かむろ坂 鴉堂

@apollo37

第1話 花

微かに、赤ん坊の泣き声が聞こえた様な気がした。


男は箒を掃く手を止め、耳を澄ました。

夕暮れの境内。人の姿は無く、疎らに鴉の鳴き声が響く。

気のせいかと思い、再び箒を動かそうとすると、今度ははっきりと聞こえた。赤ん坊の泣き声。

境内を出て、辺りを見回す。こっちの方かな、と、それが目に入った。

道端に、半分潰れたダンボール。厭な予感がした。車に轢かれたらしい。

急いで駆け寄り、中を見た。赤ん坊。生まれて間もない。

ダンボールの隅、毛布に包まれている。毛布に血が滲んでいた。

薫。妻の名を叫び、毛布を剥がす。赤ん坊の左腕。肩から先が、潰れていた。

赤ん坊の泣き声が、一際大きく響く。夕暮れ。境内。鴉がまた一つ、鳴いた。


「じゃあ早速、今日からでもいい?」

はあ、と頷いた。本当に大丈夫なのだろうか。相田はもう一度考えてみた。

坂の途中、一本脇へ逸れる道。この辺りでは珍しい、平屋の木造建築。

かむろ坂と呼ばれる坂を下り、山手通りを右へ南下すれば五反田方面、左へ北上すれば目黒方面。

坂を登り切り、しばらく歩くと大きなアーケードの商店街がある。相田はその商店街で育った。

しかし、と思った。今は2016年。いくら古くから住んでいる人が多い地域とは言え、このご時世にこんな時代遅れな建物がまだ残っているとは。

過日、目黒駅近くで酒を飲み、電車もなくなったので歩いて帰る途中に偶々この家を見つけた。裏道を適当に歩いていると、漆黒の塀に「事務、その他雑用。要普通免許。時給千円、昇給あり、詳細は面談にて」と求人の張り紙を見つけた。

家から歩いて近いし、卒業までの間、小遣い稼ぎにはちょうどいい。軽い気持ちで電話をかけた。

「あの、一ついいですか」相田は思い切って尋ねてみた。

なあに、とその女。駒形葵と言っていた。腰の辺りまである長い髪。綺麗な女だ。年はよくわからない。二十代にも見えるし、四十代と言われても納得できなくはない。

「仕事の内容なんですけど」

「うん、そうねえ、電話番と運転手がメインになるかしら。いずれは他の事もやってもらうけど、とりあえずはそれかな」

運転手、と相田は呟いた。誰か偉い人に付くのだろうか。車の運転は好きだが、誰かを乗せて走るのは苦手だ。ああだこうだと指図されるのが厭なのだ。

「運転手って、誰のですか」相田は尚も聞いた。

「ここのボス。あたしの弟にあたる人」

部屋を見回してみる。黒い塀に囲まれた、黒い家。玄関を入ると板張りの廊下。左の部屋が、今いる部屋。部屋からは庭が見える。広くはない庭だが、小さな池と、石の灯籠がある。いい雰囲気、と言われるような庭。

十畳ほどの広さの部屋には畳が敷かれていて、相田と葵が向かい合っている大きなテーブルが一つ、奥の隅に、小さな机が一つと、座椅子。

「それで、そのボスは今どちらに」

小さな机を見つめながら、相田は聞いた。机には、硯と、筆と・・・あれはなんて呼ぶんだっけ。まあ要するに書道の道具が置いてある。

「パチンコ」葵は吐き捨てるように言った。

「君の最初の仕事。その人を連れてきて」

葵は相田の書類をとんとんと揃え、立ち上がる。

「不動前の駅前にパチンコ屋があるから、そこにいる着流しの男をここに連れ戻してきて」

キナガシ、耳慣れない単語だ。聞いたことがあるような気もする。

「キナガシって、何でしたっけ」相田も立ち上がり、葵の後を追う。

「まあ、浴衣みたいなものかな。本当はちゃんとした違いがあるんだけど、パチンコ屋でそんな服着てる人は一人しかいないから」

「名前はなんて言うんですか」

駒形真尋。年は三十歳。女みたいな名前だけど男。

「その他に特徴とかありますかね。背が高いとか、太ってるとか。一応」

「背は君より少し大きいくらい。痩せてる」

そこまで言うと、葵は何かを思い出したように口を開けた。

「そうだ、その人、左腕が無いの」


「ときに君は、パチンコが一番詰まらない瞬間を知っているかね」


言われた通り、不動前のパチンコ屋にその男はいた。煙草を咥え、呆けたような目つきでパチンコ台を眺めている。黒いキナガシを着て、下駄の足を組んでぶらぶらさせていた。左の袖はその中に何も無いかのようにくったりとしている。

あの、駒形さんですかと相田が尋ねると、む、君は何だと訝しげに答えた。

「駒形葵さんが呼んでます。あ、僕は今日からお世話になります相田と云います」

真尋はしばらく相田の顔を眺め、何かを考えていたがすぐに「おお、そうだったか、葵から。今日から」などと呟くとまたパチンコ台に向き直り、その質問を投げてきた。

はあ、それはまあ、なかなか当たらない事でしょうか、と相田は答えた。

「違う、当たらないのはどうでもいいのだ。当たらないと苛々するのは金が欲しいからだ。僕は金が欲しいのではない。玉が始動口に入り、デジタルや何やかやがワアワアと、騒々しく発光したり明滅したりして、おお、これは何やら楽しそうだぞと沸々するのが愉しいのだ。否、話が逸れた。詰まらない瞬間だが、これは一つしか無い。玉が始動口に中々入らず、只パチンコ玉がカツカツと打ち上げられては落ちてゆく音が響き、そのうちに液晶画面がメーカーのロゴなどに変わったり、ボリュウム調整をしますかなどとまるでそこに誰もいないかのような振る舞いを見せる瞬間が一番詰まらない瞬間なのだ。ほら、見てみろ。僕はさっきから一玉四円のパチンコ玉を都合八十発も打っているが一つも始動口に入らない。そろそろ画面が変わってデモ画面になるぞ。その瞬間、僕は何て無為な時間と金を使っているのだろうとひどく自虐的な気分になる。そして」

相田は早口で真尋が喋るのを必死に聞いた。騒々しい店内だが、真尋の声はよく響いた。低くもなく、高くもない。芯があるとでも言うのだろうか。真尋の声は聞き取りやすかった。

そして、なんですかと相田は聞いた。

「その時、言葉を閃くんだ。霧が晴れて、まるでずっと前からそこにあったかのように姿を現すんだ」

言葉ですか、と相田は呟いた。

「む、君は、僕が何を生業にしているか聞かされていないのかな」と真尋は言った。そういえば聞いていなかった。

あの、書道の先生ですかね。相田は部屋にあった書道の道具を思い浮かべた。

「ああ、書は確かに僕の仕事の一つではある。だが違う。書は只の手段で、僕でなくともいいのだ。面倒なので自分で書いてはいるがね。鉄舟や友梅とまではいかんが、まあ自分なりに形のある字を書けるものでね」

テッシュウ、ユウバイ、有名な書家だろうか。

「あの、一旦ここを出ましょう。うるさいし、葵さんも呼んでますよ」

真尋はそうだな、そろそろ帰らないと葵に叱られると言い、席を立った。


店を出て、かむろ坂を二人で登る。桜が有名な場所だが、桜はとうに散って緑が眩しい季節だ。

「折角だから到着するまでの間、僕の生業を君に当ててもらおう。何、君はただ事務的な事をすれば良いのだから僕の生業について何一つ知らなくても問題はないが、何をしているか全く知らないというのも不便だろう。さて、何だと思う」

相田は考えた。この時代に好き好んで和服を着ているのだから何か日本の伝統的な仕事なのだろう。

「あの、前にテレビで見たんですけど、家にある高そうな壺とか掛け軸とかを専門家に見せて本当の価値を教えてくれる番組があったんです。そういう、古物商だとか、鑑定士だとか、そういうやつでしょうか」

ははは、と真尋は笑った。そういえばあの番組にも和服を着た人が出ていたね。

「だが違う。僕が扱うのは壺でも掛け軸でも日本刀でもない。言葉だよ。僕は歌を詠む。それも」

そこで真尋は言葉を切った。黒い塀が見える。マンションやアパートが並ぶ中、異様な光景だ。真っ黒の塀、真っ黒の家。

「古来より鴉は霊鳥とされてきた。鴉が騒いだりするとその辺りに死人が出るとも言われる。不吉な鳥ではあるがその昔、神武天皇の東征の際には神の使い、八咫烏として遣わされたこともある。僕は鳩よりは鴉の方が好きだね。鳩は平和の象徴だとか言われているが実際何をしたということもない。ただの鳥だよ。ほら、見てみなさい」

