#045 ギルとネレイデスの死闘

 ネレイデスを一撃で仕留めることはできなかった。

 <黒迅>の瞬間移動能力で瞬時に距離を詰め、容赦なく刃を振り切ったギルだったけど切り裂いたそれがいきなり、形を失って水に変わってしまったのだ。

「どういうこった!?」

 ネレイデスが腰かけていた、海から突き出た岩の上でギルはすぐ周囲を見渡す。<黒迅>のせいで置き去りにされた明かりのファイアボールを近くへ戻して周りを照らすけれどそれらしい姿は僕の目にも見えない。

 そして、まだ、歌声が聞こえる。

 先ほどよりもはっきりと、耳に届いてくる。その音色がどうしてか、やっぱり胸を締めつけてきて気が遠退きそうになるのを自覚して頭を振る。

「ねえギル、もしかして音ではめるって、かなりヤバい方だったりしない!?」

「あーあ、やべえぜ? 何せ、耳は目と違って両手を使わねえと塞げやしねえ! 仮に耳ィ塞いだって完全に遮断できるようなもんでもねえ!」

「だよね、だよね、今そう思ってる、痛感してる!」

 意識を持っていかれないように意図的に大きな声を出して会話をする。

 これはかなり、厄介だ。ギルが言ったように耳を塞ぐには両手を使わざるをえないし、それでも音というのは届いてしまう。両手を塞いだら武器を持てない。完全に音が届かないようにしたら、きっとそれに手いっぱいで何もできなくなる。

 会話しながら頭を回すというのもなかなか難しい。焦る一方だ。

「どうして切ったのに、水になっちゃったの!? 分かる!?」

「分かんねえよ! お蔭で手詰まりだ!」

「って、波!」

 周りを探しながら首を後ろへ巡らせたら大きな波が打ちつけてきていた。高波を被った拍子にギルにしがみついていた手が外れ、波に引きずり込まれるように足も外れて海に落ちた。その拍子に岩へぶつかり、痛みとともに上下左右がぐちゃぐちゃに揺れてどこがどうだか分からなくなる。

 腕をばたつかせ、鋭くて硬くて大きなもので切った。岩――の尖ったところだろうか。あるいはふじつぼみたいな何かか。鼻から海水を飲んで、鼻の奥がつんと痛みながら息を吐き出す。

 暗い、冷たい、激しい海へ落ちる。洗濯機の中に放り込まれたみたいに、方向感覚の一切が分からなくなる。

 そして、いまだに、歌声が聞こえる。

 溺れる――息が続かない。歌声が聞こえる。

 もがいても、あがいても、何も変わらずに歌声だけが海の中だというのに鮮明に聞こえる。

「おいで。おいで。怖くないから。

 こっちにおいでなさい」

 どこからか僕を呼ぶ声がして、闇の中に綺麗な女性がいるのが見えた。

 苦しくて、もがくように腕を伸ばす。女性が優雅に、穏やかに、慈しむような笑みを浮かべて僕の手を取る。掴んできた手の冷たさに微かに違和感が働く。

 海の中だ、冷えてしまって冷たい手というのは理解できる。

 だけど、それならどうしてこの人の声がしっかりと聞こえたというのか。

『妙だと思えばすぐ、こいつは夢幻ゆめまぼろしに違いがねえと決めつけて、ついでに気合い入れれば済む』

 そうだ。これはネレイデスの見せる幻覚だ。

 でも本当に綺麗な美人のお姉さんにしか見えない。海の美しい青色だけを配色したような長いウェーブのかかった髪が揺れ、目なんてお化粧とは思えない自然さで大きくはっきりとしている。長い睫毛に見とれそうになる。

 いや、これは幻。

 そう、きっと幻なんだけど、グイと強く引っ張られるなりネレイデスの豊満な——下着さえつけない大きな胸の中に抱き込まれる。

「良い子。良い子ね。

 さあ、眠りましょうね、疲れたでしょう?」

 ネレイデスに抱き込まれ、頭を撫でられるとそれまでの痛みも苦しみも不思議に抜けて楽になってくる。

 頭が回らなくなる。体がとろけていくような心地がする。

 疲れた――確かに、疲れちゃった。

 ぐっすりとここで眠れたら疲れは取れるのかな。少し休むくらいなら、いいかな。


 ▽


「今日こそは貴様に正義の鉄槌を下してやるぞ、ギルバート!」

「おう?」

 懐かしい顔が目の前でがなっている。

 赤髪に三白眼で、チビで、だが尊大な性格がありありと態度に出るようにふんぞり返った魔導士――サルヴァス。

 気づけば俺の体もガキのころのものになっている。腰の<黒迅>が重い。俺よか、5つか6つか上の癖をして、俺とほぼ変わらねえ背丈ってえのはどういうことか。

「三日三晩の徹夜で理論を構築して編み上げた、このサルヴァス様の最新にして至高の魔術を! 今、その身で受けて後悔するが良——」

 うるせえから<黒迅>を抜いて叩きつけてやる。

 サルヴァスの最新の魔術とやらは日の目を見ることもなく終わった。

 これで一体、何連勝だったか。

 妙に思い出せず考え込んでいたら、ふと、魔導士連中が俺を遠巻きにしてひそひそと囁き合っているのに気がつく。見知った顔も、見知らぬ顔も、俺を邪見にしているのを知っている。


