第2話 風 上篇

「・・・後半アディショナルタイムも残り少なくなってきた、スコアは依然0-0のままです、なんとしても一点が欲しい鎌倉、勝利すれば一部昇格確定です、対する秋田は引き分けでも昇格が決まります、秋田、自陣でボールを回す、ものすごいブーイングです、鎌倉スタジアムが揺れている、おっと、ここでパスミスから鎌倉ボール、右サイドからものすごいスピードで誰か上がってきました、火野、火野がオーバーラップ、ボールを受け取った、秋田はほぼ全員が自陣内で守備を固めているがどうか、火野ドリブルだ、二人を抜きました、火野中央突破、おっと、ファウルか、ここは審判流しました、ここでスルーパス、オフサイドはない、武口ダイレクト、弾かれた、ファインセーブ、こぼれ球に火野、ダイビングヘッド、入った、決まった、ゴール、ゴール、値千金のゴールです、鎌倉が昇格をほぼ確実にしました、スタジアムは大歓声、おっと、ピッチに誰か倒れています、背番号は5番、火野です、火野起き上がらない、ここでホイッスル、試合終了ですが、火野は倒れたまま、担架が運ばれてきました、鎌倉は一部昇格を決めました、火野が運ばれていきます、場内はサポーターの割れんばかりの火野コール、火野の耳には届いているのか、決勝点の火野、武口が運ばれる火野に何か叫んでいます・・・」


「真尋ー、いるかー」

相田が鴉堂に勤めるようになって二週間ほど経ったある日の午后、葵は不在、真尋も「鰻食ってくる」と出かけ、相田は一人で留守番をしていた。

テレビもラジオもなく、持ってきたノートパソコンでネットサーフィンをしたり、真尋が過去に詠んだ辞世のファイルをぱらぱらとめくったりしているところにその男はやってきた。

「真尋さんは出かけています。失礼ですがどちら様でしょうか」

頭には手拭い、作務衣の上下に髭を蓄え、年は五十から六十くらいだろうか。よく日に焼け、壮健な感じがする。何かの職人のような印象だ。

「おっ、君は誰かな」

「僕は先日よりここのお手伝いをしています、相田と申します。真尋さんは昼食に出ています。葵さんも今日はいません」

「メシか。どこに行くって言ってた?」

「鰻食ってくる、と言っていましたが・・・」

仁志川か。じゃあすぐ戻ってくるな、と言うと男は邪魔するよ、と部屋に上がり込み、腰掛けて煙草を吸い始めた。

「あの、失礼ですがどちら様で・・・」

「俺か。まあ大したモンじゃない。真尋とは長い付き合いだから気にするこたぁねえよ。それはそうと、君はどうしてまたこんな所を手伝う気になったのかね」

相田は少し苛立っていた。なんだこの図々しい奴は。あんたが良くてもこっちは良くないんだよ。これだから大人は厭なんだ。

「はあ、まあたまたま家が近所でして、通りがかりに応募の張り紙を見まして・・・」

「どうだ。仕事、面白いか?」

初めての仕事。元総理大臣、村松静次の辞世の句。あの日から今日まで、何件か辞世の仕事があった。集団就職で福井から東京へ出てきて、身一つから会社を興した会社社長。主役を張る事はなかったものの、長年演劇の世界で名脇役と呼ばれた役者。既に亡くなった人の遺族からの依頼もあった。レコードショップを経営し、自身もトラックメイカーとして名を馳せたが交通事故で突然他界してしまったミュージシャン。どの依頼も、どの人の話も、相田は興味深く耳を傾けた。色々な人がいる。色々な人生がある。そして、その人生は必ず終わる。真尋はどの依頼にも真摯に対応した。話を聞き終わると深く沈み込むように集中し、一晩で歌を詠む。歌を依頼人に見せると、ある人は喜び、ある人は涙を流した。今まで短歌だとか俳句だとか、そういうものに興味がなかった相田だが、真尋の影響で少しづつ名歌・名句というものの勉強を始めていた。

