#041 目覚めてすぐにボス格とエンカウントしちゃったギルも、僕と同じでなかなかあれだよね

「あらま、大掛かりだっただけあって、すごいねえ。ええと、何て言ったっけ?」

「炭酸水素ナトリウム」

「……うん、まあ何でもいいけどよく落ちるねえ」

 おばちゃんには覚えられないようだった。

「別名は重曹ね。重曹」

「はいはい」

 苦労してどうにかこうにか精製した重曹にお酢を混ぜた洗剤のパワーは強力だった。床にこびりついて、ねちょねちょを通り越してべったんべったんしてしまっていた酒場の床が綺麗になっていく。

 これまでは熱湯をかけようがビクともしていなかったのに、重曹とお酢のダブルパワーを借りてデッキブラシで擦ればみるみると綺麗になる。商品化したいところだけれど電気分解をする必要があって、それを魔術でパッとしてしまったからなかなかそういうわけにもいかない。

 きっと大ヒットするのに。

「さてと。これでやることは全部済ませたわけだし、僕はまた行くね」

「あら。もうちょっとゆっくりすればいいじゃないのさ」

 すでに旅装へ着替えて荷物もまとめてある。

「ギルのお迎えに行かなきゃいけなくてさあ……」

「待たせてるのかい?」

「多分、待ってる自覚はないだろうね……。だからこそなんだよ」

「ほんとに困った男だねえ、エルちゃんのあんちゃんは」

「まあね。だから行かなきゃ。ありがとうね、色々と。おじちゃんもありがとうございました」

「また、顔を出すんだぞ」

「はーい」

「もうちょっといれば何かすぐ食べられるようなもんでも作って持たせてあげられるのにねえ……」

「大丈夫だってば、おばちゃん……」

 何かにつけてすぐ食べさせようとしてくる。旅歩きしているとやや栄養失調気味になるから悪くはない提案なんだけど時間は歩みを止めてくれない。

「リアも、いずれ学校から案内が来るからそれまでも、それからもちゃんとお勉強をがんばってね」

「……うん……」

 あんまり頑張りたくなさそうなお返事に苦笑してしまう。

「今度、会う時は立派な才色兼備のお姉さんになっているかもね。僕も背が伸びてかっこよくなってたらいいんだけど……」

「……エルはね」

「うん?」

 おもむろにリアに手を取られた。両手で僕の右手を握り、何を考えてか、そのまま左右にぷらぷらと揺らしてくる。

「……そのままで、かっこいいもん」

「……本当? え、嘘? 照れるよ? すごく照れちゃうよ?」

「うん、エルは……かっこいい」

「……照れちゃうね。ありがとう、リア」

「うん……」

「それじゃ、僕はこれで」

 と、行こうとして振り返ったらおばちゃんが何とも妙ににまにまとした笑みを浮かべていた。

「……おばちゃん?」

「エルちゃんはいお嫁さんもらうんだろうねえ」

「お嫁さんて……ま、まあね? そうなったらいいよね?」

 レティシアがもし、僕のお嫁さんになってくれたらどれだけ嬉しいか。

「ん……?」

 ふと視線を感じてリアを見たら、何だか難しい顔をしていた。じとーっとした視線を注がれている。

「……ええと?」

「急ぐなら早く行けばいいだろ。女というのは面倒だぞ……」

 何だかとっても含みのあるおじちゃんの言葉に従って出発した。

 また元気に帰ってこなくっちゃ。

 僕もリアに負けないように頑張らないと。


 ▼


 ラ・マルタへ急ぎに急いで向かう旅だった。

 いつも立ち寄ってしまっていた温泉も名残惜しくもスルーして、トンネル工事の進捗を確認したい欲求もガン無視して、トンネルの落盤防止の工事の中を突っ切らせてもらって開通していたそこを通った。これは大きな大きな時間の削減に繋げられた。山を越えず、突っ切れてしまったのである。

 鉄道が交通できるようになれば、かなり物流が捗ることだろう。

 鉄道網を構築したら、人と物の行き来が活発になる。早めに観光地化をして、庶民でも頑張れば乗れる料金に設定をすれば地域がもっと活発化して経済が発展するはず。しかし鉄道網構築ということは時間というものも同様に発達する必要があるだろう。

 まだ持ち運べる機械式時計は発明されていないけれどアルソナ帝国では時間の問題とも言えそうだ。ゼンマイとテンプという偉大なる発明が起きてしまえば腕時計も懐中時計も生産できるようになってしまうだろう。

 すると人々は時刻を気にするようになり、労働時間というものが騒がられるようになり、ひいてはブラック企業が生まれ、搾取する側と搾取される側とに人は別れ――いや、搾取云々はあんまり変わりはないのかな、今も。

