#038 意外とあっさり奇跡は起きる

「何だかぼろぼろになっちゃってるね……」

「ずっと身につけちゃってるから、どうしてもね……。洗う分だけ傷んじゃうし……。でもすごく気に入ってるんだ」

 僕の襟巻きをしげしげとレティシアが眺めている。

 かなりよれて、落ちない汚れもついてしまっていて、お世辞にも綺麗とは言えない。けれど丁寧に扱っているから、ボロ雑巾とまではいっていない。

「もっとお洒落なのつけてみたら?」

「これがいいんだよ」

「そうなの?」

「そうなんです」

 この襟巻きにどれだけ思い入れがあるか。

 寒い場所ではマフラーになってくれるし、暑いところでは広げて皮膚が焼けるのを防ぐ用途にも使った。顔も隠せるし、ただ襟に巻いているだけでも風にはためくのがちょっとかっこいいんじゃないかとか思うし。

 何よりこれが一番、何だかレティシアを思い出す。

「そっちのナイフはまだ現役なんだね」

「うん。これは精霊器になってくれたんだ。<ルシオラ>ってギルが名前つけてくれたんだよ」

「<ルシオラ>……。エルにあげて正解だったね。役立ってて良かった。ここにあった時なんて使い道なかったもの」

「これに一番助けられてるなあ……。<ルシオラ>は傷を治してくれる力があるから」

「そうなの? じゃあリアには?」

「してあげれればいいんだけど、ちょっと条件があって……。今はダメなんだ。最近、あんまり手入れできてなかったから、けっこう刃毀れしてる……」

 じっくりと<ルシオラ>を見てみると刃毀れしているし、握り心地を良くするための柄の布も擦り切れている。匂いを嗅ぐとそこだけ悪臭もする。

「メンテナンスしなくちゃなあ……」

「そこに巻けるような布ならあるよ?」

「本当? ありがとう、もらっていい?」

「うん。そう言えばリア……ちょっと遅い? 大丈夫かな?」

「少し見てくるね」

 起き上がれるようになったリアはリハビリがてら、というほどでもないけど自分の身の周りは自分でやってもらっている。顔を洗っておいでと言ったのは数分前だ。裏にある井戸で顔を洗うなんてすぐ済むはず。

 小屋を出て覗いてみたら、顔から水滴を滴らせたまま井戸から水を汲む桶を覗き込んでいた。嘔吐感に襲われている人が発射を待つようにスタンバっている様子にも見えてしまう。

「大丈夫、リア?」

「……うん」

「どうかしたの?」

「顔、濡れて、拭くものなかったから……」

「それならハンカチ、渡してなかったっけ? お家に忘れちゃった?」

「あるけど……汚しちゃいけないと思って」

 会話中、ずっと顔は桶に向けたままだ。

 何だかシュール。でも彼女の言わんとすることは理解した。取り出して見せてくれていたハンカチを取って、彼女の顔を問答無用でさっさと拭いてあげる。

「ハンカチは手を拭いたり顔を拭いたりするものなんだから、その用途で使うことに躊躇はいりません。そもそも顔が汚れちゃったから水で洗ったんだし、洗い流したら綺麗だよ」

「でも人のものだから、何か……」

「レティシアは遠慮しなくていいよって言ってくれてるじゃない。リアはもう奴隷じゃないんだよ。時と場合によっては遠慮することも必要だけど、何でもかんでも遠慮してしまうのも相手に失礼っていうことにはなっちゃったりするから。もっと胸を張ろうね。きみは何も悪いことなんてしてないんだからさ」

「……うん……」

「さ、戻ろう」

 リアは奴隷にされてからどれほど働かされていたかを聞いてないけど、きっと現状は人生の半分以上が奴隷だった。そのせいで奴隷として馴らされてしまった習慣や考えが抜けきらないのだと思う。奴隷なんてものは何でもかんでも粗末以下の酷いもので、だから綺麗なハンカチを使って顔を拭くなんてできない。拭きたければ自分の服でさっと拭く。でも今はレティシアの古着を着せてもらっているから、それで拭くのも気が引けてしまう。