「そうですね、面白いです。辞世の句も、真尋さんも」

はっは、と男は笑った。そうか、面白いか。

「それで、いつまでこの仕事をするつもりかな。まさか職業的歌人を目指す、という訳でもあるまい。歌でも何でもいいが、ごく一部の天才にしか生み出せないもの、ごく一部の天才でしか成り立たない職業というものはある。ごく一部の人間にしかできないような事を何倍にも水で薄めたような紛い物がまかり通っているのも事実だが、いや、決して相田君にその才能がないと決めつけているのではない。しかし、真尋がやっていることはあまりにも限定的だ。真尋にしかできないし、依頼人も世に何万人といるわけではない。需要などないようなものだ。ただ何というのかな、人は時々、言葉を欲する。調子が良い時、調子が悪い時、何かを始める時、何かが終わる時、そういう時に、ふっと心に触れてくるような言葉。ずっと昔から分かっていた事なのに、言われて初めて気付くような言葉だ。真尋はそういう言葉を作り出すのが本当にうまい。闇雲にその人の事を探るような事をせず、その人が一番心地いい距離からその言葉を紡ぐ。花に水をやるように、その言葉はその人の心にすっと染み込んでいく。押し付けるわけでも、突き放すわけでもない。距離、距離っていう言葉は不思議だな。物理的な距離ではない。その人の心、その人の世界、その人にとって何がどのくらいの処にあるのか、真尋はそういうところを見ているような気がする。優しいやつだと思うよ、真尋は。相手を傷つけず、自分を傷つけず、それでいて絡まった糸をすっと解くようにその人の心に触る。何度も見たことがあるんだ。依頼人が話をしていて、真尋が二つ三つ、何かを伝えるだけで涙を流す依頼人が大勢いた。おい、お前どうやってるんだって聞いたら、言葉の端っこにある本音を決して聞き逃さないようにしているだけだよ、って言ってたな。人っていうのは、まっさらな真実というのをあまり話さない。話せない、というのが正しいかな。誤魔化したり、騙そうとしているわけではない。生きてきて、本当はそう思っていないのにそうするべきなんだ、という経験を繰り返すと人は本当の自分の思いを忘れる。誰かを傷つけたくない、自分を傷つけたくない、そういう思いから生まれた優しい嘘なんだ。真尋はそういう、優しい嘘を見破るのが得意でな。忘れちまった思いは必ず優しい嘘の端っこから尻尾を出しているらしい。そこをちょっとだけ摘んでみるんだよって真尋は言っていた。依頼人は真尋のほんの少しの言葉で気付く。そうだった、自分は本当はそう思っていたんだって思い出す。その時、多くの依頼人は涙を流す。悲しいとか、苦しいとかじゃない。たぶん良い方の感情だと思うが嬉しいとか楽しいとかでもない。あの感情に名前をつけるのは野暮な気がするな。まあ兎に角、あれは真尋にしかできない芸当だ。勉強して身につけたものでもない。あいつは小学校も出てないからな。相田君はどうかな。きちんと学校を出たんだろう」

「僕は一応まだ学生です。歌人なんてとてもできないと思いますが、それでもお手伝いできることがあるのなら、少なくとも僕は真尋さんや茜さんの事が好きです。側にいて、もう少しこの仕事をしてみたいと思っています。真尋さんを見ていたいと思っています」

「うん、それでいい。世の中の人間が全員、何か独自のものを生み出したり、表舞台に立つ必要などないんだ。自分に出来ることをする。やりたい事と、出来る事の折り合いをつけるというのは簡単なようで意外と難しい。誰だって一度は夢を持つ。こういう事をしたい、こういう事を生業にして生きていきたい。若くして持った最初の夢を叶えて、尚且つ幸せに生きていく人などごく一部だ。誰しもが挫折するし、素晴らしい景色が見えると思った舞台に立ったところで自分の思っていた景色とは違っていた、と幻滅する人もいる。それでも人は生きていかなくちゃならん。働いて、金を稼ぎ、自分を壊さないように、誰かを損なわないようにして生きていく人が殆どだ。そして、それは決して恥ではない。恥ずかしい、申し訳ないと思った時には、なぜ自死を選ばず、みっともなく生にしがみつくのかを考えなさい。理由は人それぞれだろうが、自分を納得させる理由を持ちなさい。それは他の誰からも与えられるものではない。自分で考え、自分の言葉で導き出すものなんだ。難しく考えることはない。人生などそんなものだ。何か一つ、生きていくシンプルな理由を持つ。それだけでいいと俺は思う」

いや、説教じみてしまったな、申し訳ない、と男は笑って頭を掻いた。

聞きながら、相田は感じていた。この人、どこか真尋さんに似ているなあ。風貌は粗野な感じがしなくもないが、話す言葉が真尋さんに似ている。真尋さんよりちょっとべらんめえな感じがするけど。