 ともあれ、時間というのは大変だ。

 大変に便利な一方で、人を不自由にする要因に時刻というものは大きな割合を占めてしまうだろう。

 何だか憂うつになってくる。

 そう言えば古代魔導文明では時間の感覚ってどうなっていたんだろう。魔術でどうにかして時間を正確に知って行動していたんだろうか。


 ともあれ、ラ・マルタへの旅は順調だった。

 1人だといちいち楽でいい。朝起きて出発するのも自分の支度さえ済めばいいわけだし、日が暮れてからどれほど歩くかというのも自分の体力と相談しさえすればいいのだ。

 しかし寂しさというものはある。

 何事も一長一短というわけなのだろうか。自分と全く同じペースで動いてくれる人であれば旅のストレスって皆無になるのだろうか。うーん、それはそれかも。

 本来はけっこう時間がかかるはずの旅程だったけれど、本当はまだ工事中で通行できないトンネルを利用したことや、睡眠時間や食事の時間を切り詰めて移動時間を多く取ったことで当初の予定よりも早く帝都ラ・マルタまで辿り着けた。

 ここからが本番である。

 グラシエラの砂漠へ飛ばされてから、おおよそ4、5カ月といったところだろうか。

 相手は精霊器をいくつも使えてしまう集団。

 ヴァイオレンス極まりない少女と、底知れない強さで彼らのリーダーらしい男性と、どうして仲間なのかと今も尚信じられないフェロメナさん。まだ他に仲間がいたっておかしくない。

 彼らが罠を張って待ち受ける中へ飛び込んでギルを叩き起こす。

 目的地は帝都ラ・マルタ北西部にある、空き家となっている元貴族の邸宅だ。ヴァイオレットから聞き出した内容によれば、この邸宅の地下に精霊器で封印にも近い状態で眠らされているギルがいるらしい。

 ギルのところへ辿り着いて、叩き起こす。それが僕の目標達成ということになる。叩き起こした時点で僕が息をしていさえすれば、あとはもうギルに全て丸投げする気概で臨むのだ。


 ▼


 明るい内にラ・マルタへ入り、人目につかないように夜を待った。

 ヘイネル出張所でエイワスさんがあれほど心配してくれていたのだから、ラ・マルタでも僕が消えてしまったというのはそれなりのニュースになっていそうだった。

 わざわざ律義に帰還報告でもしていたら、また向こうから襲撃されかねない。こういうことの主導権は握っておいた方が絶対に良い。僕から仕掛けたいという事情で半日ほど潜伏して過ごした。

 日が沈んで暗くなってからすぐ、目的地の邸宅へ向かってみた。貴族の豪奢なお屋敷が立ち並ぶ高級住宅地だ。感覚としては広大な公園の中に博物館がごろごろ建っているというような雰囲気。博物館めいた建物は全てお屋敷である。昼は有閑マダムがこの公園めいた場所で世間話に花を咲かせたりしているのだろうか。

 お目当てのお屋敷は固く門が閉ざされ、建物にも明かりがまったく見えなかったからすぐに分かった。

 さくっと門を乗り越えて入り込む。玄関の戸は厳重に鎖まで巻かれて鍵をつけられていた。闇に紛れるように外壁沿いに周って中へ入れそうなところを探したら、屋敷の裏側で鎧戸が壊れている窓を見つけた。暗くてしっかりとは分からないけど、大人でも出入りはできそうな感じだった。

 そこから忍び込んで中へ入る。

 さて、地下室はどこだろうか。罠とかたっぷりあるんだろうか。

 警戒しながら<黒迅>を抜いてそのまま歩き出す。邸内は空っぽに近かった。家具や調度類なんてものは全て運び出されて久しいのだろう。堂々と蜘蛛の巣は大きく領土を拡大し、変なブービートラップでもあるまいかと床をまじまじと調べたらネズミの糞っぽいのが敷き詰められていた。誰も管理はしていないのだろう。そんな場所だからこそアジトになり得ているのだ。

 にしてもギル、どうなっちゃっているんだろう。本人は何ともなくたって、顔中が蝙蝠の糞尿まみれになってるとか、ないよね。ばっちくて触れられないなんていう地味だけど強烈なトラップはないと信じたい。

「おっ……?」

 納戸か何かかと思って開けた扉から地下への入口が見えた。

 息を殺して慎重に周囲の様子を暗がりでうかがう。勝手に住みついた小さな生き物の気配さえ感じ取れない。僕が鈍ちんすぎるという可能性もあるけれど、気づかれてもいないのだろうか。分からない。

