第6話 ネネは難しい
身振り手振りと片言の言葉でネネと意思の疎通が出来るようになった頃。
居間の絨毯の上に村長から借りてきた世界地図や、各地域の地図などを広げて、ネネに見せてみた。紙の上に記された文字は分からなくても、土地の形などに見覚えがあれば彼女が反応を示すのではないかとスーリヤなりに考えたのだ。
けれど、彼女は呆けたように地図を眺めるばかりだ。
「……地図、分からないか?」
しまった、女性は人間、亜人を問わず地図が読めない者が多いのだった。失敗したなぁと思いつつ尋ねてみると、此方の言っていることは理解出来るようになったネネがゆるゆると首を横に振った。
「……ニッポン、こっちにナイ。帰れナイ」
彼女の口から出た地名らしい言葉は、各地を転々としてきたスーリヤでも聞き覚えがなかった。
「……家族が心配してるだろ、きっと。場所が分かったら送っていってやるから、安心しろ」
そう言えばネネは泣き出しそうな顔をして、無理やり微笑む。
「家族、いない。帰るところ、ナイ……居候、ゴメン……」
いつまでも居候をされていては困るので、スーリヤがこんな話を切り出したと思われたようだ。
ネネはスーリヤや村人の前では気丈に振舞っていても、夜になるとこっそり泣いていることがあるのだ。早く家に帰りたいのだろうな、不安で仕方がないのだろうな、それならスーリヤに出来ることをしてやろうと思っただけで、そんなつもりは毛頭なかった。
「……居候してたって良い。迷惑じゃないから、気にするな」
「……うん」
しょんぼりとしてしまっているネネの頭を撫でると、彼女は仄かに頬を桜色に染めて嬉しそうに目を細めた。その様子を見たスーリヤは、ほっと胸を撫で下ろし、同時に何でほっとしているのだろうと疑問に思ったのだった。
それからバイェーズィートや物知りな村長、村に立ち寄った隊商や旅行者に”ニッポン”という地名について尋ねてみたのだが、誰もが「そんな地名は耳にしたことがない」と答えを返してきた。
仕事で訪れた町などでも人間、亜人問わず同じことを尋ねてみたのだが、返ってくる答えは同じだ。学者と呼ばれる類の者たちに尋ねても、やはり同じだった。
(……どういうことだ?ネネが嘘を吐いている様子はなかったぞ……?)
ネネが「ニッポン、こっちにナイ」と言っていたことは、本当なのかもしれない。だが、そうなのだとしたら彼女は一体どこからやって来たというのだろうか?
浮かんでくるのは御伽噺のような答えだけで、そんなにおめでたい頭をしていたのかと衝撃を受けて頭痛がしてきた。難しいことを考えるのは性に合わない。このことについては、地道に調べてみることにしようと決めた。
**********
或る日のことだ。
朝目覚めると、村中が霧に包まれていた。汽水湖で発生した霧が風に流されて此方までやって来たのだろうと思う。タウシャン村では年に数回はこの光景に出くわすので、スーリヤは慌てない。
一先ず湯を沸かして
突然の出来事に唖然としてしまったが直ぐに我に返り、急いで彼女の後を追う。
何処もかしこも真っ白な世界の中で、ネネの匂いを探す。視界が非常に悪いので足元や障害物に気をつけながら歩いていくうちに、段々と霧が晴れていくが未だ遠くははっきり見えない。
「****!」
霧の向こうから、ネネの声がした。危ない目に遭っていないかと不安になり、スーリヤの歩みは早足に変わり、更に駆け足に変わっていった。
霧はいつの間にか晴れていて、漸く彼女の姿を見つけた。
「*********!」
汽水湖の畔に座り込んでいるネネが、泣き叫んでいる。
「***************、***************……!?」
慟哭しているネネの姿が、親とはぐれてしまった子供のように見えて。言葉は分からなくても、元いた場所に帰りたいのだと叫んでいるように聞こえて。帰る場所がないのだと泣きそうな顔で微笑んでいたネネが思い出されて、言いようのない思いに駆られた。
「……ネネ」