「将来の事は少し考えますが、ぼんやりと考えていることが一つだけあるんです。それは、何をするのか、ではなく、誰とするのか、というのが自分にとって大事な要素なんじゃないかな、というものです。例えば誰かと遊ぶ時、高いお金を使って豪華な計画を立てても、今ひとつ相容れない人とだったらそんなに楽しめない。けど、どんなにチープな計画でも、気心の知れたやつとだったら楽しいだろうな、という事に気づいたんです。例え会話がなくても、笑いがなくても、ただ一緒にいるだけでなんとなくしっくり来る。別に何を話さなくてもいいし、無理に盛り上げなくてもいいと感じる。相手もそうだろうな、というのが何となく分かる。僕にとって、仕事というのもそういうものになるんじゃないかという気はしています。真尋さんは面白いです。僕の知らないことを沢山知っていて、聞けばきちんと教えてくれます。真尋さんは神道の家に生まれたようなんですが、神道の教えが真尋さんという人を作ったのか、生まれながらにしてそういう人だったのかはわからないしあまり意味もないと思います。とにかく今はあの人と一緒にいるのが楽しいし、もっと色んな事を知りたいとも思います」

そうかそうか、と男は笑った。

「真尋は面白いだろう。昔から妙なところのあるやつだった。達観したところがあるとでも言うのかな。神道があいつの人格に影響を与えたかどうかは俺もわからんが、元々何かを持ったやつだったんじゃないかな。あいつがまだ五歳くらいの時、遊園地に行ったんだ。真尋はそれまでそういう、現代的なエンターテイメントというのかな、テレビも見なかったし、ゲームもやらなかったがその遊園地は流石に子供心には衝撃的だったみたいでな、あっちこっち走り回って、はぐれちまった。随分探し回ったよ。そのうち、園内アナウンスで『東京都からお越しの駒形様。真尋君が案内所にいらっしゃいますので案内所までお越しください』って放送があった。迎えに行ってみると、あいつは慌てた様子もなくジュースかなんか飲んでやがった。人たらしなところがあってな、案内所のお姉さんに甘えたりしてたよ。聞いてみると、あいつ自分で案内所に来て、『すみません、私は迷子なんですが、園内放送をお願いできますか』って言ったらしい。お姉さんが言ってたな。『しっかりしたお子さんですね。でも、何ていうのかしら、どこか子供ではないところがあるような・・・かと言って大人でもなくて、うまく言えないんですけど、何か見透かされているような、それでいて嫌な感じがしないというか・・・すみません、変な事言って』ってさ。五歳の子供だぞ。子供じみてたり、大人びてたりするようなところが同居してるのは今も変わらんな」

あ、もしかしてこの人、と相田が思った時、真尋がただいまー、と帰ってきた。

「やあ、親父殿。来てたのか」


玉川インターから第三京浜に乗り、横浜方面へ向かうフィアットの車中。

運転する相田を横目に、真尋はカーステレオから流れるカーペンターズを聞き、時々口ずさんでいた。

「真尋さんも音楽とか聴くんですね」相田は何気なく言った。

「君は僕を何か世捨て人みたいなものと勘違いしてるんじゃないか。音楽だって聴くし、昔は観なかったがテレビも映画も観る。芝居も観に行く。プロレスも観に行く。YouTubeだって観る。漫画だって読むし、テレビゲームもやるよ。この腕だから片腕でできるものに限られるがね。スポーツも好きだ。観るのも、やるのもね」

