、掃除に洗濯など家事に精を出したりして幸福感を満喫している。


「んふふ、労働って素晴らしいなぁ」


 たった今掃除を終えた寧々子は額に浮かんだ汗を手拭いで拭い、満足気ににんまりと笑う。寧々子が育った家庭環境は”働かざる者食うべからず”を地で行くところだったので、彼女は何もせずに大人しくしているのが苦手なのだ。といっても、この辺りの女性は家事に育児、内職にと忙しいのが常なので、寧々子のような性格の者は少なくない。

 さて、やるべきことはやってしまった。窓の外を覗けば、太陽の傾き具合から察するにお昼を過ぎた頃合か。そういえば労働に勤しむことに燃えて、休憩をとることを忘れていたような。

 一先ず、お茶でも――とお茶っ葉が入っている缶を覗いたら中身がなかった。何て間が悪い。

手早く戸締りをして、お財布を片手に寧々子は或る場所へと向かった。




**********




「うっふふー、デニズさんに割引して貰っちゃった。ラッキー♪」


 主に行商を生業としているが村で商店も営んでいるバイェーズィートのところへ向かい、愛飲している紅茶の茶葉を購入した寧々子が気分良く鼻歌を歌いながら帰路に着こうとしていたら、急に足がもつれた。ぐらりと体が傾いで、正面を向いていたはずの目に地面が飛び込んでくる。

 まずい、倒れる――と思ったら、背後から誰かの腕が腰に回されて、地面とこんにちはするのは何とか免れた。


「……危なっかしいな、人間」


 低いといえば低いのだけれど、愛しのスーリヤよりは幾分高めの男性の声に聞き覚えがある。――天敵チャンドラだ。

 緊急事態、緊急事態!と頭の中で警鐘が鳴り響く。乱暴に扱われるのかと思いきや、意外にも優しい手付きで助け起こされた。

 ――おや?おやおや?

 青い虎の目は鋭いけれど、以前出会してしまった時のような敵意は込められていない。訳が分からないので憮然とチャンドラを眺めていると、彼の眉間に皺が寄った。


「……何だよ」


 咎めるような声音が耳朶に触れて、寧々子は我に返る。言わなければならないことを言わなければと気が付き、彼女は行動に出る。


「助けてくれて有難う。御蔭で転ばずに済んだよ」

「……あっそ」


 素直に御礼を言ったら、頭上から素っ気無い返事が降ってきた。今の言い方はスーリヤお得意の「あっそ」によく似ていて、危うく笑ってしまいそうになり、寧々子は慌てて顔を引き締めた。

 昨日一日ずっと考えていたことを実行するために。やるべきことは忘れないうちにやってしまおう。


「先日は蹴り入れちゃって御免なさい」

「何で、あんたが謝る?」


 寧々子が深々と頭を下げると、チャンドラの狼狽えたような声がした。寧々子がこんな行動をとるとは思ってもいなかったのかもしれない。


「だって、貴方に言われたことに腹が立ったからって、ついかっとなって足が出ちゃったのはいけなかったなって思って。そのことは悪かったなって思ったから、謝ったんだけど……」


 ”あの莫迦にしたことを悪いと思ってるなら、あの莫迦に謝った方が良いとは思うけどな ”と、スーリヤに言われたということもあるけれど。寧々子が正直に理由を述べるとチャンドラは呆気にとられた顔をして固まってしまい、沈黙が訪れる。

 ――うん、言わないとって思ってたことは言っちゃったから逃げても怒られないかな?痛いほどの沈黙に耐えられなくなった寧々子が、逃げるなら今の内ですよね、と回れ右をしようとした時だった。


「……悪かったよ。あの時は……言い過ぎた」


 だから蹴られても仕方がない。と、チャンドラがぼそっと呟いたのが聞こえてきた。それに驚いて反射的に顔を上げると、ばつが悪そうな表情をしてそっぽを向いている彼が目に飛び込んできた。そしてまた反射的に目線を落とすと、スーリヤのものよりは細めの尻尾が力なくだらんと下がっていた。

 ――あれ、反省してるっぽい?