 ともかく慎重に階段を下りる。意外に深くて踊り場が2つもあった。そこで方向を折り返して尚も下っていくと重そうな扉に出くわす。一瞬、行き止まりかとも思ってしまうほど重厚なもので、よく分からないけどレリーフめいたものまで彫り込まれた立派なものだ。ドアノブがない両開きのその扉を押し開ける。

 広かった。屋敷の地下にどうしてこんな広い空間があるのかと思うほど。

 明かりは小さめのファイアボールだけだったけど、この地下室まで降りてくれば外から発見されるということもない。拳サイズまでファイアボールを大きくしたものを8個ほど先行させて見渡す。

 地下空間に入って左側がどうも正面となっているようだ。

 何を描いたものかは分からないけど扉にあったレリーフと同じような不可思議な像と、その背後に大きな壁画ねいたものがある。

 そして像の正面にはまるで祭壇であるかのように、しかし無骨でただ削り出しただけと言わんばかりの石を切り出したような台。ギルはそこへ寝かされている。遠目に見た限りだと怪我はなさそうで、しかし呼吸をしているようには見えない。仰向けにされている胸は上下していない。もしかして死体かなとか思っちゃったけど、遠目にも腐っているようには見えない。

 それから気になる点と言えば床にある大きな円の模様だ。円の中にはいかにもと言わんばかりに図形やら読めない文字やらがある。魔術的な、あるいは別の、でも科学とは異なる図形らしいというのは明らかだ。その中心がギルというのも嫌な感じ。

 あとは今の僕がいるところから正面奥にも別の扉があるというのが気になる。

 ヴァイオレットは僕にギルがどこにいるかというのを仲間に教えなかったんだろうか。いや、彼女の性格なら仮に教えなかったとしても、きっと僕に仕返しをするために待ち受けたりしそうなものだ。それがないのならば、仲間に報せた上でこの床のあからさまなものを罠として悠々と待っているのかも。

「どうしようもないなあ、これは……」

 罠と分かっていても、それが何かも分からないとは言え、飛び込むしかない。覚悟はしていたけど不気味すぎていざとなると気が引ける。上からヴァイオレットが降って来て襲ってくる方がよほど怖くない。とりあえずそっちは物理的な怖さでしかないのだから。

 少し後ろへ下がって、覚悟を決めて息を小さく吐く。

 それから助走をつけて一気に駆け込んだ。走り幅跳びの要領で円の手前で踏み切って思い切り飛んでギルを目指す。それでも僕の身体能力だと一足で行ける距離ではない。だから魔術で風を生んで体を押し飛ばすように吹かせる。ギリギリ、爪先で台座を踏んで、そのまま重心を前へ倒すようにしてギルが寝る台の上へ辿り着いた。今のところは何も床の陣に反応はないけど急いでギルを起こさないと。

「ギル、起きて。ギルってば」

 揺さぶって声をかけても反応はない。

 触れると暖かいけれど、関節なんかがまったく動かせない。奇妙な感じだ。暖かい死体のような、そんな印象を与えられる。特別な方法で起こさなくちゃダメなんだ。

「……何か、持ってる?」

 ふと、ギルの右手に何かがあるのに気がついた。

 薄い金属の短冊めいたもの。木の枝のようなデザインで掘り抜かれている。これは栞だろうか。こんなものギルには似つかない。ギルと本なんて、僕と酒池肉林ってくらいに噛み合わないはずだ。これがギルをこうしてしまっている精霊器なんだろうか。

 しかしどうやって解除すれば良いものか。

 触っても大丈夫か不安だったけど、とりあえず指先でつまんでギルの手から出してみる。

「……ぽいっとな」

 栞を放り捨てる。

「――まずった。おっ? あり?」

「ギルっ! あっさり起きた!?」

「どこだ、ここ?」

「もう、大変だったんだよ!?」

「お前、何かボロっちくなってねえ?」

「あのさあ! ギルがね、精霊器で眠らされちゃってる間に僕が何が起きたか、何も知らないで呑気なこと言わないでよね! もうっ!」

「何でぷりぷりしてんだよ……」

 体を起こしてギルが僕の頭へ手を乗せる。髪の毛をわしゃわしゃされた。

 こっちがどれだけ心配していたのか、懇切丁寧に説明するべきなんだろうか。

「まあいいや。早く逃げよう」

「逃げる?」

「ここはギルを捕まえた人のアジトみたいなとこだと思う。僕がここを知っているのも向こうは知ってるから、罠とか仕掛けられてると思ってたんだけど……まだ何もないんだよね。それはそれで不気味だから、早いとこ出ていった方がいいと思って」

「ああ、なるほどな。……が、逃げてまずはどこへ行く?」

「どこって、とりあえず……商会かな。休めるところに行った方がいいだろうし」

「……確証はねえが、ビンガムも仲間だぜ」

「え?」

 仲間って、ボスのことを言ってる?