「俗っぽいものを知らないと万人の心はわからないとか、そういう勉強のために触れてるんですか?」

「いや、そういうつもりではない。ただ楽しむためだ。それと、物語を作るためかな」

「物語?」

「物語を作るのは、人間というものの長所であり、時には短所にもなり得る思考だと思う。音楽、映画、スポーツ、何でもいいが、人間はそれを観たり聴いたりして得た以外の情報を無意識に意識する。背景とでも言うのかな。例えば、アカデミー賞を獲った映画とそうでない映画というものの差は本質的にはある意味ゼロだ。しかし、多くの人はアカデミー賞を獲った映画の方が優れていると考えるだろう。コマーシャル・フィルムだって『全米ナンバーワン』だとか付けたがる。あれは作品の本質ではなく、情報だ。もっと手の込んだ情報を入れてみよう。例えば、主演の俳優がとてつもなく貧乏な生まれで、長年の苦労の末にようやく主演の座を勝ち取った。そういう情報が入ると、人は無意識に物語を作る。泥水をすすり、地べたを這いずり、汗と涙に塗れて苦労をした俳優のプライベートな部分を自分の脳内で補完する。そうすることで、自己暗示と言うのかな。より自分が感動できるように仕向ける。短歌にもそういったものがある。小倉百人一首にも選ばれた藤原義孝の歌に『君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな』という和歌がある。一見すると単純に愛を詠った和歌に見えるが、藤原義孝が21歳で早逝した事実を知るとなぜかこの歌も、義孝の人となりもどことなく儚さを帯び始める。他にも、明治から昭和初期にかけて多くの歌を詠んだ斎藤茂吉の歌にこんな物がある。『うらうらと 天に雲雀は 啼きのぼり 雪斑らなる 山に雲ゐず』という歌なんだが、この歌だけを見ると長閑な山中にあって美しい情景を詠った風流短歌に聞こえるだろう。だがこの歌は「死にたまふ母」という全五十九首の短歌集に収められていて、母の死の前後の心情を詠ったものなんだ。そういう情報があると同じ歌でもガラリと色が変わる。音楽もそうだ。このカーペンターズでボーカルを担当したカレン・カーペンターは晩年、ストレスによる拒食症で衰弱死した。そういう情報があると、カーペンターズの作品は違った色を持ち始める。若くして成功し、誰もが羨むスターの道を歩んでいたはずなのに、その裏では決して満ち足りた生活を送っていたわけではなかった。そういう背景があると、同じ作品が全く違った印象になったりもする。それは、受け取り手が自分で物語を作っているからだ。それは決して悪い事ではないと僕は思う。まあ、良い悪い以前に、無意識の部分で起こっている事だから否定の仕様がないと思うがね。情報を得る、作品に触れる、また違った情報を得る、物語を紡ぐ。それは人間が皆無意識にやっている事なんだよ。それは作り手の意図通りの場合もあるし、全く違う場合もある。どちらにしろ、どう解釈するかは受け取り手次第だ。僕はよく物語を勝手に作る。音楽でも、映画でも、スポーツでも何でもいいんだ。表現を解釈し、物語を作る。日常でもいいんだ。例えば電車に乗った時、ちょっとおかしな人がいるとする。その人がどうしてそういう状況になったのか、時にはその人の出生から現在まで経歴を想像してみる。いい暇つぶしになるよ」

「短所にもなり得る、というのはどういう事なんでしょうか」

「極端な事を言えば、狂信的なファンの存在だ。ジョン・レノンを殺害したマーク・チャップマンはビートルズの狂信的なファンだったと報じられている。真相はわからんがね。メタルバンド、パンテラのギタリストだったダイムバッグ・ダレルもファンに殺害された。その他、昨今ではアイドルの握手会など恋愛商法じみたビジネスが多く開催されているが、妄想を膨らませたファンによる迷惑行為なども多く報じられている。こういうのは物語を作りすぎた弊害だね」

相田はふと、今向かっている次の依頼人の事を考えた。さっき、鴉堂で真尋の父・兼定と初めて会い、話された依頼人の事。


「鎌倉にいる知り合いの神社からの紹介だ。依頼人の名前は火野綾子。昨年亡くなった旦那の辞世を詠んでほしい、ってよ。旦那はプロサッカー選手だったらしい。名前は火野菊之。試合中、心臓発作で死んだって話だ。報酬は二十万。明日ならいつでも時間が取れるそうだ。まあ鎌倉だからな。今日のうちに行っちまって、ついでに旅行でもしてきたらどうだ。泊まるところはその知り合いの神社でいいだろう。水野ってやつがいてな。学生時代からの俺の友達だ。真尋も知ってるよな。連絡しといてやるから、そいつのところに世話になるといい」