黒い塀が途切れ、門がある。その脇に一枚の看板が倒れている。真尋はそれを起こした。かむろ坂、鴉堂。

「鴉が鳴けば人が死ぬ。僕が詠むのは歌だ。人が死ぬときに詠まれる歌」

あ、と相田は言った。露と落ち、露と消えにし、我が身かな。

「僕は辞世を詠む。誰かの人生を、誰かの代わりに詠んで、終わらせるのが僕の生業だ」


玄関に入ると、真尋っ、と怒鳴る声が聞こえた。

「あんた、時間ちゃんと言ったでしょう。遅刻するよ」

葵が詰め寄ってくる。何処かへ行く約束があるのだろうか。

「憶えてるよ。だからちゃんと戻ってきたじゃないか。なあ相田君」

真尋は部屋に入り、座椅子に腰掛けて煙草に火をつけた。

「君は煙草はやらないのかね。最近の若者はあまり吸わないらしいね。健康志向というのか、僕はなんだか無味無臭の感じがしてあまり好きじゃないな。男ならばある程度の毒を持っていたほうが人間的に深みが出るというものだよ。酒、煙草、賭け事、女、そんなところかな」

はあ、と相田は間が抜けた返事をした。高校生の頃に少し吸ったことがあるが、咳込んだ挙句気分が悪くなって戻してしまったので自分には合わないと思い、それ以来吸っていない。

「煙草はどうも合わないみたいで。酒は少し飲みます。パチンコはやりませんが、麻雀なら親父に教えてもらって少しわかります」

麻雀、と聞くと真尋は嬉しそうな顔をした。

「麻雀、結構な事だ。あれをやると時間の経過を忘れてしまうね。気づけば朝方だ。あの、朝方に雀がチュンチュンと鳴く道をふらふらしながら帰るのがまた一興だな。ああ、また今日も無為な時間を過ごしてしまった、などと考えながら」

なんか真尋さんって無駄な時間ばかり過ごしてますね、と相田は呟いた。

「そういう、一見意味のない行動にこそ人間の真実があるとか、そういう事なんですかね」

それもあるかもしれないが、単純に僕が無為な行為が好きなだけだよ。できるだけ時間を忘れて、一日が早く過ぎればいいと思っていると、真尋は言った。

「相田君、人生というものはだね、死ぬまでの暇潰しでしかないのだよ」

煙を吐き出して、真尋はそう言った。


「真尋、人生はいいから仕事してきて。四時に松濤。先方の名前は村松さん。地図はこれね。運転手は今日から相田君。車は近くの駐車場にあるから。真尋、案内してあげて」

鴉堂を出て、二分ほど歩く。これが僕の車だよ、と真尋は黒い車を指差した。

「車まで黒いんですね。しかしかっこいいというか、かわいいというか、オシャレな車ですね」

日本ではあまり見かけない、丸っこいデザインの車だった。どこかで見たことがあるような気もする。

「フィアット500。イタリアの車だ。チンクエチェントとも呼ばれる。日本の車は総じて無個性でダメだ。機能性を重視しているんだろうが、車にはやはり遊び心がなければいかん。まあ、このチンクも内装やハンドル周りは日本仕様に改造してある。ハンドルも右だ。初めてでも運転には問題無いだろう」

まあ大丈夫だと思いますよ、と相田は車に乗り込んだ。エンジンをかけると、日本の車とは違う音がした。

「松濤ですよね。山手通りからどっか適当に曲がります。村松さんって人か」

相田は改めて地図を見た。見たところで、異変に気がついた。

「あの、この村松さんって人の家、すごい大きいんですけど」

ああ、そうだろうね、と助手席の真尋が言った。

「何せ元総理大臣だ。家もでかいだろうさ」

は、と相田は大声で叫んだ。元総理大臣?そんな人から何の仕事が来たんだろう、いや、仕事はさっき聞いた。辞世の句だ。ということは、死期が近いのか?村松元総理大臣、名前は知っている。小学生の頃、教科書に載っていた。消費税を導入した総理大臣。最近では名前を聞かなくなったが、旧なんとか派、みたいな政治家の派閥で旧村松派というのがあったような気がする。

「そんなすごい人から依頼があるんですか」

山手通りを進みながら、相田は尋ねた。夕方にはまだ早く、道は空いている。

「そういう人からも来るし、無銘の人からも来る。依頼があれば誰であっても受けて、歌を詠むのが僕の仕事だよ」

真尋は窓の外を流れていく景色を眺めている。

「報酬って幾ら位なんですか」

「報酬は、決めてない。依頼人の言い値をもらうだけだよ」

「それで、やっていけるもんなんですか」

これが不思議と、と真尋は言った。

「日本人というのは、あまり慶弔に金を惜しまない。もうすぐ死ぬなんていう人は尚更だし、偶に既に亡くなった人に対しての依頼も来るんだが、その場合でも安くはない報酬が支払われる事が多い。僕は幾らでもいいんだ。これも僕の暇潰しのようなものだからね。実際、報酬がいくら支払われているかは僕もよく知らない。それは葵が管理してくれている。仏教では戒名をつけるだけでお気持ちなどと言いつつも高額な報酬を請求する強欲坊主が多いが、僕は神道だ。神道と言っても、僕の仕事に直接関係があるわけじゃない。僕の父が神主をやっているというだけだ。まあ随分昔から仏教と神道は神仏混淆といって似たようなものとして扱われているがね。廃仏毀釈という言葉を聞いたことがあるだろう。明治の頃、仏を廃して釈迦の教えを毀し、神道を日本の国教として定めようとした運動が起きたが仏教は今日まで強大な勢力を持ち続けている。僕は仏教はあまり好きじゃない。合わない。何かストイックな感じがするだろう。修行とか、苦行とか、悟りとかさ。そのくせ欲望や権力を否定しない。神道はもうちょっと享楽的で、ナアナアしたところがあるんだよ。それでいて、シンとしたところもある。僕の性に合っているよ。まあ、僕自身は神主でも宮司でも、もちろん僧侶でもない。只の歌人だよ」

「仏教って、お寺ですよね。神道は、神社ですか?」

相田は聞き慣れない言葉を聞き取ろうと、頭の中で聞いた言葉を漢字に変換してみた。半分くらいは変換できなかった。

「そうだね。さっきも言ったけど神仏混淆、神と仏を一緒くたに扱う文化でも神社と寺は別のものとして扱われる。まあ、本来神社にある鳥居が寺にもある、みたいな事は多いけどね。要するに日本人は伝統的なシンボルとして神社も寺も同様にありがたいもの、畏れ多いものとして考えているんだ。初詣は元々、氏神つまり神道の神様にお参りするのが事の始まりだったんだが、宗教というのは金儲けだ。よほど狭量で閉塞的な寺でもない限り初詣の参拝客を受け付けないなんてことは無いだろう。初詣はこちらまで、なんていうテレビCMまで打つ始末だ。参拝客としてはどっちでもいいんだろうな。一年の初めに、寺だとか神社だとかに行って、賽銭を投げて、願いごとをして、御神籤を引いて、盛り上がったり盛り下がったりして。まあ、その御神籤の結果も一週間も憶えていれば良い方だろう。行事として、初詣に行ったという結果さえあればいいのさ」

軽いものなんですね、と相田は呟いた。自分にも覚えがあった。大晦日、友達同士で夜通し騒ぎ、朝方に酔っ払ったまま初詣に行った。それが神社だったか、寺だったかも憶えていない。御神籤の結果も今年のものすら思い出せなかった。

「じゃあ、真尋さんが詠む歌も、形だけなぞったみたいな、小奇麗なものなんですかね」

君は案外失礼なやつだな、と真尋は笑った。

「確かに僕はろくでなしだ。適当に生きてきたし、これからも多分変わらない。だが僕は歌にだけは嘘をつかない。その人がどういう人生を生きて、どういう風に死んでいくか。同じ人生は二つとないし、同じ歌も二つはない。その人にしか、そこにしか合致しない言葉がある。本当に色々な人生があるんだ。平凡な人生って何だろう、時々思うよ。満ち足りた人生を送る人もいる。満ち足りているようで、空虚な人生を送る人もいる。何も無いようで、大きく傷ついたり、至上の幸福を感じる人もいる。僕は、どういう人であれ、平等に送り出してあげたい。幸せだと感じた人生を送った人は、その幸せが続くように。それほど幸せではなかったと感じた人生を送った人は、来世で幸せになれるように。神道には輪廻転生の概念はないが、その人が満足してくれれば僕は仏だろうが神だろうが、鬼だろうが悪魔だろうがアッラーだろうがサタンだろうが持ちだすよ」


山手通りから細い路地に入ってしばらく行った閑静な住宅街に村松邸はあった。

相田はその大きさに圧倒された。渋谷の高級住宅街でこれだけの広さだ。価値はいくらになるのか見当もつかない。

「でかいですね」

「ああ。だが住んでいるのは家政婦が一人と村松夫妻の計三人だけらしい」

村松元総理に子供はいただろうか。政治家というと世襲で後を継ぐ二世議員というのが一般的だ。熱心に政治のニュースを見る方ではないが、相田には村松元総理の二世議員は聞き覚えがなかった。

相田はそこで根本的な疑問を持った。

「あの、ここで何するんですかね」

「話を聞くんだ。今までの人生を話してもらう。だが今回はひょっとしたら少々難しいかもしれないな」

「何か問題があるんですか」

「依頼人は村松ヒカリ、つまり元総理の奥方からだ。本人からではない。ひょっとすると、元総理は他人に辞世を依頼するのに同意していないのかもしれない。その場合、まずは僕に辞世を詠ませるというところの同意から始めなければいけない。本人不在でも辞世を詠むことはあるが、健在の場合は本人から直接話を聞きたいというのが僕の希望だ。まあ兎に角、入ってみようじゃないか」