声をかけると、ネネは弾かれたように振り向いた。その際に微かに血の匂いがして、瞬きと同時にぽろぽろと涙が零れ落ちる。彼女は慌てて服の袖で涙を拭うと無理やりに笑顔を作り、泣いていたことを誤魔化そうとした。
(……血の匂いはこれか)
ゆっくりと立ち上がったネネの足元に目をやると彼女は裸足で、そこかしこに擦り傷や切り傷があり、掌も擦りむいているようだ。霧の中を我武者羅に走っている最中に石を踏んで足の裏を傷つけ、躓いて転んだりして掌を怪我したのだろうと想像するのは容易い。
他人に弱みを見せたくないのか、精一杯強がっている彼女が痛々しく見えてしまう。
「……スー?」
黙ったまま見下ろしてくるスーリヤを、ネネが此方の様子を窺うような表情をして見上げてくる。
――どうして人を心配してるような顔するんだよ。それよりも自分の心配をしろっつーの。
気が付くと勝手に手が動いていて、ネネの頭を少し乱暴に撫でていた。
「……ネネ、帰るぞ」
そう呟くと、彼女は小さく頷いた。傷だらけの足で歩かせるのは酷だろうと思い、彼女の了承も得ずに抱き上げる。”
これなら横抱きをしたまま村まで歩いていっても、腕が疲れることはないだろう。人間一人担いだくらいで疲れてしまうようでは、力自慢の”
「ス、スー……」
所在無げにあたふたとしているネネに「暴れると落ちるぞ」と言うと、彼女は恐る恐るスーリヤの首に腕を回してしがみついてきた。
彼女の匂いと体温を感じて、何故だかほっとする。
――あん?何でほっとするんだ?
家に戻ると直ぐに、スーリヤはネネの怪我の手当てを始める。
座る際に何やら膝を気にしていたので、多少気が引けたが――この辺りでは女性の肌を見たり、また女性が露骨に肌を見せるのも宜しくないとされているので――ネネの
――はて、こういう時にはどうしたら良いのだろう?
気付いていない振りをした方が良いのか、それとも慰めた方が良いのか。前者では少々薄情な気もするし、かといって後者は「女の扱い下手だな、お前。それなのにどうして女の評判が良いんだよ!?」などとバイェーズィートに太鼓判(?)を押されたスーリヤには難易度が高い。
「……」
表情を変えずにあれこれと考えた結果、スーリヤは行動に出た。
ネネの怪我に触れないように気を付けながら引き寄せて、涙に濡れた顔を胸に押し付けるようにして腕の中に閉じ込める。
初めのうちは吃驚して固まっていたネネだが、スーリヤが子供をあやすように背中を撫でているうちに堰を切ったように声を出して泣き出した。
(……あれ、逆効果だったか?)
離れて久しい下の兄弟たちが幼い頃に、こうすると泣き止んだことを思い出したので実行してみたという訳なのだが。あれか、子供と同じ扱いをしたのがまずかったのか。
離れた方が良いなと思ったのだが、皺になるほど強く服を掴んでいるネネの手が震えているのが見えたので止めにして、ネネが落ち着くまで、子供扱いしておくことにした。
**********
霧が出た日以降、ネネの笑顔から寂しさが消えたように思う。
何か吹っ切れたのか、家事や村人の手伝いにより一層励んでいて、気が付けば彼女は村人たちから”便利屋”として尊重(?)されるまでに村に馴染んでいた。
泣いているよりはずっと良いと静かに見守っていたスーリヤだが、狩人のフェルハトから貰ったという雉を慣れた手付きで絞めて、てきぱきと捌いていくネネを目撃した時は思わず「お前みたいな逞しい人間の女は見たことがない」なんて言ってしまった。因みに、逞しい亜人の女はいくらでも見たことがある――主に故郷で。それしかいなかったとも言う。
拙いことを言ってしまったと危ぶんだが、彼女は予想外にも喜んでいたのでなかなか複雑だ。
――つい先日まで夜にこっそり泣いていたりした彼女はどこへ行ったのだろう。
と、遠い目をしたくなったスーリヤだった。
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