相田君と二人で旅行なんてぞっとしないなあ、綺麗な女とだったら喜んで行くんだけどなあ、等と呟きながら真尋は茶を啜った。相田にも覚えがあった。スポーツニュースにも出ていた、試合中に亡くなった選手。国内の名門プロサッカーチームでキャリアを始め、ワールドカップにも日本代表として出場した。そのワールドカップで目覚ましい活躍をした後、イタリアのプロサッカーリーグ、セリエAの強豪チームへ移籍し、イタリアでも長くレギュラーを務めていた。三十歳を過ぎ、衰えが見えてきたあたりで日本へ戻ってきて、自分の故郷・鎌倉の弱小チームへ移籍した。移籍した当初は三部リーグにいたのがあっという間に二部に昇格し、一部昇格を決めた試合で亡くなった。FC鎌倉はその選手を永久欠番にし、現在一部リーグを戦っている。確か武口という選手が得点王を争っていたはずだ。チームも奇跡の番狂わせと言われ、首位争いに参加している。ホームスタジアムの名前が確かヒノスタジアムだった、と相田は思い出していた。

「まあ、鎌倉はちょっと行くには遠いところだし、たまにはのんびり湘南までドライブというのも悪くないな。相田君は今日から明後日までの予定は大丈夫だったかな」

「はい、大丈夫です。泊まりですね。茜さんに伝えておかないと。そういえば茜さんはどこ行っちゃったんですかね」

「わからん。最近時々ふっといなくなるんだ。まあ相田君がいてくれるから茜も安心して遊びに行けるんだろう。もう三十だからな。早く結婚でもしないと行き遅れて未婚率の上昇に一役買ってしまうことになる。見た目は悪くないと思うんだが、相田君、どうかな。茜は。あれでなかなか気がつくところもあるんだ。少々気が強いし、だいぶ姐さん女房だから尻に敷かれるのは目に見えてるがいい物件だと思うぞ。なあ親父殿」

兼定は何か別の事を考えていたようで、あ、ああ、そうだな。茜もなあ、等と呟くと、じゃあ、先方には明日行くって伝えとくわ、住所はこれな、水野の神社の場所も書いといた、と相田にメモを渡した。

「スタジアムの傍でメシ屋をやってるみたいでな。選手もサポーターもよく行く店らしい。家を改築してレストランにしたって話だ。明日は休業日だから何時に行っても大丈夫だが、十三時くらいにしとくか。その時間に行くって伝えとくよ。よろしくな」

そう言うと、雪駄を履いて兼定は出ていった。

「そういえば真尋さん、茜さんから聞いてないんですか。婚約者の事」

婚約者、と真尋は叫んだ。なんだそれは。茜に婚約者がいるっていうのか。

「そうですよ。今は遠くにいるみたいなんですけど、呼ばれたら行かなきゃいけないって言ってました。外国とかなんですかね」

そんな話聞いたことないなあ、と真尋は疑うように言った。まあそれなら結婚の心配は無用だったって事か。相田君、女は茜だけじゃないから、傷ついてないで他の女を探しなさい、と真尋は相田の肩を叩いた。

「勝手に人を失恋させないでください。確かに綺麗な人だなあとは思いますけど、僕なんかとは釣り合わないって思ってるんですからね。ふん」

「恋人はいるのかね。相田君は」

「今は、いません」相田は憤然として答えた。

「今は、という事は前はいたのか」にやりと笑って真尋は訊いた。

「関係ないでしょう。真尋さんには。いいから準備してください。僕んちにも寄りますからね。着替え持っていかないといけないし。茜さんにも連絡しなきゃ。ケータイ持ってってますよね」

「持っていってると思うよ。相田君の色恋話はまた今度ゆっくり聞かせてもらおう。僕も着替えを用意しなくては。久々の外泊だな。鎌倉か。不思議なところだな。歴代の幕府が置かれた場所の中では最も小さい街だ。しかし小ぢんまりしているが故に無駄なものがなく、色がわかりやすい街でもある。江戸、東京はご覧の通りの混沌で、全てがある。京都市は古都としてのイメージがあるがハイテクの街でもあったり、いろいろな側面を持つ街だ。鎌倉というとあまり多くのイメージはない。趣のある建物が並ぶ路地があり、神社仏閣があり、ゆったりとした時間が流れている。海も山も近く、自然が多い。そんなところかな。鎌倉文士という言葉が生まれるほど、数多の文豪や作家が時を過ごした場所でもある。少し足を伸ばせば逗子や、御用邸のある葉山も近い。住むにはいいところなんだろうな。そういう落ち着いた場所にサッカースタジアムというのはあまり似つかわしくないが、湘南の海に集まってきた若者が新しい文化を作っているようだ。サーフィンや音楽を中心に、古都鎌倉のいいところを残しつつ、次の時代へとゆるやかな変化をしている。街のブランディングという意味でいい具合に鎌倉ブランドが形成されているようだね」