インターホンを押すと、柔らかい声の女性の声が聞こえた。

「はい、村松でございます」

「御免下さい。私は十六時にお約束を頂いております、駒形と申します。村松さんにご面会願えますか」

伺っております、という声と同時に門が重々しくスライドした。お車は中まで入れて頂いて結構でございます。

敷地内は純和風だった。よく手入れされた植樹と、赤い橋のかかった池がある。

玄関まで行くと、和服の女性が指をついて待っていた。年は六十くらいだろうか。品のある女性だ。

「ようこそお越しくださいました。村松の部屋までご案内致します」

「宜しくお願い致します。失礼ですがあなたがヒカリさんですか」

「いえ、私は家政婦をしております、山岸と申します。奥様は村松の部屋にいらっしゃいます」

「そうでしたか。あ、これは相田と言ってまあ助手のようなものです。一緒に話を伺わせていただきます」

いつの間に助手にされてしまった。部屋まで歩く間、隙を見て真尋に話しかける。

「あの、助手って何すればいいんですか」

「特に何もしなくていい。一緒に話を聞いていてくれ」

絵画や骨董品が並ぶ廊下を進み、一番奥の部屋まで辿り着いた。

「奥様、駒形様がいらっしゃいました」

山岸が声をかけると、障子が開いた。

「ようこそいらっしゃいました。村松ヒカリと申します。どうぞお入りください」

年は山岸よりかなり上に見える。髪は真っ白だ。しかし姿勢が良く、肌艶も良い。今も年相応に綺麗だが、若い頃もさぞかし美しい女性だったろうと相田は思った。

部屋は十畳ほどだろうか。畳に布団が敷かれていて、年老いた男が横になっていた。ヒカリに体を起こされたが布団はかけたままだ。薄い座椅子のようなものに背を預けている。

「このままで失礼するよ。今日は割合元気な方だと思うが、おそらく長く話さなければいかんだろう」

「お構いなく。これは私の助手で相田と云います。一緒に話を聞かせていただきます」

座布団に腰掛ける。正座がいいのか迷ったが真尋は胡座をかいている。倣うことにした。

「ヒカリ、君もいてくれ。あと忍も同席させたい」

村松の声ははっきりと響いた。これが死期の近い老人の声だろうか。

「改めて、駒形真尋と申します。あなたの辞世を詠ませていただきます」

ふぉっ、ふぉっ、と村松は笑った。それはまだわからんぞ。

「君の評判は妻から聞いている。若いのに随分多くの死を見てきたようだな。だが儂はまだ君に依頼するか決めてはおらんのだ。学はないが、曲がりなりにも総理大臣まで務めた男の意地というものがある。他人に辞世を詠ませるなど、一生を走り抜けた男のすることではないという思いもあるのだ。儂のその気持ちもヒカリはわかっていて君に依頼をした。よほど優れた歌を詠むのか、それを今から判断させて頂こう」

「実はお会いするのは初めてではありません。二十年ほど前、ある俳句の賞を頂いたときに一度お会いしているのです。あなたが総理を降り、文部大臣を務めていた頃の話になります」

ほう、と村松は言った。吉備津川俳句賞の授与の時かな。

「そうです。私はその時十歳でした。憶えていらっしゃいますか」

「思い出した。神童と呼ばれる隻腕の少年がいた。そうか、君があの時の。大きくなったものだ。確か父上は神職だったな」

「はい。今も神主を務めております」

山岸がお茶を持って入ってきた。小さなテーブルのようなものにお茶を置き、部屋を出ようとする。

「忍さん、あなたも一緒にお話を聞いてちょうだい」

ヒカリが呼び止める。

「私がですか。ご主人様の大事なお話でしょう。私のような者が居ては」

いいのだ、と村松が言った。

「君とも長い付き合いだ。儂やヒカリが思い出せない事もあるだろう。居てくれんか」

山岸はわかりました、お力になれることがあればとしずしずと座った。

「駒形君、君は確か学校を出ていなかったな。確か小学校すら行っていなかったはずだ。歌は独学か」

「初めは独学でした。幸い書は家に沢山ありましたので、それを読んで学びました。義務教育の事では父も随分役所から叱られたようですが。まあ神社という事もあり特別にお目こぼしを頂いていたようです」

「幼少の頃は、神社を手伝っていたのかな」

「はい。朝拝、掃除、夕拝。時々地鎮祭なども手伝っていました。ごく普通の、神社の息子でした」

「歌はいつからだね」

「物心ついた時から詠んでいました。父が殿部正道という歌人の家族と付き合いがあり、その人からも歌を教わりました」

「殿部正道。その人も確か神職だったな。浜松の神社だったか」

「そうです。その人の曾孫にあたる方が我が家によくいらしていました。その方は神職ではなかったようですが、父とは旧知の仲だったようで色々なことを教えて頂きました」

「吉備津川賞の俳句も見事なものだった。あれを十歳の少年が詠んだなどと俄には信じられなかったものだ」

真尋は苦笑して、実は大人に受けそうな単語や情景を適当に選んで作った紛い物でした、と言った。

「は、は。そうだったか。まあそれも手法の一つではある。紛い物も精巧ならば本物であろう。事実、あの歌が選考員の心を動かしたのだ。涙するものまで居た。例え小手先の手法であろうと、人の心を動かし、感動させ、情景を思い浮かばせる。それは才ある者にしかできない芸当だ」

恐れ入ります、と真尋はお茶を啜った。

しばし、間があった。庭の池には小さな流れがあるようで、水の流れる音が聞こえる。

「それで、いつから辞世の句を詠むようになられたのかしら」ヒカリが口を開いた。

「ある出来事がありまして、それ以来歌は辞世しか詠んでおりません」

「ある出来事、というのを伺ってもいいかしら。繊細な問題でしたら無理は言いませんけれど」

いえ、大したことではないのでお教え致します。真尋はあっけらかんと言った。

「私は捨て子だったのです。産まれて間もなく、実家の神社の傍に捨てられておりました。それを父から初めて聞いたのが十四の時で、それ以来辞世の句を詠むようになりました。何故、と言われると中々言葉にするのは難しいのですが」

そうだったか、何かが変わったのだな。それを聞いて、父上に対する態度は変わったかと村松は尋ねた。

「いえ、特に変わりませんでした。へえ、そうなんだ、というような感じでした。父は大きく、母は優しかった。それで充分でした」

強い子供だったのだな。それと、そんな重大な出生を聞いた後で気が引けるのだが、その腕はいつ無くしたのかな。

真尋は少し考えると、微笑んでこう言った。

「小さい頃、腹が減ったので、焼いて食ってしまいました」


は、は、と村松は笑った。そうか、己が腕を食らったか。余程腹が減っていたのだな。

「大して旨くもなかったので、食わずにいれば良かったと思います」

「そうであろう。腕が一本無いというのは中々に不便なものだ。一時の飢えに耐えかねて食らうものではないな」

相田は二人の会話をじっと聞いていた。捨て子、歌の天才、片腕、学歴は無し。真尋は思っていた以上の人生を歩んできたようだ。

「駒形君。君にとって、歌とは何かね」

村松は何かを試すように真尋の目をじっと見てそう言った。

「私はまだまだ若輩の身です。歌とは何か。それは多くの歌人達が一生を掛けても答えを見つけられなかった問いであると思います。ただ、一つ憶えている事があります。私が初めて歌を詠んだ時に感じた事、それは、歌は絵画のようなものに近い、という事です。それも宗教画に近い。映画や小説のように多くの情報があるわけではない。音楽のように多くの感情や起承転結があるわけでもない。ただパッと見て、それが全てなのです。パッと見てわからなければわからないし、わかる人にはこれ以上なく心に響く。私が望むのは、その歌が最も強く心に響くのは依頼人自身でなければならない、というところです。後世に残るような名歌だとか、そういったものを作ろうという気はありません。それは依頼されて作るようなものではない。私は只、依頼人だけを見て歌を詠みます。一人の人間の人生をただ詠む。それは名も無き雑草であろうと、元総理大臣であろうと変わりません」

そうか、と言った後、村松は何か考え込んでいるようだった。部屋の中は外から水の流れる音が微かに聴こえるだけで、しんとした静寂に包まれている。渋谷という都会ではあるが、敷地が広いのと駅前からは距離があるせいか、車の音のような喧騒は聞こえない。

「儂の事は知っているかね。どういう事をやってきたか」

「おおよそは。ですが今私が持っている情報は何一つ役に立たないでしょう。それはあなたの口から語られて初めて形を成すものです。私が持っている情報の一つとして、1970年代にあなたが巻き込まれた汚職事件があります。あなたは辛うじて生き残ったが、一人の大物政治家が姿を消した。当時のあなたに対するバッシングは凄まじいものだったと思います。だが私はまだ生まれてもいない。生まれていたとしても真相を知ることは不可能です。あなたがあの事件をどう語るのか、あるいは全く語らないのか。それは私の関わるべきところではありません」