「どうしてあんな異端児をいつまでも置いているのか……」

「あの年で魔術は一切使えないというのだから本物の欠陥だ」

「気味の悪い子……」


 ひそひそと、ひそひそと。

 隠すつもりのない陰口を囁き合い、どこかへ消えろと連中は言葉を変えて繰り返し続ける。

 聞こえないふりをしながら歩く。それでも俺の影を踏み追いかけるようにして、いつまでも連中の言葉はずっと聞こえてくる。


「ギルバート! 先刻はよくもやってくれたな!」

 またサルヴァスが俺の前で尊大な態度で立ちはだかる。

 どうしてこう、こいつは俺にやたらめったら突っかかってくるものやら。

「今度こそ貴様をぎゃふんと言わせてやる! ふ、ふっふふふ……今度はすごいぞ。強制的にオドをかき乱し、暴走させ、いかなる人間も嘔吐感に襲われる魔術だ! ゲロにまみれて寝落ちするがいい!」

「——サルヴァス、やめなさい。寝ゲロなんて後片付けが大変だろう」

 <黒迅>を抜きかけたら、その手を上から被せるように止められた。横にメルヴィルがいた。

 たしなめられるような言葉をかけられたサルヴァスも、メルヴィルには標準装備の尊大さを発揮できなかったようで怯んだように苦い顔をして固まる。

「しかし、お爺様……ギルバートの態度は目に余りますし……先日も、イギーの研究所を荒らしたとか……」

「イギーくんの研究所ね、片づけを手伝っていたら不正が色々と発覚をしてね。どうやら禁忌の研究をしていたようだ。あれがあのまま実用化まで漕ぎつけられていたら大変なことになっていた。だからその件についてギルの行動は不問となったのだよ」

「そ、そうなのですか……?」

「さあ、ほら、サルヴァス。ギルと遊んでやるのは構わないが、寝ゲロだなんてことをさせないことで遊びなさい」

「いいえ、わたしは魔導士です。魔術の素養を欠片ほども持たぬ人間と関わる時間など――」

「それでもきみとギルは従兄弟じゃないか。このじじいに、孫同士が遊んでいるところを見せておくれ。ささやかな願いじゃないか。いいだろう?」

「ですが……そ、そうだ、研究しなければならないことがあるんです。失礼!」

 マントを翻して逃げ帰るようにサルヴァスは走っていく。

 苦そうにメルヴィルは息を漏らしてから、俺の手をぎゅっと握って膝を折ってしゃがむ。

「ギル、お爺ちゃんと遊ぶかい?」

 あんた、けっこうな年寄りだったんだな。

 皮膚もたるんで、白髪ばかりの頭も意外とすかすかで。

「いや……もうそんな年じゃねえよ」

「どういうことだい?」

「趣味の悪いもんを見せやがって。てめえはとっくにおっんでるだろうよ」

 こいつは全部、ネレイデスの見せる幻だ。

 目を閉じて、こんな大昔の夢なんかを見せられた自分への苛立ちのまま、てめえでてめえの頬へビンタを食らわせる。


 ▽


「よう、エルなんぞ食ったってまずいぜ? ほとんど骨ばっかで食うとこなんざねえだろうからよ」

 感覚が戻る。

 皮膚がきゅっと締まるような冷たい雨風を浴び、足元を掬うかのような猛烈な波に持っていかれないよう下肢に力を込める。

 ネレイデスは気色悪い見た目だった。この手の魔物にゃよくある話だ。幻で見た姿はそりゃもう絶世の美男美女だが、本物はでろでろぐでぐでとした、触手つきの怪物そのもの。

 海に落ちてはぐれたはずのエルがその触手で持ち上げられ、逆さまにしてぶら下げていやがった。意識はなさそうだ。はまってから抜けろと言ったはずなのに、すっぽりはまってるらしい。

 頭が回るやつほどこの手の幻ってえのははまりやすいと聞いたことはあるが、過去にもエルは自力で脱出してるから放っておいても大丈夫だろう。戻る前に体が食われたりしなきゃ。

「懐かしいもん見せてくれやがって、お礼に刃物食らわせてやるよ!」

 <黒迅>で跳んでネレイデスの捕食口に刃を振り落とす。嘴のような硬い感触があったが切り裂いた。痛みには鈍いのか、ほとんど動じた様子はない。それでも触手が向かってきてそれを切り払う。足元を捉えようとした触手を踏み潰し、小さく跳んで海から半分ほどか出ていたネレイデス本体の背中側を切り裂く。