「えーっと、うん、あのね、その、貴方があたしにあんなこと言ったのは……分からないでもないし……?」


 あ、分かったような口を利いたらいけないか。と、青くなった寧々子だけれど。チャンドラは意に介さなかったようで、噛みついてはこなかった。


「……スーリヤの奴、里を出て行く前に言ってたんだ。番なんて絶対に作らないってな。それなのに久々に会ったらよりにもよって人間の女と番ってるし、然もその女に自分の匂いをこれでもかってくらいつけまくってるし、忌み嫌われることをしてるのにどうしてか村の連中には黙認されてるしな」


 一度口に出したことは曲げない奴だと知っていただけに、受けた衝撃は計り知れなくて無性に腹が立ったのだと彼は言う。スーリヤが道を踏み外した理由は何だろう?きっと得体の知れない人間の女に誑かされたのだ、騙されているのだと短絡的に決め付けて――寧々子に八つ当たりをしてしまったのだと。

 チャンドラの言い分というか、言い訳というか――正直な気持ち、だろうか。それは分からないでもない。寧々子が彼と同じ立場であったなら、彼と同じように噛みついていたかもしれないから。寧々子にも兄と弟が一人ずついるが、彼らが或る日突然派手に遊んでいそうな得体の知れない女性を連れてきたなら、第一印象で碌でもない女性のようだと決めてかかって、その女性のことを警戒するだろうと思う。

 ――と、頭の冷えた今なら考えられるのだけれど。


「……謝らなくて良いよ、チャンドラさん。ねえ、足……ていうか、脛、痛くなかった?」


 結構な勢いで蹴っちゃったので、寧々子は結果として打撲という負傷をしたのだけれど。人間の蹴りくらいで負傷する亜人ではありません、と聞かされていても気になるものは気になる。暴力を振るってしまったことには違いないので。


「あれくらい何ともない。鬼婆……お袋とカーリーの鉄拳制裁の方が痛かったな」


 彼らの母親のヴィカラーラは何となくやりそうな気がするけれど、あの大人しいカーリーまでそんなことを?信じられないと言いたげな表情をしてしまっていたのか、ちらりと寧々子を見たチャンドラが溜息を吐いた。


「カーリーは気の優しい奴だけど、怒ると口より先に手が出るぞ。意外だろ?それに顔は似てねえけど、お袋に似て腕っ節が強いのなんのって。性格がお袋に似なくて良かったのか悪かったのか、なんて兄弟全員が言うくらいだ」

「へ、へぇ~……」


 凄いことを聞いてしまった。頭の隅に置いておこう、念の為に。


「あんた、まだ本調子じゃねえだろ。歩き方がおかしかった。……足元には充分に気をつけろよ」


 いえ、足の調子は良いのですけれど、歩き方がおかしいのは貴方のお兄さんにされたことが原因といいますか。そう突っ込みを入れる前にチャンドラは踵を返し、ゆっくりと歩いていく。話はもう終わり、ということらしい。


「ねえ!心配してくれて有難う!」


 若しかしたらチャンドラは態々謝りに来てくれたのかな、なんて自分に都合の良いように考えた寧々子は声を張る。チャンドラは足を止めると、僅かに振り返って返事を寄越してきた。


「心配なんてしてねえよ。……それと、スーリヤとあんたのことは認めた訳じゃないからな。俺は人間が嫌いだ。あんたは人間でスーリヤの番だから……余計に嫌いだっ。だから馴れ馴れしくするなよっ!」

「はあ……」


 見知らぬ女にお兄ちゃんを取られて拗ねています、と言われているような気がした寧々子はぽかんとしてしまった。若しかして、チャンドラは所謂ブラザーコンプレックスなのだろうか?そう思ってしまえば、嫌いだと断言されてしまっても不思議と腹は立たず、悲しくもない。寧ろ、好奇心がうずうずしてくる。


「あのさ、出来れば”あんた”じゃなくて”ネネ”って呼んでくれないかな?ほら、あたし、スーの番だから……貴方にとって兄嫁ってところだし?」

「図々しいな、あんた。嫌だね、絶対に名前で呼んでやらねえっ」

「堅いこと言わないでよ、チャラ~」


 調子に乗った寧々子がからかうと、顔を真っ赤にしたチャンドラが勢い良く振り返って、寧々子の前まで大股で歩いて戻ってきた。


「勝手に渾名つけるな……っ!」

「よく分かったね、渾名だって。チャンドラだから、チャラにしてみたの。響きが可愛くない?まあ、スーの方が可愛いけどねぇ~」

「そういう問題じゃねえしっ!!!」


 スーリヤはからかっても反応が薄いし、からかい返されてしまうのだけれど、反対にチャンドラは面白いほどムキになる。スーリヤが寧々子をからかって遊ぶ気持ちが分かったような気がする。これは楽しいかもしれない。からかわれる側は不愉快極まりないだろうけれども。