「あの事件で儂は全てを失うところだった。既の所で命拾いをしたのだ。桑山は儂の盟友だった。あいつが口を割っていれば儂も一緒に政界から姿を消していただろう。だがあいつは喋らなかった。共に駆け出しの頃からの付き合いだった。儂も、あいつも、理想に燃えていた。政治家などロクなものではないと言う者が多いがそれは強ち間違いではない。儂は政治家になって知ったのだ。政治家と言うものが如何に狡猾な職業か。だが狡猾な立ち回りの中にも全ての政治家に共通する思いがある。日本をより良くしたいという思いだ。その思いがない政治家はいない。どんな政治家にもその思いはあるのだ」

話が逸れたなと言って村松は茶を啜った。その汚職事件も教科書に載っていた。細かいところは憶えていないが、企業からの献金で贈収賄が露見したという事件だったような気がする、と相田は思った。

「私が知っている情報だと、当時の与党に二つの大きな派閥がありました。一つは官房長官を務めていたあなたの派閥、もう一つは幹事長を務めていた桑山さんの派閥だった。事件後、あなたは官房長官を、桑山さんは幹事長を辞任し、次の衆院選で二人共落選した。だがその次の衆院選であなたは見事議員に返り咲きました。桑山さんは再度落選し、体調を崩してそのまま引退、86年に亡くなっています。あなたが返り咲いた時、新聞の見出しには江戸時代の狂歌が引用されていました。白河の清きに魚も住みかねて、 元の濁りの田沼恋しき。その後あなたは総理大臣にまで登りつめた。そして、消費税を導入した後、幾度か大臣を務めてから表舞台から姿を消しました。あなたは汚職事件も起こしたのかもしれないが、それ以上に国民のために改革を進めた。新潟では今でもあなたを神のように崇める人も多いと聞きます」

「儂は新潟に全てを作った。水を引き、電気を通し、道を作り、港を整備した。空も海もだ。新潟は儂の全てだった」

「新潟に戻るおつもりは無いのですか」

「もう新潟には儂の家族は誰もいない。行けば何かと持て囃されるが、もう儂が居るべき場所ではなくなったのだ。少なくとも生きているうちは新潟へは戻らん」

忍、煙草を持ってきてくれと村松は言った。どうせ残り少ない命だ。好きにさせてくれ。

「無駄な時間を使わせてしまったな。駒形君、君は随分色々なことを知っているようだ。知っている上、使い所をわかっている」

村松は旨そうに煙を吐いた。山岸は窓側の障子を開け、窓を解放した。庭の芝生と植樹、池がよく見える。綺麗だな、と相田は見惚れた。

「情報は持っていて損はありません。使い所を誤れば大怪我をしますが」

「そうだな、口は災いの元だ。君のような男を政治家にしてみたかったものだ。きっといい政治家になったであろう」

私のような者に務まるとは思えませんが、確かアメリカに片腕の政治家が一人いましたね、と真尋は笑った。

「いや、愉しかった。久々にヒカリや忍以外の人間と話をしたものでな。さて、儂はじきに死ぬ。あと一ヶ月も持てば良い方だろう。辞世の句か。君は自分の辞世の句はもう詠んだのかな」

「私はまだ三十です。これから先何が起きるかわかりません。あなたのようにうまく年を取り、死を見定めて自分の辞世を詠めればいいとは願っていますが、突然に事故で死ぬかもしれない。それでも自分の辞世はまだ詠むことができません。私がこの生業を始めるにあたって一つだけ定めたことがあります。同じ人に、二つの辞世は詠まない。完成した歌を依頼人に見せ、少々の変更を加えることはありますが、全く違う歌は詠みません。自分に対してもそう決めております」

村松は、そうか、と呟き、煙草を揉み消した。


咳払いが、一つ。


「駒形君、君に儂の辞世の句を詠んで欲しい」

真尋は微笑んで頷いた。

「それでは、聞かせて頂きましょうか。あなたが生まれてから、今までのことを」


何も無い村だった。何も無い家だった。兄弟だけは沢山いた。男が四人、女が二人。儂は次男だった。父は漁師だったが、遠洋に出ていたのであまり家にはいなかった。時々帰ってきて、何週間か家にいた。しばらく家で子供と遊び、金を置いてまた出ていった。そんな繰り返しが何年か続いた後、父は帰ってこなくなった。母に聞いてもただ首を振るだけで何も教えてくれなかった。今でも父がどうなったのかはわからん。船が沈んだのか、他の女に走ったのか。今となってはどっちでもいいが当時はそれは大変だった。兄も儂も小さい頃から母とともに畑を耕した。痩せた土地だったので畑だけでは一家を食わせていけなかった。兄弟みな泳ぎが達者だったのでよく素潜りで貝を獲って来て食った。母は時々、村の男に夜這いを受けていた。僅かな食料を持って、真夜中に男が来るんだ。母が望んでそうしたのか、男共が憐れみからそうしたのかはわからん。兎に角、爪に火を灯すような貧乏ではあったが口減らしも無く、儂ら兄弟は全員無事に育った。兄は早いうちから奉公に出た。盆と正月に帰ってきて、町の話を聞くのが儂は好きだった。静次、町の女はスカートっちゅうもんを履いとるぞ。ヒラヒラしててよ、生まの足が見えるんだぞ、という風にな。その内、兄の話が戦争の話になってきた。新潟の海沿いだったので露助や豚尾は時々見かけたが今度はアメリカとやり合うらしい。儂が十七の頃、戦争が始まった。兄も儂も徴兵された。儂は満州、兄はインドネシアだった。新潟は鎮守府もなかったから空襲の危険はないと思われていたが長岡は焼け野原になった。何も無かった儂の村は無事に過ごしていた。満州も他所と比べて平和だったが、兄のいたインドネシアはひどかったそうだ。大本営は兵站を整えず、ただ我武者羅に兵を送り込んだ。ある島に侵攻した時、その島の地図もないような状況だったらしい。兄は人を食ったと言っていた。他にも人食いは起きていたはずだ。インドネシアでも、他の地でもだ。幸い満州にはあらゆるものがあったが終戦直前は逃げ出す連中で大変な騒ぎだった。露助が攻めてくると言うので皆持てるだけのものを持って船に乗って日本に逃げ帰った。儂の隊は隊長が財閥の枝葉にあたる家系の人で、大学に行きながら愚連隊を率いていたような面白い人だった。おい、村松、日本はもうじき負けるぞ。アメリカが日本をどうするかはわからんが、これから先日本は復興する。その時の事を考えておけよ、おれは親父に金借りて金貸しをやるからな。お前も何か商売をやるなら金貸してやるぞと隊長は言っていた。程なくして、儂らは日本に撤退した。そしてすぐに玉音放送があった。儂も新潟に戻った。村は空襲もなく変わっていなかった。母は、おかえり、と抱きしめてくれた。兄もインドネシアから帰ってきていた。静次、お互い無事で良かったな。これからたくさん母ちゃんに親孝行せんとな。儂は早速京都にいる隊長に会いに行った。隊長の家は思った以上に裕福だった。よく来たな、ゆっくりしていけと隊長は迎えてくれた。祇園だとか、遊郭だとか、そういうところに連れて行ってもらった。戦後間もなかったが祇園は賑やかだった。儂はそんな贅沢は初めてだった。一日中遊んで、翌日の朝、村松、お前この先どうするつもりだと聞かれた。儂は漁師になるつもりだった。船が必要なんです、と言うと隊長はポンと金を貸してくれた。がんばれよ、大当たりしたら返してくれればいい。借用書もなかった。儂はその金で漁船を一隻買った。エビを獲るつもりだった。兄がインドネシアでエビの獲り方を漁師に教わっていたからだ。インドネシアと日本海じゃエビの種類も違うがまあ獲り方は似たようなもんじゃろう、同じエビじゃ。兄弟総出で毎日漁に出た。エビ漁は大当たりだった。儂は会社を興した。村松水産の誕生だ。船もどんどん増やした。隊長に借りた金は十倍にして返した。儂は新潟市内にでかい家を建てた。母ちゃん、こんな何も無い所なんておさらばじゃ。楽させてやるからの。母は、ワシはこの村でええよ、と言って引っ越そうとしなかった。なんでじゃ、みんなで一緒に住みたくないんか。だが母は悲しそうに笑うだけだった。せめてもの親孝行で、儂は村に立派な家を建てた。こんな広い家、ワシだけで住んでも意味ないじゃろが。母はそう言って笑っていた。儂は県内のあちこちに会社を作り、地元の名士に会った。村松さん、あなた政治家になる気はないですか。会社を興して十年、新潟市長にそう言われた。政治家ですか、私は小学校しか出ておりませんよ、政治家なんてなれるものですかと問うた。市長はこう言った。政治家に必要なのは学じゃありませんよ、心と、意思こそが必要なんです。あなたにはその二つがある。私はこの新潟をもっと良くしていきたい。あなたには国政に出て、国会で頑張ってもらいたいと思っています。その頃、会社は県内で一番の水産企業になっていた。経営は兄弟に任せ、儂は選挙に出た。山間部では苦戦したが、海沿いでは圧倒的な支持率だった。儂は代議士になった。村に帰り、母に報告した。金持ちになって、働かなくても食っていけるようになったのに母は畑をやめなかった。毎日畑に出て、土を耕し、近所の人と談笑していた。母ちゃん、おれ政治家になったんじゃ。凄いじゃろう。母ちゃんもセンセイの母親じゃ。母は喜んでくれた。偉くなったんじゃねえ。静次、みんなの声をちゃんと聞く、優しいセンセイになっとくれ。戦争なんて起こしたらいかんよ。母はそう言って、儂の好きなおぼろ汁を作ってくれた。毎日豪華な料理を食っていたが、母ちゃんのおぼろ汁の方がうまい、そう言うと母はただのおぼろ汁じゃのに、変な子じゃねえ。そう言って笑っていた。儂は上京して国会に出た。桑山と初めて会ったのはその頃だ。あいつは岩手の二世議員だった。お互い若く、日本再興の情熱に燃えていた。戦後を作るのは儂らだとよく二人で言っていた。年も同じ三十代だったが、儂とあいつとで違うところがあった。儂は日本がアメリカに負けたので五十一番目の州として巧妙にコントロールされても仕方がないと思っていた。桑山は違った。あいつは日本が世界最古の国、世界最長の皇室を持つ国として誇りを持っていた。村松よ、おれは日本がアメリカに負けたとは思っとらん。アメリカだけを相手にしていれば日本は負けなかった。日本は世界に負けたんじゃ。イギリスと、ソ連の参戦が余計だったんじゃ。イタリアとドイツが遠く離れた土地というのもまずかった。三国が近いところにあれば儂らは負けなかったんじゃ。桑山は酔うといつもその話をした。