相田は一度だけ鎌倉に行ったことがあった。数年前、友人と一緒に江ノ島の海に行こうという話になり、車に乗って行く途中、食事を取るために鎌倉に寄った。古民家を改装したカフェがあり、地元で取れた食材を使った料理が提供されていた。都会の喧騒からは遠く、静かに時間が流れている街、相田はその時そう感じた。

「茜さんに連絡しておきますね。真尋さんは支度しててください。二泊です」

何を持っていこうかなあ、等と呟きながら真尋は奥の部屋へ向かった。

「もしもし」

「あ、相田です。茜さん、今大丈夫ですか?」

「うん、どうしたの?」

「実は兼定さんが来て、次の依頼人を紹介されまして。鎌倉なんですが、今日から明後日まで泊まりで行ってきます。宿泊は水野さんという神社にお世話になることになりました。何か気をつけることとかありますか?真尋さんが必要なものとか」

「そう。真尋は大丈夫。書く道具も全部自分で持っていくし、着替えとかも全部一人でできるわ。あ、箱を開けてないお煎餅が台所にあるからそれを手土産で水野さんに持っていってくれる?優しい人だから安心してね。歌の報酬はもらってきてね。一応領収書持っていって。幾らだった?」

「二十万って話でした。確かに受け取ってきます。初めてお父さんにお会いしました」

「ちょっと似てるでしょう。真尋に。使う言葉はちょっと違うんだけど、伝えたいことが似てるっていうか」

「そうですね。真尋さんのお父さん、っていうのがなんとなくわかります」

「高速道路とかガソリン代、駐車場代かかると思うから、一番左の引き出しにお金あるから必要なだけ持っていってね。領収書もそこにあるから。ちゃんとあとで清算するから、ちょろまかしちゃ駄目よ」

「そんな事しませんよ。じゃあ、とりあえず五万円持っていきますね。足りなかったら立て替えておきます」

「相田君」

「はい」

「ごめんね、任せちゃって」

「全然大丈夫です。茜さんは少しのんびりしててください」

「ありがと」

「じゃあ、なんかあったら連絡しますね」

気をつけてね、と言って電話は切れた。

「相田君、どうやら海老名サービスエリアには名物のメロンパンがあるらしい。これは聞き捨てならない。早くメロンパンを食べに行こうではないか。ところでなぜメロンパンはメロンパンと言うのだろう。ちっともメロンには似ていない。メロン成分が入っているわけでもない。なんか他にもそんな話があったな。あ、ネギトロというものがあるだろう。あれは必ずしもネギもトロも関連しているわけではないらしい。マグロの骨から身を『ねぎ取る』様にしてほじくるからネギトロというのだそうだ。そう言えば鎌倉からちょっと行けば三崎というのもあるな。三崎のマグロというのも一興だ。帰り道にちょっと寄っていくか」

真尋が興奮して部屋から出てきた。手には風呂敷包みのようなものを抱えている。

「三崎は三浦半島の先端だからちょっと寄っていくというような場所じゃないですよ。それと、鎌倉に行くには東名じゃなくて第三京浜です。海老名は通りません」

相田が冷たく言い放つと、そんなあ、と言って真尋は崩れ落ちた。


「やあ、真尋君。久しぶりだね」

兼定から伝えられた神社に到着すると、物腰の柔らかい男性が出迎えた。兼定と同じ様に長袖の作務衣を来ているが、体格はほっそりとしていて兼定より背が小さい。相田は辺りを見渡した。大きな階段のある、広い神社。境内は大木が何本も立っており、歴史の長さを感じさせる。

「こんにちは、水野さん。お久しぶりです。お変わり無い様で」

「相変わらず、日々をただ生きているよ。こちらが相田君かな?初めまして、水野と申します」

「初めまして、相田といいます。真尋さんの助手のようなことをやっています」

ふふ、と水野は笑うと、真尋君も助手を持つようになったかあ、僕も歳を取るわけだね、と相好を崩した。

「僕は真尋君が拾われてすぐの頃から知っているからね。あの赤ん坊がこんなに立派な歌人になるなんて思いもしなかった。賢い子ではあったんだよ。あまり泣かないし、いつもニコニコしていた。いつの間に歌を詠むようになって、あっという間に賞を取るようになった。短歌、俳句で生計を立てる人間は現代では他にほとんどいない。詩人なら何人かいるかも知れないが、辞世の句を他人に詠んで報酬をもらうなんて発想があったとはね。神道には諡、仏教には戒名というものがあるが、それをよりわかり易く表現したものだと僕は思う。目の付け所が我々凡人とは違ったね。歌の才があり、ビジネスに対しての慧眼もあった。大したものだ」