 でもどうして。

「フェロメナな。あの女、ビンガムにちっと護衛してやってくれって言われたんだ。で、ご覧の通りに俺はまんまとはめられた。仕組まれてたんだよ。どうも怪しいと思ったからお前にゃ、城へ行けって言っといたんだ」

「……あ、そういうこと? え、でもじゃあ、ボスも、敵ってこと?」

「あるいは単に利用されてるかだがよ、グレーにしたところで限りなくクロだ。そもそも、あの野郎は利用する、利用されたってえことにゃあ敏感だろうしよ。利用されただなんてことを気づかねえ方がおかしいだろう」

 どうしてそこまでギルがボスのことを語れるのかが分からない。でもこうも自信満々だと、そうなのかもとか思ってきちゃう。

「行先はともかく、ここは早く出ようよ」

「そうだな。……おう、俺の<黒轟>と<黒威>は?」

「精霊器ドロが勝手に使ってた」

「は?」

「何か、秘法だか何だかで、どんな精霊器も使えるっぽい」

「はああああっ? 何じゃ、そらっ!?」

「やっぱりギルも知らないことだったか……」

「そもそも精霊器なんてえのは、精霊器と人間のワンセットだぞ? だってえのに、精霊器を自在に扱えるだあ? どういう理屈だってんだよ……」

「さあ……? そういう摩訶不思議を可能にしちゃうから秘法なんじゃない?」

「だがよ、そりゃ、お日様を4つも5つも作るのも秘法ならできるぜって言ってるような荒唐無稽だぞ」

「……でも、実際にそうなんだもん」

「そうか。まあ俺の精霊器を使っちまっただなんて言うなら、そういうことなんだろうな……」

「……あ。そう言えばね、床に何か変なのあるんだけど分かる? 一応踏まないようにしたんだけど」

「あん? ……いいか、エル。古代遺跡だろうが、どこだろうがよ、この手のもんは踏み潰して進むもんよ」

 石の台からギルはどっしりと足を下ろして立ち上がる。

「何で僕のこと抱き上げちゃってるわけ? 何かお子様チックな扱いされてる気分になるんだけど」

「そりゃよ、こういうのは踏めば起動すんのがお約束なんだ」

 僕の腰から<黒迅>を勝手にギルが抜いた瞬間、床の陣が光り輝いた。

「いい加減にへそ曲げたの直しただろうな、<黒迅>!」

 床から何かが蠢いて出てきたかと思ったら、ギルが<黒迅>を振って切り払っていた。そのまま走って僕が降りてきた階段へとギルは一直線に向かっていくけど、目の前に木の根のような、でもやたらてらてらと表面で光を反射するものが立ちはだかるように生えてくる。

「うおらァッ!」

 きっと、何度でも、何度でも、思い知るんだろう。

 やっぱりギルは規格外に強いのだと。

 剣を振る速度がまず違う。目にも止まらない。残像さえも目にすることはできない。そして死角のはずの場所からの攻撃でさえもどうやってか感知して即座に迎撃をする。片手で僕を抱えながら、まるで邪魔にもならないとばかりに跳ね回り、剣を振り回していく。

 喋れば舌を噛み切ってしまいそうなほどに目まぐるしく動き回る。

「キリがねえ上に逃がさねえってかァ? やだやだ、血が騒いでたまんねえやな――」

 楽しそうにギルがうそぶく。

「でもって、やぁーっぱこいつはへそ曲げてやがったのか。しょうがねえから、久々に暴れてやるか」

「へ、へそ曲げるって? 誰が? 何に?」

「<黒迅>だ。こいつ、俺が<黒轟>使えるようになってからちっとして、さっぱり使えなくなってやがってたんだよ」

「そうなの? だから僕に貸してくれたの?」

「ま、どうせお前も使えやしなかったろ?」

「まあね? で、<黒迅>ってどういう力があるの?」

「簡単に言っちまうとよ、剣を振りゃあそのままあっさり当てちまうってえのが<黒迅>の力だ。どんな距離だろうが、一歩で詰められるってわけだ」

 ギルがいきなり反転した。奥の扉が開いて誰かが踏み入ってきた――と思った時には目の前にその人がいて、<黒迅>が相手の喉元で止まり、ギルの眼球の前に銃口が突きつけられていた。

「よう、てめえか、俺の<黒轟>を勝手に使いやがってるのは」

「きみかね。この素晴らしい精霊器を育てたのは」

 クリフォード――僕では手も足も出なかった人物が、ギルと邂逅した。

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