 その結果、顔を下に向けて水滴が全て落ちるのを待ってしまった。

 なかなかこういう、一度習慣づけられたものを脱するというのは難しい。

 リアの手を取って小屋へ戻る。

「何かあったの?」

「ハンカチで拭くのができなかったみたい」

「……どういうこと?」

「済んだことだから大丈夫だよ。ね、リア?」

「うん……多分?」

「けっこう気になるけど、いっか。あのね、アルソナに行くまでのリアの旅装なんだけど、このお洋服はどう? ちょっとスカートの裾長すぎるかな?」

「少し丈を詰めれば大丈夫じゃない? リアはどう? こういうの」

「……何でも、大丈夫」

 レティシアの見せてくれたワンピースを見たリアはもじもじしている。きっと、自分にはこんなお洋服はもったいないんじゃないか、みたいな思考をしているんだろう。

「もうちょっと、お洒落なのとかないかな? 明るい色合いとか」

「明るい色合い? そうだなあ……。こっちは?」

 服装というものは個人を表す重要なファクターだ。

 だからあえて可愛らしいものをリアに着てもらおうと考えた。自分で選んだものではないとしたって、服装から意識が変わるということだって十分に考えられる。汚れを落とすようにガンガン意識改革をして奴隷から人になってもらいたい。

「あら、可愛い……」

「将来が楽しみですな」

 いつの間にかマネキン人形みたいなことになっていたけど、どうにかリアの旅装を決めることができた。

 若草色の派手ではないが目にやさしくてほのかにお上品なお洋服。服の下は傷が多いからできるだけ肌の露出を抑えていて、それが逆に奥ゆかしさめいたものを匂わせるという塩梅で働いている。

「こんな、お洋服……」

「わたしはもう着れないサイズのやつだから、リアにあげるよ。他にもいっぱい持ってってもらってもいいんだけどね」

「それはちょっと、大荷物になりそうなので……」

 あれこれと試したことで引っ張り出された多量の衣類の山を見たら、有難くもらっていこうとはなれない。

「しょうがないか……。あ、でもね、でもね、エルも女の子の格好とか似合うと思うんだけど」

「でもね、じゃないです。僕は男の子なので女の子のお洋服は着ません」

「ちぇー」

 地味だけど、なかなかに残念がっている。

 女の子の男装は何も失わないと思うけど、男の女装は何か失ってしまうとしか思えない。そういう趣味の人は考えないとして。

「それじゃあ、あとは保存食の支度して、体をゆっくり休めて、だね」

「名残惜しいけどね……」

 今度会えるのはいつになることなのやら。

 考えたくない。ここにずっといたい。結婚したい。ああでも何歳から結婚てできるんだったっけか。こんな常識も知らないのにプロポーズなんてできもしないや。ああもう、僕のおバカ。

「とりあえず今夜はご馳走ディナーでも支度したいね。僕作るよ」

「何作るの?」

「うーん……チキンフリットの甘酢ソースとタルタルがけ?」

「何その呪文?」

 要するにチキン南蛮である。


 ▼


 忘れ物がないか、いつもなら脳内チェックリストを作成して確認をするところだけど今日はしなかった。

 万が一でも忘れ物をすれば、またレティシアの顔を見に戻ってこられるんじゃないかというせこい考えが生じたからだ。

 きっと、これからまたここへ来るかは分からないけれど、来るのであれば、何度も何度も僕は同じように積極的に忘れ物をしないようにという対策は取らないだろうと思う。それくらい、名残惜しくて別れがたいのだ。もう1日だけいいじゃないかと、何度も何度も考えるけれどそうもできない理由というのを無視できない。