ビジネスにしたのは茜で、僕はただ歌を詠んでいただけです、と真尋は頭を掻いた。

「あ、そうだ、茜さんから水野さんに手土産で、お煎餅を持ってきました」と相田は持ってきた煎餅を水野に差し出した。

「やあやあ。嬉しいね。茜ちゃんは相変わらずしっかり者だ。元気かな、茜ちゃんは」

「まだ結婚もせずに独り身ですが、元気ですよ。相田君が入ってきたので最近は羽根を伸ばしている様です」

「もう三十歳になるのか。真尋君は、どうかな。結婚は」

意表を突かれたような顔をして、少し寂しげにはにかみ、真尋は答えた。

「僕のような人間では、相手が可哀想ですので」

水野は、そんな事を言うもんじゃないよ、と微笑み、まあうちへ上がりなさい、と導いた。


一番大きな建物の脇の道を少し進むと平屋の民家が見えてきた。真尋は歩きながら、「相田君、これが本殿、御神体が祀られている処だ。参拝をするのは拝殿と呼ばれている。その他にも神社には色々な場所があるのだよ。神道は八百万という概念からあらゆるものに神様が宿っていると訓えられている。中には恐ろしい神様もいらっしゃるし、身近な神様もいらっしゃる。僕は神道のそういうところが好きなんだ。人間っぽいじゃないか。いろんな性格の神様がいるってのはさ。君はカップ焼きそばを食べたことがあるだろう。お湯を入れて、流しにお湯を捨てる。すると、流しの下から、ボコンという音がする。あれは流しの下の神様が『おい、熱いじゃないか』と文句を言っているのだよ。うちの母はお湯を流すとき『神様、これから熱いのが行きますからね、気をつけてくださいね、ごめんなさいね』と言って流していた。まあ、本当はステンレスが熱で膨張して反り返った時の音なんだが、どことなく心温まる話だと思わんかね。森羅万象、あらゆる物事に神様を紐付けて畏れたり有難がったりするのは日本ならではだな」と相田にこんこんと説明した。

「真尋さんは、神道へは進まないんですか」と相田は問いかけた。

「勿論、神社の息子だからね。考えた事は何度もある。いずれ親父殿の跡を継いで、神主になるかもしれない。神主は嫌ではない。だが親父殿は好きな事をやりなさい、と特に跡を継いで欲しいという事は言わない。まあ、いずれきちんと答えを出す時が来るだろうが、親父殿はまだまだ壮健だ。跡継ぎの心配はしばらくいらないだろう。葵だって神主になれる。代々神職の駒形の血を引いているのは葵だからそっちのほうがいいかもしれないな。葵からその言葉を聞いたことはないが、國學院を出ているし、条件としては全てクリアだ。葵が神主になると言えば障害になるものは何もない。まあ、葵の意思が一番大事だと思うがね」

すると、先を歩いていた水野が振り向いて言った。

「僕は葵ちゃんよりも真尋君の方が神主に向いていると思う。勿論葵ちゃんはきちんと神道の勉強をしたし、血筋もこれ以上無いほど適している。頭が良くてよく気が利くし、女性の神主も今では珍しくはない。神職という仕事をやるにあたって葵ちゃんは何の問題もない。しかし、僕は神職というのはそれだけではないと思う。何というのかな、言葉にするのは中々難しいんだが、文化や教えを守り広めるだけが神道ではない気がする。真尋君はその先を見ている気がする。森羅万象に八百万の神々が宿るとされる神道を吸収した上で、人が生きるということはつまるところ何の意味があるのか、そういうところを見ていないかな。どうだね、真尋君」

真尋は俯き、微笑んでいる。ジャリ、ジャリという三人の足音と、虫の鳴き声。間もなく玄関へ到着する。一呼吸置いて、真尋が口を開いた。

「その答えを探す事こそが、僕のとっての神道なのかもしれませんね」

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かむろ坂 鴉堂 @apollo37

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