 そして刃を滑らせたまま、また<黒迅>で今度は正面側へ跳ぶ。深く、移動した範囲分だけを切り裂きながら、さらにまた刃を叩き込む。

 これには痛みに鈍かろうがこたえたらしく、身悶えして暴れた。その拍子にエルが放り出されたのを見て海へ飛び込む。沈んでいくエルをどうにか捕まえたと思ったら、エルごと触手にぐるぐる巻きにされて捕まえられてそのまま海中の深いところまで引きずり込まれる。

 光がないと何も見えやしねえ。

 そしてネレイデスの歌声がまた聞こえてくる。

 腕まで触手にやられて<黒迅>を振るうこともままならない。こいつはさすがにヤバいかと思った瞬間に野郎の口の中へ突っ込まれた。さっき嘴を切り裂いたお蔭でいきなり体を噛み千切られることはなかったが、鋭い痛みが胴や足に奔る。

 が、触手が離れた。このまま捕食しようってなら、自分の触手ごとは食えないってことだ。片腕でエルを抱えたまま、<黒迅>を逆手に握り直す。水の中じゃ抵抗が強すぎて思うように振ることはできないが、ただ突きを繰り出すという動きならばできる。

 思い切り刃を突き刺して文字通りに食らわせてやり、そのまま腕の可動域を限界まで使って切り開く。観念したように吐き出された。

 急いで海面へと泳ぐが、足をまた触手に捕まえられた。食いはしないがこのまま殺そうってか。あるいは窒息死させてから食おうということか。

 エルの作る菓子ほどに甘い。

 この俺様が溺れて死ぬなんざあるかってんだ。

 <黒迅>でまた、跳ぶ。触手が剥がれる。ネレイデスの下に出て、<黒迅>を突き刺す。もうこうなったら棍比べだ。

 さすがに海中でこいつを両断するような真似はできないが、息の続く限りに同じところを抉るようにして何度も何度も突き刺してやらァ。ネレイデスがくたばるのが先か、俺が息絶えるのが先か。

 ただひたすらに突き刺して、その傷口を広げるようにぐいと角度をつけながら引き抜くという繰り返しに屈したのか、ネレイデスが身をよじって乱回転するように暴れた。それで振り払われてまた海面を目指して泳ぐ。

「ぶはあっ! はぁっ、はぁっ、クソ――仕留め損なったか」

 ついでに暗すぎて右も左も分からねえ。

 <黒迅>で跳ぶには切るもんがどこにいるかが分からねえとならないから、岸までこいつで戻るってわけにもいかない。つーか、エルは息してねえな。たっぷり海水飲んでやがったか。仕方ねえが早いとこ、息を吹き返してやらねえと死んじまう。

 星空がありゃあ方角に検討はつくが、んなもんは全くもって見えねえ。灯台もねえ。ただただ、目にするもんは闇ばかり。

 ヤバいな、どうするか。

「……おい、エル、起きろ! 起きろってんだよ!」

 頬をぶっ叩いてやる。耳をつまんで引っ張る。瞼を指で開いてやる。何をしても目を覚ますどころか、反応さえない。もしかしてくたばったか。

 いや、だがこいつに目え覚ましてもらわねえと俺もくたばる。生きてろ。

「ったく――世話かけやがって!」

 飲んだ水を吐かせねえと呼吸もできやしねえなら、それを圧迫して吐き出させりゃあいいか。

 体の前でエルを抱き込むようにして、下腹部で両手を組んで斜め上へ押し上げるように一思いに圧迫する。体をくの字に曲げながらそれを繰り返したら、いきなり、エルがげほっと水を吐いた。

「おい、こら、てめえ、しっかりしろ!」

「げほっ、ごっほ……あれ……ギル……?」

「明かり! 岸を探せ!」

 とりあえず意識がはっきりするようにビンタを食らわせてやって言いつけるがまだエルは目をとろんとさせている。

「火! 思い切り!」

「火――」

 とりあえずは通じたのか、呂律の回ってない口でエルは繰り返し、次の瞬間に頭が焦げたかのような熱さに襲われた。思わず一度、もぐってしまったが頭上にアホほどでかい炎塊が浮かんでいる。周りを見る。見えた――岸。

「ぶはぁっ……ああ、どうにかなった……」

 浜へ上がる。ずっと潜ってたせいか、地上が重く感じる。

 まだエルはへろへろで役に立ちそうにはないが、炎塊は出したままだ。

 海へ向き直ると触手が丁度、出てきた。やっぱネレイデスは諦めてなかったか。しつこい野郎め。

「じっくり焼いて食ってやらァ、こいつで終いだ!」

 海の中にその大きい影が見えている。

 浅いところまで追いかけてきたのが命取りだ。

 絡めとろうとしてきた触手を切り払ってやり、そのままに<黒迅>で跳ぶ。

「おらよォッ!」

 腰まで海に浸かりながら、思い切り<黒迅>を振り落とす。

 ひと際デカい波飛沫を上げながらネレイデスはくたばった。

「はぁー……こいつ、何人食いやがったんだか……」

 最後の一撃で変なとこを切り裂いたようだった。出てきた溶けかかっている頭蓋骨は1つや2つでは足りなかった。

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