「またお世話になっちゃったね。ありがとう、レティシア」

「うん、また近くまで来ることになったら寄っていいからね」

「言質取ったからね」

「ふふっ、何、真剣なこと言ってるの」

 それでも言質は取った。――とは言え、グラシエラには積極的に近寄るつもりはないけれど。

「リアも、元気でね。困ったことがあったらちゃんとエルに何でも言っていいからね」

「うん。……あ、ありがとう、レティシア……」

「どういたしまして」

 にっこりと返したレティシアにつられるようにして、リアがふっと柔らかく表情を崩した。

「やっぱり笑顔が一番だね。もっとにこにこした方がいいよ、リアは」

「うんうん、女の子の笑顔っていいよね。何だか嬉しいし」

「笑顔……がんばる、ね」

「うん、元気でね、リア」

 やっぱりレティシアはやさしいし、綺麗で、かわいいと思う。

 例えやさしさのベクトルが他の人へ向けられていたって、その雰囲気というか、態度というか、そういうものがとっても素敵だと思える。

「エルも、元気でね」

「うん。……今はね、ちょっとあちこち旅してるんだ。でも、ヘイネルっていう街や、ラ・マルタっていう帝都にビンガム商会があるから、そこで僕のこと尋ねてもらったら、どこかで僕も分かるようにがんばるから……うーん、何というか、約束は有効だよってことで」

「分かってるよ。ビンガム商会でしょ。何度も聞いたもの」

 以前、ここから僕が旅立った時はアルソナで再会しようという約束が前へ進ませてくれた。再会は叶ったけれど、一時的なものだというのは寂しすぎるから、ついつい、しつこくしてしまう。

「……行かない、の?」

 やっぱり名残惜しくて、動けないでいたらくいくいとリアに裾を引っ張られた。

「あ、うん。じゃあ、またね、レティシア」

「うん、またね。エル、リア」

 ふわっと鼻孔をレティシアの甘い香りがくすぐった。

 僕とリアをまとめてレティシアが両腕を広げて抱きしめてくれる。

 ちっとも、僕の他の人に対するものとは違う好意というものには気がついていないのだろう。

 それでも嬉しくないなんて口が裂けても言えやしない。

「あなた達の旅路が安全なものでありますように」

 聖職者が捧げる言葉のように、すぅっと彼女の祈りの文句は心地良く聞こえた。

「っ……?」

 何か、不思議な違和感を抱く。

 何だろうと確かめる間もなく彼女が離れてしまい、そっちに気を取られて、またねと言って踵を返して歩き出した。

 別れ際、挨拶として人はまたねと口にするけれど明日の保証なんていうものはどんな世の中でもないはずだ。

 不慮の事故というものはどこでどう起きてもおかしいものではないし、知らぬ間に潜んでいた病魔によって突然倒れることだってあるだろう。

 それでも、人はまたねと約束をする。

 その日まできっと生きようと、お祈りをする文句なのではないだろうかと、そんなことをふっと思った。


 ▼


 それは突然のことだった。

 リアとアルソナへ向かう途中、野宿をして、朝に起きて、小川で顔を洗っていた時だ。外れやしないと分かっていたけど、それでもささやかな抵抗のつもりで毎朝、首輪の錠前を弄んでいた。

 最早、毎朝の日課と化しつつあったことで、やっぱり意味なんてないよねと思うまでもなく、何となくカチャカチャしていたら、不意にかちゃんと音がしてぽろっと錠前が外れてしまった。

「……えっ」

 ぽろっと外れた錠前はそのまま小川に落ちて川底へ沈んでいく。

 そうっと、そうっと、首輪に手を伸ばして、ずぅーっと鎮座していた錠前があった場所を見えないながらも撫でさすり、恐る恐る、外してみる。

「……えっ」

 首輪が外れた。

 ミステリーだ。

 いきなり錠前が外れるなんて、トリックがあるに違いない。

 密室トリックを破るための何かだ。こっそりテグスが仕込まれていたんだろうか。いやいや、僕ってばちょっと混乱しすぎている。こういう時は落ち着く必要がある。

 ビンガム商会の上半期決算の書類を思い出せ。

「……うん、うん」

 落ち着いた。気分がずしっとした。

 しかしどうして急にこうもあっさり、ぽろりと外れてしまったのか分からない。こんなぽろり、僕が知らない大昔の深夜アイドル番組だってやっていないはずだ。実際に見たことはないけれど。