「桑山さんも、あなたも、とても楽しそうでした。まだ政治家としては駆け出しだったのに、俺達が日本を作るんじゃ、と息巻いていらっしゃいましたね」

ヒカリはそう言って懐かしそうに目を細めた。

「私は桑山さんの秘書だったのです。毎日のように二人がお酒を飲んでああだこうだと話すのを聞かされましたわ。まるで子供のように純粋でした。あなたは新潟をこうしたい、桑山さんは岩手をああしたい、東京に負けないような場所にすると燃えていらっしゃいましたね」

村松は頭を掻いて恥ずかしそうに笑った。


儂もあいつも考えてることは同じだった。具体的には道路を作る、線路を作る、水を引く、電気を通す。そこから始めなければという思いがあった。儂は原発を新潟に置いたがあいつは嫌がった。東北には多くの原発があるが岩手にだけは無い。誘致すれば多額の金になっただろう。だがあいつは原発は好かんと言って作らせなかった。方法はどうあれ、新潟を、岩手を、そして日本をより良くしたいという思いは同じだった。インフラを整えると、県内の業者や住民は儂を仏のように崇めた。毎日陳情が絶えなかった。儂は毎日、議員会館や家に来る連中全員と話をした。それはやっておく、それはダメだ、それは話をしておく、という風にだ。ヤクザのような連中も沢山来た。儂は話を聞き、筋が通るように動かしてやった。少なくない金が儂の懐に転がり込んだ。特に気にしなかったがその時から儂は何かを見失っていたのかもしれん。ある日、飛行機メーカーの人間が来た。今度開発された飛行機の性能が良いので使ってもらえないだろうか、という話だった。当時儂は運輸大臣だった。成る程、確かに性能は良かった。燃費が良く、安全性に優れ、多くの人を乗せて飛ぶことができた。それまでの飛行機とは違う、という事が儂にも理解できた。しかし、何かが引っかかった。儂は桑山に相談した。すると、別の飛行機メーカーがもっと性能の良い飛行機を作っているという情報が入っていたようだった。儂は話をしにきた人間に少し待ってくれと言った。連中はすぐに引き下がった。程なくして、桑山が話があると言って来た。どうやらもっと性能の良い飛行機の計画は頓挫したらしい、今来ている話を受けたほうが良いという事だった。儂は早速、国内の航空会社に話を通してやった。すると、メーカーから目玉の飛び出るような額の献金があった。はめられたのかもしれん、とその時初めて思った。儂は桑山に会いに行った。桑山は何も言わなかった。何を聞いても目を閉じて黙っていた。あいつもはめられたのか、最初から全てを知っていたのかは最後まで教えてくれなかった。桑山はただ一言、幾らだった、と聞いてきた。五億だ、と言うと、そうか、と言ってまた黙り込んでしまった。何年か後、儂が官房長官、桑山が幹事長を務めていた時に事は露見した。運転手だとか、通訳だとか、事件を追っていた記者だとかが何人か消えた。


「えっ、消えたって、死んだって事ですか」

相田は思わず声を上げた。そんな映画みたいな事が本当に起きるのだろうか。

「ああ。誰が消したのかは大体わかるが、決して露見はしないだろうな。人が消えるのは、まあそうしょっちゅうある事でもないが、特段珍しい事でもない」

先生も、人を消したことがあるのですか。相田は聞かずにはいられなかった。真尋は少し相田を見たが、何も言わなかった。

「ふぉっふぉっ。相田君、こういう話を知っているかね。中国の三国時代の話だ。曹操率いる魏軍が劉備率いる蜀軍と対峙していた。勢力としては圧倒的な曹操の方がずいぶん手こずった。このまま攻めても実はないし、かと言って退けば笑いものだ。曹操は悩んだ。そんな時、鶏料理を食べていて、この状況はまるで鶏の骨をしゃぶるようなものだな、と感じた曹操は、『鶏肋、鶏肋』と一人つぶやいた。それを聞いた配下の楊修はその言葉の意味を考え、すぐさま全軍撤退の支度を始めたのだ。儂の側近にも楊修がいて、儂が呟いた一言の意味を考えた者がいるかもしれんな」

相田は話の内容よりも、真尋が初めに一度言っただけの相田の名前を村松が憶えていた事に驚かされた。

「すみません、お話の腰を折ってしまいました」と相田は頭を下げた。

「相田君、思ったことは口に出すべきだ。例えそれで恥をかくことになっても、そんなものは一時の恥にすぎん。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥とはよく言ったものだ。何気なく放った一言が真理を突くことも多い。畏れず、どんどん聞き給え。ちなみに、気を利かせた楊修は曹操の気に障り、首を斬られた。楊修も曹操に一言聞いていれば斬られずに済んだかもしれんな」と村松は笑い、うぉほん、と咳払いをして続きを話し始めた。


各国の政治家や実業家が逮捕されるニュースが毎日報じられた。日本でも国会の閉会を待って、まず桑山が逮捕された。桑山は儂をかばった。航空会社に働きかけたのは自分だと言い張ったんだ。桑山の他にも政治家や名士が次々に逮捕された。儂は逮捕目前だと言われ続けていたがとうとう逮捕されなかった。桑山はすぐに保釈されたが儂も桑山も次の選挙で落選したのはさっき駒形君が言った通りだ。マスコミのバッシングがひどく、どこへ行っても奴らの目があったがヒカリが頑張ってくれた。儂は病気で体調を崩していると一人で気丈に対応してくれた。儂は対応をヒカリに任せ、逃げるように新潟へ戻った。市内の自宅にもマスコミが張っていたので、儂は母のいる村へ帰った。あんた、何かえらい騒ぎ起こしたんじゃねえ、ここにも記者さんがたくさん来たよ、でも心配いらん、母ちゃんが守ってやるけん、あんたはゆっくり休んだらええ。儂はしばらく村に篭った。母は毎日、儂の好きなおぼろ汁を作ってくれた。あんた昔っからこれが好きじゃったねえ、偉いセンセイになって、いいもの沢山食べててもこれがいいのかねえ、と母は笑っていた。静次、お天道様に顔向けできんような事やったらいかんよ、お天道様はちゃあんと見とる、みんなの役に立つような、そういう人にならんといかんよ。

一からやり直しだった。ほとぼりも冷め、儂は次の選挙に備えて毎日県内を動き回った。道を歩き、話を聞き、飯を食った。疲れたらその辺に腰掛け、空を眺めた。車に乗り、電車に乗り、ただ新潟で過ごしていた。バッシングはまだ散発的に続いていたが、儂を望む声も多かった。村松さん、あんたがいなくなって困ることが増えたよ、年寄りは虐められ、大人は仕事を奪われ、子供は行き場を失った。あんたが戻ってきてくれないと、新潟はひどい所になっちまうよ。儂はよく泣いていた。住民の話を親身になって聞いていると、知らずに涙を流していたんだ。そうか、そうか、大変だったな、もう少しの辛抱だからな、儂が必ず戻ってきてお前達を助けてやるからな。国会でも求心力を失った与党は揺れていた。内閣の支持率は低く、解散の声は高まる一方だった。村松を国政に戻せという声が国会にも起きていた。次の選挙で儂は圧勝した。桑山は落選だった。儂は桑山に会いに行った。桑山は病に伏せていた。お前、なぜ自分一人で被ったんだ。俺の名前を出せばお前はまだ生き残れたはずだろうと、儂は桑山を問い詰めた。村松よ、俺はこの国を愛している。しかし、お前の言った通り、日本はアメリカの犬になってしまったようだ。靖国には俺の戦友が大勢眠っているのに、俺が参拝に行くとマスコミから叩かれるんだ。そんな話があるか。戦時中、まだ生まれていなかったような連中が書き立てるんだ。戦犯を祀る神社に参拝するとは何事だ、とさ。俺はガダルカナルで地獄を見たんだ。俺は小隊を指揮していた。部下は次々に死んでいった。それも敵の攻撃じゃあない。飢えたり、病気になって死ぬやつが殆どだった。今でもあいつらの声を思い出すよ。隊長、自分は何のために死ぬのですか。敵はどこにいるのですか、という声だ。大本営は何もしなかった。ただいたずらに兵をばら撒いて、若い命が大勢失われた。桜花や回天に乗り込み、目標に到達する事無く敵の的になったりして無為に人が死んでいった。俺はせめて、そいつらのために祈ってやりたいのにそれも許されない。なあ、村松、日本はこの先どうなるのだろう。戦争は間違いだったのか。欧米に虐げられたアジアを解放するという日本の目的は間違っていたのか。俺はわからなくなってしまった。日本はアメリカの思うままだし、チョンやチャンみたいな連中が日本の中枢に深く入り込んでいる。北方領土は盗まれたままだ。ソ連は絶対に返さないだろう。沖縄はようやく返還されたが沖縄自体元々本土とは距離があった上に基地が多く置かれている。この先沖縄は日米双方にとっての外交カードのような役割になるだろう。もう誰も死んでいった兵士の事など思い出さない。戦争は終わったんじゃない。みんなが戦争を忘れたんだ。俺の思う日本はもうない。こんな国は売り払ってしまえばいい。俺はあの時、少しだけ、そう思ったんだよ―。


