第一章 出逢い

第1話 予感

 俺は夏が嫌いだった。特別嫌な思い出があるわけではない。ただ単に、汗をかくのが嫌いなのだ。ベタベタとまとわりつく汗は、一定量を越えれば悪臭になる。それは自分にも周囲の人間にとっても、悪影響でしかないのだ。だから、俺は夏の間は活動量を減らす努力をする。なるべく動かず、日に当たらない生活を心がける。今日も今日とて、俺は活動をしない活動に勤しんでいた。


「…蒼井あおいくん。蒼井ハルトくん!」


クーラーの風が直に当たる机に突っ伏して寝ていた俺に誰かが声をかけてくる。寝ぼけながらも、声のする方にゆっくりと顔を向けると、そこには石川アキト教授が居た。


「またここで寝ていたんだね。研究室は寝るところじゃないといつも言っているじゃないか。」

「あぁ…。はい。すいません」

「はぁ、君はその生活態度以外は完璧なんだけどな」


俺は現在大学二年生で、本来ならば三年から研究室への所属が義務付けられるのだが、とある事情からこの石川研にすでに所属をしている。石川研では主に機械学習についての研究を行なっている。石川先生は35歳という若さで教授としてのキャリアを始めることができた所謂秀才だ。数的なセンスは抜群に鋭く、彼が博士論文で纏めた自律ロボットの行動選択の最適化手法は大学の内外を問わず注目された。そんな将来有望な先生のもとで研究を行えることは、もちろん誇りに思う。しかし、それとこの暑さはまた別問題だ。


「それより、今朝お願いした例のシミュレータは動いたかい?」

「あぁ…。はい。動きました」

「本当かい?それは助かるよ。サーバにアップしてくれているかい?」

「あぁ…。元々そのファイルが置いてあった場所から一個上にずらしてます。パスがさしていた場所とファイルのアドレスが違っていたのが動かなかった原因です」

「そうか、そんな単純なミスだったんだね。このファイルの管理は佐藤くんに任せていたんだけどなぁ…」


その後も先生はディスプレイに向かって独り言を言っていた。先生は集中し始めると、いつもこうなるのだ。


「じゃぁ、俺帰りますんで。明日は一限があるんで、進捗会には出ませんから」


先生はまるで聞いていない様子であった。まぁいいかと思い俺は研究室を後にする。


 時間は17時を過ぎたくらいで、まだ太陽は落ちきっていなかった。それどころか見事な夕日となってその忌々しい光を浴びせてきている。


「もう少し時間が経ってから出てくるべきだったなぁ。夜風に当たって優雅に帰るという選択肢を考えて置くべきだった」


そんな小言を言いながらトボトボと帰路に就き、最も人気ひとけが無くなる細い道に入ったところで、背後に気配を感じ振り返る。


振り向いた先には、薄青いワンピースに麦わら帽子をかぶった綺麗な女の子が立っていた。俺が振り向いたことによって彼女も動きを止め、一瞬だけ驚いたような表情をした。ニ秒ほどの硬直の後に、彼女は一気に俺との距離を詰めてきた。


「アオイ先輩、みーつけた」


彼女は無邪気に笑い、そう言った。


彼女からはどこか懐かしい春の香りがした。

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