 思い当たることは、特にはないなあ。

「…………あっ」

 そう言えば昨日、レティシアとさよならした時にぎゅっと抱きしめられた。あの時、何か妙な感じはした。何が妙とは分からないまでも、何か妙だなとは思った。

 あの時に何かあったんだろうか。

 実はレティシアが錠前を開けるプロで、あの時に目についてさっと外したとか。いやあ、これはないな。そもそも首輪っておしゃれなのとか尋ねられたこともあったし。何なら一緒に外せないかって協力してもらっておいて結局だった。

 となると、あのタイミングで偶発的な何か不思議現象が炸裂していたとか。

 でもどんなさ。

 謎。

 カモノハシの生態程度には謎。

「ま、いっか……」

 油断はできないにせよ、小悪党程度ならもう僕の敵じゃない。

 安心してアルソナへの帰途を行けるというわけである。


「リア、朝ご飯食べたらすぐ出発しようね。……というか、顔を洗っておいでよ」

 ばっちり身だしなみを整えてから寝ていた場所へ戻ると、リアは起きてはいたけど眠そうにしていた。目をこすり、欠伸をして、火の消えた焚火跡の近くでぼうっと座っている。

「うん、洗う……」

「朝はシャキッと元気にね。いやー、今日もいい朝だ! お日様ってサイコー!」

「……エル、何か変?」

「朝ご飯、支度するから顔洗っておいで、ほらほら」

「首の、どうしたの?」

「ふふふーん、いきなりぽろっと外れちゃった。ラッキーだよね」

 邪魔なものがなくなった首をさする。けど、何か、垢っぽいのが溜まってる皮膚のべったり感に気づいてしまった。

「……エル?」

「ちょっと、僕も顔洗い直すよ」

 しっかりと首を洗った。

 石鹸が欲しいところだったけど贅沢は言えない。

「さて、と。朝ご飯も食べたところだし、リア、まだ傷痛むところある?」

「……ちょっとだけね」

「それじゃあこれから、おまじないをかけるので背中を向けてください」

「おまじない?」

「ほらほら、大丈夫、痛くないからね」

 首輪が外れたということは、僕の魔力も使えるようになったということだ。

 ずっと封じられていたせいか、早いところ発散させたいくらいに体内でガンガンに渦巻いているような感じがしている。リアに背を向けてもらってから<ルシオラ>を抜く。

「それじゃあやるよ」

 <ルシオラ>を握る手へ魔力を向かわせ、精霊器を通じて放出する。

 やっぱりめちゃくちゃ溜まっていた。ダムが決壊したかのように魔力は一気に奔流となって出ていってしまって自分で歯止めをかけられない。

「おおおおおっ、ちょ、あれ、えっ、ちょっ!?」

 止められない。

 何だこれヤバいと思って、十分にリアに<ルシオラ>フィルター付き魔力を浴びせてから反対を向く。足元の草が一気に生育をして、僕の体も全身が一瞬、むずむずと痒くなったもののすぐ何ともなくなり、木へ向ければ早送り映像であるかのように幹が太く長く、枝がより広がって葉は青々と茂りに茂っていくという始末。

 どうにかこうにか、ある程度まで発散してから止められた。

「はあ、焦った……。そうだ、リア、体はどう――」

 振り返ったら呆然としながらリアは僕を片目で見ていた。

 自分で包帯をむしり取ったのか、少しはだけて見えた肌には痣も腫れも瘡蓋かさぶたもない。そして、彼女の抉られていたはずの左目が、そこにあった。彼女自身、無事だったはずの右目を手で覆うように隠して、なかったはずの左目で僕を見ている。

「……指、何本立てているように見える?」

 ピースサインを作って見せながら尋ねて見る。

「2つ……」

「わあ、ちゃんと、ばっちり見えてるね……」

 ただただ唖然として<ルシオラ>の引き起こした奇跡めいた力を改めて思い知った。まさか欠損して久しい身体の部位まで復元してしまうだなんて思ってもいなかった。

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