桑山はそう言うと、疲れた、と言って寝てしまった。それが桑山と会った最後だった。数年後、桑山は死んだ。葬式はささやかなものだった。親族と、元側近が何人かいるだけだった。街宣右翼のような連中が「売国奴桑山、地獄へ落ちろ」等と騒いでいた。誰よりも日本を思っていた桑山がそうやって送られたんだ。儂はその時、少し変わったのかもしれん。日本を思うことと、日本人に支持されることはイコールではないのかもしれん、という思いが生まれた。狂騒のようなバブルの、まさに絶頂期だったが財界は遠からずこの狂騒に終止符が打たれる事をわかっていた。日本の成長はあそこで止まって、今も大して変わらない水準にある。将来、日本は少子高齢化になり格差は広がるだろう。しかしインフラはどんどん便利になり、平均生活水準は上がり続ける。年金制度は維持できない。税収が圧倒的に足りなかった。新しい税金を投入しなければ日本は二十二世紀を迎えられないと思った。儂は当時の総理大臣に働きかけた。消費税の導入だ。国民の反発は免れなかった。導入すれば衆議院は解散、内閣は総辞職せざるを得ないだろう。しかし、誰かがやらなければならなかった。総理は渋った。経済の再建に力を注いで、税収を上げるのでは間に合わないか、と。バブルのツケは莫大なものになる。崩壊は止められない。儂は迫った。このままでは日本はブラジルの二の舞です。その一言で総理は動いた。消費税の導入計画を発表すると、内閣の支持率は暴落した。野党は総じて絶対反対を表明した。執行部は頭を抱えた。強行か、撤退か。儂は一喝した。国を思えばこその決断であると。日本をスラムにしてはならない。国民に恨まれようと、強行すべきだと言った。国会は停滞した。毎日消費税についての審議があったが、野党は儂のスキャンダルをネタに審議を進めようとしなかった。程なくして、機能しなくなった衆議院は解散した。総選挙で与党は辛うじて過半数を獲得したが消費税についてはテレビでも週刊誌でも喧々諤々が続いていた。そんな中、総理が次期総理に儂を指名した。儂の最後の大仕事だと思った。村松内閣は誕生から火だるまだった。新潟の母からも電話があった。静次、消費税っていうのは、本当に必要なものなのかのう、家にもたくさん嫌がらせが来るよ、わしは平気じゃけど、お前が心配なんよ。大丈夫じゃ、母ちゃん、これも日本のためなんじゃ。これができれば、俺の政治家としての仕事は終わりじゃ。俺はこれをやるために政治家になったのかもしれん。いつか、多分遠い未来の話になると思うけど、誰かが村松静次によって日本は救われた、そう言ってくれると俺は信じてるんじゃ。

消費税法が国会を通り、衆議院は解散した。与党は割れたが野党も一枚岩ではなかった。議席が散らばり、与党は連立を組んでまたも辛うじて過半数を獲得した。儂は総理を降り、幾つか閑職のような大臣を務めた。駒形君に会ったのもその頃だったな。あの頃は愉しかったよ。儂は表舞台に出ること無く、国民の暮らしを見つめた。消費税の件で儂を詰る者も多かったが、大体の人達は儂に好意的だった。儂はみんなに言った。みんなで頑張ろう、日本は戦争から立ち直った強い国なんだ。みんなが笑って暮らせる、いい国にみんなでしよう。

母が亡くなったのはその頃だった。母は病院を嫌がった。儂が建てた、地元の村の家で静かに最期を迎えようとしていた。兄弟全員で最期を看取った。みんないい子に育ったねえ。母ちゃんは幸せじゃったよ。みんなのおかげで何一つ不自由のない暮らしができた。父ちゃんは今頃悔しがってるかもしれんね。母はそう笑っていた。兄弟はみんな泣いていた。不思議なものだ。人は産まれてくる時には泣いていて、周りは笑っている。死ぬ時には笑っていて、周りは泣いている。それが人間なんだ。儂は村に墓を建てた。母の言いつけで、華美なところのない、質素な墓にした。儂もその墓に入るつもりだ。この家も儂が死んだら処分する。国に委ねて、綺麗に手入れをさせ、人々が安らげる場所にしたい。その気になれば手に入らないものを探す方が難しいくらいの金と力を手に入れたが、使い道を知らんものでな。兄弟達は死んだか、県外に出た。村松水産は信頼できる外部の者に任せてある。子供らは政治家でない別の道を歩んでいった。ヒカリは忍を連れて故郷の岩手へ帰り、福祉施設をやるそうだ。何一つ、心配もやり残したこともない。儂が為すべきは、新潟に帰ることだけになったわけだ。


しばらく静寂があった。真尋はじっと何かを考えている。ヒカリも、山岸も、村松も、誰も言葉を発しなかった。微かに水の音。遠く、子供の騒ぐ声が聞こえた。

「これで儂の話は終わりだ。話してみると九十余年の人生もあっという間だな」

村松はお茶を一口啜り、一息をついた。

「もちろん、お話に出てこなかった事もたくさんあると思います。思い出さなかった事、思い出せなかった事、思い出したくなかった事、それを語るかどうかは経験上、歌詠みにはあまり影響はありません」

そういうものか、と村松は呟いた。

「なあ、真尋君、一つ尋ねたい。これまで誰にも聞いてこなかった事だ。おそらく人間なら誰しもが抱く疑問であるとも思う。総理大臣でも、ホームレスでもな。そして、これを誰かに尋ねるのはおそらくただの甘えだと思う。何の意味もない。だが敢えて尋ねたい」

何でしょうか、と真尋は村松の目をじっと見て言った。

「儂の、私のやった事は、私の人生は、果たして正しかったのだろうか」

村松はゆっくりと、しかしはっきりとそう言った。

総理大臣を務めた人でも、そういう思いを抱えるんだな、と相田は思った。

「昔から、自分の事は自分で決めてきた。誰かの助言を聞くこともあれば聞かないこともあった。いずれにせよ、決めるのは自分だった。その選択が、正しかったのか間違っていたのかを決めるのは自分だと思っていた。決めるというのは、これが正しいんだ、と思い込むことでも、後からああ、正しかったんだなと振り返ることでもない。自分で努力して、結果を出して正解にするんだ。例え遠回りの道でも、結果を出し続けてきたからこそ私は総理大臣にまで上り詰めた。どんな選択にも反対の声、非難の声はあったが、賛成の声、称賛の声の方が常に多かった。収賄の件を除けばな。一つの大きな目標があって、それを達成できればやり方は色々あるのだと思う。大事なのは、出来るだけの事をすることだ。誰かをないがしろにしなければならない時、私はいつも頭を下げに行った。例え百人中九十九人が私に付いてきたとしても、私は残りの一人の事を想った。しなくてもいい事だったのかもしれん。だが、私には常に一つの想いがあった。出来るだけの事をやろう。私は、それだけを考えていたんだ。こんな事はヒカリにも、誰にも話したことはない。話して、否定されるのが怖かったからだ」

「否定などいたしません。私は、あなたがたくさんの事を抱えて苦しんでいるのをずっと見てきました。あなたはいつも、ご自分一人でお決めになってきました。私にはいつも、大丈夫だ、心配するなと笑ってくださいましたが私は寂しかった。もっと甘えてくださればいいのに。私はいつもそう思っていました」

ヒカリの目から涙が流れていた。山岸がその肩に手をかける。

「政治家は弱みを見せてはいけない。国民は弱い政治家など求めてはおらんのだ。強力なリーダーシップ、実行力、たゆまぬ姿勢、そういったものを心に持っていなければ政治家は務まらんのだ。だが、死を目前にした今、実は自分は間違っていたのではないかという想いを一人で抱えたまま死ぬのはいささか心残りだ。自分で決めるのは容易い。だが、最後に一回でもいい、誰かの言葉を聞いてみたくなってな」