「あんまりカリカリしてると毛が抜けて禿が出来ちゃうよ、チャラ?」

「チャラって呼ぶなっ。禿も出来ねえよっ!!!」


 いえいえ、過度の精神的苦痛ストレスで禿ることってあるんですよ。と言おうかと思ったのだけれど、上手く説明出来るほど知識も自信もないので止めておく。


「じゃあ、ネネって呼んでよ。そうしたら、チャラって呼ばないから」

「断る」

「即答だね。渾名って、そんなに嫌なものなの?スーはあっさり受け入れてくれたけど……」


 まあ、あの時”スーリヤ”と言えなかったので彼が”スー”で妥協してくれて、そのまま愛称にしてしまったのだけれど。

 暫しの間、ああだこうだと言い合いを続けていると、何処かから現れたカーリーがチャンドラに向けて華麗な飛び蹴りを入れる。


『ネネに何をしてるんですか、チャンドラ兄様!』

『何もしてねえよ!理由も聞かずに飛び蹴りするな!』

『問題ないです、チャンドラ兄様は無駄に頑丈ですから。それしか取り柄ないじゃないですか……スーリヤ兄様と違って』

『カーリー、俺を何だと思ってるんだ……っ!?』

「えーっと、うん、とりあえず落ち着いて話をしようね、二人とも?」


 カーリーが現れたことで今度は兄妹喧嘩に発展してしまい、二人は低く唸りながら睨みあう。虎さんと虎ちゃんがじゃれあっている――ようには到底見えないので、寧々子は苦笑いを浮かべながら仲裁役を買って出たのだった。




**********




 家に帰ってくるなり、スーリヤは信じられない光景を目にしてしまった。


「おかえりなさい、スー!」

「おかえりなさい、スーリヤ兄様」

「おー、おかえり、スーリヤ」

「おかえり、愚息その1」


 寧々子が家の中にいるのは良い、いてくれないと困る。だが何故、母親と弟妹までいるのか。然も酒と軽食メゼまで振舞われている。寧々子が気を遣って用意したのだろう。


「あのね、お夕飯を皆で食べようってことになってね……」


 それは良いのだが、どうしてそうなったのかの説明が省かれているのが残念だ。更に、寧々子とチャンドラはつい先日やりあったばかりではなかったか。同じ空間にいるのに二人の間にいざこざが起こらず、和やかな空気が流れているのが不思議でならない。


「スーリヤ、お前も酒飲もうぜ、酒」

「ちょっとチャラ、スー取らないでよ!」


 既に出来上がっているチャンドラが傍に寄って来て、スーリヤの肩を抱く。それが気に入らないのか、寧々子がチャンドラに噛みついた。それは別に良いのだが、気になることが一つ。

 ――何で寧々子がチャンドラを”チャラ”なんて呼んでいるのだろうか。一体いつの間に仲良くなったんだ?

 寧々子とチャンドラに挟まれて取り合いをされているスーリヤは仏頂面の中に複雑な心情の色を滲ませる。


「嫁ちゃーん、愚息その1が帰ってきたからそろそろ大皿料理とか出しておくれよ。このままだとメゼだけで腹いっぱいになっちまう」

「分かりました、ラーラさん」

「ネネ、手伝うです」


 おい、鬼婆とも打ち解けてるのかよ。そう尋ねる前に寧々子はスーリヤから離れていって、すっかり彼女に懐いたカーリーと共に台所へと消えていく。

 今日一日で何が起こったんだ?それが分からなくて、スーリヤは混乱する。顔には出ていないけれど。


『嫁ちゃんといちゃいちゃ出来なくて残念だったねぇ、愚息その1』

『哀れむんだったら、さっさと帰れ……』

『嫌だね、嫁ちゃんの料理美味いんだもん』


 食後のお菓子を頂くまでは動かないと言い張る母親と酒に酔って管を巻く弟の相手をしつつ、スーリヤは只管に頭を悩ませた。

 寧々子は一体彼らに何をしたのだろうか、と。

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