真尋は目を伏せ、少し考えた後、答えた。

「村松さん、あなたは常に誰かのために生きてきたと思います。母親のため、家族のため、新潟県民のため、日本国民のため。その動機は何だと思いますか」

「決まっておる。母親に楽をさせたい、新潟を発展させたい、日本をより良い国にしたい、その想いがあればこそ」

「違います。あなたは、自分のためにそうした。誰かが喜んでくれることで幸せや達成感を感じるという点において、あなたは自分の幸せのために人に尽くしたのです。そして、あなたがやってきた事によってお母様も、新潟県民も、日本国民も色々なものを手にすることができた。感謝の声はあなた自身が聞いてきたはずです。それが答えでいいと、私は思います」

「私は沢山の失敗を犯した。なんとか結果には繋がったが、他人に後始末をさせた事も多い。あの時ああしていれば良かった、と口には出さなかったが常にその想いは私の中にあったのだ」

「失敗をしない人間などいません。突き詰めればどこまでがその人の失敗なのかを定義することは不可能です」

「或いはその結果を止められなかった周りの失敗、というわけか」

そういう事です、と真尋は茶を啜った。

御主人様、と山岸が口を開いた。

「差し出がましい事かもしれませんが、私は御主人様が間違った事をしたと思ったことは一度もございません。二十歳でお側に就かせていただいて以来、四十数年になりますが、御主人様の代わりに数えきれない程の感謝の声、喜びの声を聞いて参りました。非難の声がなかったわけではありません。ですが、何かを得るというのは何かを失う事だと私は思います。御主人様の選択は、常に正しかったと、私は思っています」


村松は暫く目を閉じて俯いていた。

そして、目を閉じたまま、少しだけ笑った。

「私は間違っていなかった。そう思って、あの世に行くとしよう。駒形君、最後に余計な話をしてしまったな。忘れてくれ。私の話はこれで終わりだ。辞世の句は詠めそうかね」

申し分ありません。それでは、明日、歌を持ってお伺いいたします。と真尋は立ち上がった。

「一日でいいのか。もう少し時間を掛けてくれてもいいのだぞ。とは言っても儂もそう長くはないが」

いえ、大丈夫です。言葉は、既に生まれました。どことなく、真尋の様子がおかしい。目がどこを見ているかわからない。それでは、と真尋が部屋を後にする。相田も慌てて立ち上がり、失礼します、と部屋を出た。


「真尋さん、大丈夫ですか。目つきが少し変ですよ」

廊下を歩きながら話しかける。足元もどことなくおぼつかない。

「大丈夫だよ。大体いつもこうなるんだ。相田君、家まで頼むよ」

山岸に見送られ、車で村松邸を出る。時刻は十九時を過ぎていた。真尋は何かぶつぶつと呟いたり、ぽかんと口を開けて虚空を見つめたり、目を閉じて唸ったりしている。

鴉堂へ戻り、真尋を降ろすと葵が迎えに出てきた。

「相田君、ご苦労様。今日はもういいわよ。明日の十時、村松さんちに行くから、九時過ぎくらいに来て。また運転よろしくね」

あの、真尋さんの様子がなんか変ですよ、と言うと、いいの、いつもこうなるの、と葵は答えた。真尋は座椅子に座り、また何かぶつぶつと呟いたり目を閉じたりしている。

じゃあ明日、と言って相田は鴉堂を後にした。

相田は歩きながら今日の事を思い返した。真尋との出会い、辞世の句、村松元総理。昨日までの自分とは何かが変わったような気がした。


「おかえり、剣介、ごはん食べるの?」

家に入ると、母親が声をかけてきた。そう言えば何も食べていなかったな。

「母さん、おぼろ汁って、どんな料理?」相田はふと、母親に聞いてみた。

「おぼろ汁?確か、お豆腐を煮込んだみたいなやつだったと思うけど・・・それがどうしたの?」

「それ、作れる?食べてみたい」

「えー。何それ。いきなりどうしたの」

「うん、ちょっと話に聞いたもんで。どんな料理なんだろうって思って」

「いいよ。やってみる。ちょっと待っててね。お豆腐買ってこなきゃ」母は笑ってそう言った。どことなく、嬉しそうだった。

父親が居間のソファで新聞を読んでいる。ただいま、と声を掛けると、新聞を眺めたまま、おかえり、と言った。

「父さん、おぼろ汁って知ってる?」

「確か、新潟の郷土料理だったかな。おぼろ豆腐をとろみを付けた出汁で煮込んだものだ。出張の時に食べたことがあるよ。素朴でうまかったな」

「話は変わるけど、村松総理ってどんな人だったの?」

「なんだ、剣介、新潟にでも行くのか?」

「いや、そういうんじゃないけど」

「シンプルな人だったんじゃないかな。偉ぶったところのない政治家だった。その分活動的で、何をするかわからない怖さもあったな。収賄疑惑があったし、消費税を導入したのもあの人だから叩く人も多いが、俺は結構好きだったな」

「いい人?悪い人?」

「政治家にいい人も悪い人もないぞ。いい事もするし、悪い事もする。それが政治家なんだ」

そういうものか、と相田は思った。


次の日、鴉堂へ行くと、真尋が机に突っ伏したまま寝ていた。そばに筒のようなものが転がっている。

「真尋さん、朝ですよ。村松さんちに行きますよ」相田は真尋の肩を揺すった。

ウーとかアーとか言いながら真尋は起きた。無精髭が伸び、髪も寝癖でひどい顔だ。

「そんな顔じゃ村松さんちに行けませんよ。ちょっと、葵さんはどこ行ったんだ、もう」

「案ずるな、相田君。僕は五分で支度ができるのだ。君は車を取ってきたまえ」目をこすりながら、しかしはっきりとした口調で真尋は言った。

駐車場に向かい、車で鴉堂へ戻ると、髭を剃り、髪を整えた真尋が煙草をふかしていた。昨日の帰りのような、おかしな様子はない。

「できたんですか。歌」と相田は聞いた。

「できた。できたから寝た。あまり憶えてないが、ここに筒がある。中に歌が入っている。しかし腹が減ったな。途中で肉まんでも買っていこうじゃないか」

コンビニに寄り、肉まんを買って食べながら村松邸へ向かう。

「いつもああなるんですか。歌を詠む時」

「ん、ああ、そうだな。集中するとああなる。霧がかかるんだ」

「霧ですか」

「全体に霧がかかるんだ。一部が晴れて見えたり、また隠れたりする。まあ大体一晩で霧は晴れる」

「それって、真尋さん自身の努力なんですか。それとも、閃きのようなものなんですかね」

「さあな。僕にもよくわからない。僕はただ、集中してその霧をじっと見つめているだけだからね。兎に角、霧は全て晴れる。僕はそれを書く。そこまでが僕の作業だ」


「どうだね。駒形君。いい歌ができたかな」

村松は昨日と同じく、布団に入ったまま座していた。

「ここに。書にしてあります。御覧ください」

真尋は持ってきた筒を村松に渡した。卒業証書を入れるような筒だ。村松はそれを開け、中から一枚の紙を取り出し、それを読んだ。村松はしばらくそれを見つめていた。ヒカリも、山岸も、心配そうに村松を見ている。真尋は目を閉じ、悠然としていた。やがて、村松も目を閉じ、微笑んだ。

「見事だ。流石だな」

「お気に召しましたか」

「うむ。これ以上ない歌だ。儂の辞世に相応しい。儂の心をよく読んだな」

「あなたのやってきた事と、作り上げたもの、そして、昨日の話で見えました」

あなた、私にも見せてくださる、とヒカリが書を覗き込んだ。

「まあ。綺麗な歌。美しいわね。あなたに頼んで良かったわ。ありがとう、駒形さん」

山岸も、私も宜しいでしょうか、と覗き込む。まあ、と笑顔が広がった。

「無駄に勿体つけたところのない、素朴な歌だな。情景が目に浮かぶようだ。儂の生まれた村が」村松は安心したように笑っていた。

それでは、と真尋は立ち上がった。

「これにて失礼いたします。ご健勝を」

「もう行くのか」村松は少し残念そうに言った。

「また来てくれんか。他愛もない話でもしようじゃないか。老い先短い老人に付き合ってくれ」

そうですね、近いうちに。真尋は振り返らず、そう村松に告げた。

「ちょっとお待ちになって」

ヒカリが真尋を呼び止めた。何か巾着のようなものを手渡そうとしている。小声で何か囁きあっていたが、真尋はそれを受け取らなかった。


「どういう歌だったんですか」

帰りの道すがら、相田は尋ねた。道は混んでいる。真尋は煙草をふかしながら窓の外を眺めていた。

「ああ、家に同じものが置いてあるからそれを見るといい。君には響かないかもしれんがね。僕は依頼人だけを見て歌を詠むんだ。万人に響くものではないんだよ」

「ヒカリさんが何か渡そうとしてましたけど、何だったんですか」

「報酬だよ。幾らかは知らない。僕は直接受け取らないことにしているんだ。面倒くさいので全て葵に任せてある」

「また行くんですか。村松さんに会いに」

真尋は少し険しい顔で答えた。

「僕は歌を詠んだら依頼人には二度と会わない」


「おかえり、うまくいった?」

鴉堂で葵が出迎えた。真尋は、ああ、と素っ気なく答え、部屋に入ると座椅子に腰掛けて煙草に火を付けた。

「ヒカリさんから電話があったよ。本当にありがとうございましたって」

そうか、と真尋は呟いた。もう村松に対する興味はすっかり消えてしまったようだ。

「相田君、悪いんだけどもう一回村松さんのところに行ってくれない?今度は私と一緒に」

はあ、と相田は間の抜けた返事をした。

「それでは僕は温泉にでも行ってこよう。変な格好で寝てしまったから体が痛い」

真尋は煙草を揉み消すと、下駄を履いて外へ出ていってしまった。

「近くに温泉があるの。あ、相田君はこの辺の育ちだから知ってるわね」

よく知っていた。相田も何度か行ったことがある。黒い湯の出る温泉。

「真尋さん、今度ご一緒させてください」

遠ざかる背中に向けて言った。真尋は振り向かずに右手を上げ、ひらひらと振った。


葵を乗せて、山手通りを走る。車内は葵の匂いが微かに香っている。

「どうだった?初めての仕事は」

葵は前を見たまま、そう聞いた。

「仕事と言っても、僕はただそこにいただけでした。真尋さんと、村松さんが話すのをただ聞いていただけです」

「面白かった?」

「面白い、という言葉が適切かわからないですけど、今までに感じたことがないような気持ちになりました」

「変わってるでしょう。真尋は」

「そうですね。あんな人は見たことがないです」

「真尋の事は聞いた?左腕の事とか、出生の事とか」

「軽く、さわりだけ。腕は焼いて食ったって言ってましたけど、本当なんですか」

ああ、今回はそうしたのね、と葵は言った。

「腕の事を聞かれるたびに出鱈目言ってるのよ。本当のところはあたしも知らないの。パパにも聞くんだけど、鴉に持っていかれちまった、とか、こっちも出鱈目ばっかり」

「パパ。なんかパパって言うとイメージ狂いますね」

「神主だからね。でもあたしはずっとパパって呼んでる。真尋は親父殿って呼ぶけど」

「捨て子だったっていうのも、出鱈目ですか?」

「それは本当」

「葵さんと真尋さんは幾つ違うんですか」

「同い年よ。生まれてすぐの時からずっと一緒。今は一緒に住んでないけどね」

中目黒に差し掛かった。この辺りは往々にして渋滞している。

「真尋さんはあの鴉堂に住んでるんですか」

「そうよ。あたしが住んでる実家も近くにある」

「あ、神社。そっか、高村神社だ」

相田も何度かお参りしたことがあった。あの神社に、こんな人達が住んでいたんだ。

「何回かお参りしたことがあります」

「そう。ご近所さんだもんね」

「葵さんは、いつから真尋さんを手伝ってるんですか」

「大学出てから。もう八年になるわね。最初はあいつ一人でやってたんだけど、報酬もまともに取らないし、全然商売する気なくって。あたしが、商売にしてあげたの」

「変わった仕事ですよね」

「変わってる。こんな仕事、他にないわ。あいつがこの商売を始めるって言った時、そんなの商売になるわけないって、あたしも、パパも、ママも言った。でもあいつは始めた。神社だから、最初は氏子さんに軽く聞いてみるだけだった。よかったら、辞世の句を作ってみませんかって。最初にあいつが歌を詠んだ時の事、よく憶えてる。あいつは、いつも通り、サラッと詠んだように見えた。でもあたしは知ってる。初めての依頼人に歌を見せる時、あいつは震えてた。あいつが、余裕のない態度を見せたのは、それが初めてだった。で、今のところそれが最後」

村松邸が近くなってきた。三度目の訪問になる。

「相田君、一つ言っておかなきゃいけない事があるの」

「なんすか」

「今あたしがやってる仕事、全部君ができるようになって欲しいの」

「それはいいですけど、葵さんは辞めちゃうんですか」

「うーん、そうね。あたしはあんまり長く続けられないと思う」

「何か、他にやりたい事があるとか」

「ううん、そうじゃないんだけど・・・婚約者がいるの」

「え。ええー。ああ、はあ、まあ、なんと」ショックだった。まあそうか、葵さん綺麗だもんなあ、と相田は思った。

「今は遠くにいるんだけど、その人に呼ばれたら、行かなきゃいけない。それまでに君に全部教えなきゃ」

「わかりましたよ。ご指導宜しくお願いします」

村松邸に着いた。インターホンを押すと、何も言わずに門が開いた。

「度々すみません。鴉堂の駒形葵です」

出迎えた山岸に葵が告げた。程なくして、ヒカリも出てきた。

「あなたが葵さん。電話では話したけどお会いするのは初めてね」

「初めまして。恐縮ですが報酬を受け取りに参りました」

ちょっと待っててね。忍さん、応接にお通しして差し上げて。

玄関そばの和室に通された。村松の寝室より広く、高価そうな壺や掛け軸が飾ってある。

「すみません、本日は村松の具合があまり良くなく、ご挨拶はご容赦願います」

山岸は深々と頭を下げた。

「いえ、受け取ったらすぐに帰りますので、お構いなく」

ヒカリが入ってきた。手にはあの巾着を持っている。

「はい。こちら、お受け取りください」

「ありがとうございます。確かに。領収書お出ししますか?」

ヒカリは、ふふふ、と笑った。

「なんだか奇妙ね。辞世の句に領収書なんて。結構よ」

「すみません。あいつは、真尋は情緒で仕事しますが、私の担当はビジネスです。興を削がれましたら申し訳ございません」

「いいのよ。あの子、真尋君ね。不思議な子。風に吹かれる葉っぱみたいにふわふわ、ひらひらしてる。あなたみたいなしっかり者がついていないとダメね」

歌を詠む以外、何もできないんですよ、と葵は苦笑した。

「いい歌を詠んでもらったわ。主人も満足してた。私も死ぬ時はお願いしようかしら」ヒカリは笑ってそう言った。

「その時は、ぜひご用命を」

それでは、と葵が立ち上がった。相田も慌てて後を追う。

「あ、あの、失礼します」

「相田君、頑張ってね」と、ヒカリが手を振って見送った。


「今回は、幾らだったんですか。報酬」

帰りの車の中で相田は葵に聞いた。

「三百万」

あやうくハンドル操作を誤りそうになった。

「あれで、三百万ですか」

「そう。かなり多い方ね。あいつが金に無頓着なの、理解できるでしょう」

「人件費を引いてもべらぼうな利益率ですね」

「少ない時ももちろんあるのよ。あいつは全然構わないみたいだけど。きっとタダでも受けるわね。それでもいいの。例えばヒカリさんが、あるいは村松さんが、誰かに鴉堂の事を喋る。その誰かが、頼んでみようかな、って思う。そういうケースも何回もあったわ。そうやって、あの家も、あの土地も、あいつが自分で買ったのよ。買ったって言っても、『なあ、葵、こういう家を建てたい。金はある。頼んだ』ってあたしに言ってきただけだけどさ。墨とか筆とか紙とかはあいつが時々どこかへ行って買ってくる。何百円っていう時もあるし、何十万円って時もある。ただの筆が何十万よ。何考えてるんだかわかんないけど、あいつの好きなようにやらせてる。今のところ利益は充分出てるし、それに溜め込んでても税金で持って行かれちゃうしね。鴉堂は宗教法人じゃないから。適度に使ってくれたほうがいいわ」

「葵さんって、経理っていうか、そういう難しい税金計算とかもやってたんですか」

「ううん、細かい事はパパの知り合いの税理士に頼んでるわ。そんな事までやるのかって、びっくりした?」

「はい、ぶっちゃけ。僕、一応経営学部なんで全くわからないって程でもないんですけど、いかんせん実践経験ないですからね」

「相田君は、大学を出たらどうするの?」

「今のところ、実家の鞄屋を継ぐつもりでいます。親父はまだまだ若いんで、五代目、あ、うちって一応明治からやってるんですよ。親父が四代目で、たぶん僕が五代目になると思うんですけど、まずは見習いからですね」

「そっかあ。うちに長くいても来年の春までになるのね」

「あ、いや、言った通り親父は現役バリバリなんで、まあ、修行するなら早い方がいいとは思うんですけど、何年か他の世界見てきてもいいぞって親父も言ってるんです。だから、大学を出てもすぐに鞄屋になるかどうかはまだわかりません」

「そうしてくれると助かるわ。ほら、あたしはいつまでいられるかわかんないし、あの辺で募集出してもなかなかいい人来ないのよ。真尋はあんな感じで一人じゃ危なっかしいし、誰かがいてくれないと色々困るのよね」

「僕なんかでいいんですかね。今のところ、何かの役に立った覚えはないんですけど」

「相田君はそれでいいの。何でも素直に聞いて、言われたことをやる。少しは物を知ってて、最低限の会話ができる。真尋にはそういう人が合ってるわ」


鴉堂に着いた。真尋は風呂から戻っている。縁側に座って、煙草をふかしていた。

「ただいま、戻りました」

「おかえり。葵、相田君に写しを見せてやってくれ」

葵は部屋の棚からクリアファイルを取り出し、広げた。

「僕は同じものを二つ書く。うまく書けた方を依頼人に渡す。もう一枚はこうしてとってあるんだ。見返すことは殆ど無いがね」

ぱらぱらとページが送られる。一番新しいページに、その歌が収まっていた。



消え光り 華美な草葉よ 不請なり 

郷の川辺に 唯一輪の花

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