#037 きっとこれは恋だと思うのです

 藪の中を走る。

 汗が滲む。

 多分、治りかけの傷も瘡蓋が剥がれかけたりして血も滲んでいるんじゃないだろうかと、むず痒さと痛みの狭間みたいな感覚から察することができた。

 ついでに脇腹も軽く痛む。体力が落ちるのって本当にすぐだなと認識しつつ、藪を切り拓くように<ルシオラ>で邪魔な枝葉を払って進む。

 日中に脱走したということは多分、何かしらで追い詰められてのことだ。800ロサというお酒1杯と、ちょっとの肴代にしかならない程度とは言え賞金をかけたのだから反撃でもしたのかも知れない。もしも捕まれば命が危うい。

 だから必死になって逃げているはず。

「お兄さん、ストップ」

「おっ? どうした?」

 藪を切り拓きながら地面に見つけた足跡を観察する。

 まだ新しい。足の指の形まではっきりと分かる。周囲を注意深く観察して次の足跡を見つける。

「こっちに向かってる。足跡の感じからすると、急ぎたいけど体が追いついてないっていう感じだと思う。これなら追いつけると思う。急ごう」

「お前、すごいな。そんなことも分かるのか……。狩りの経験でもあるのか?」

「経験はないけど、知識だけね……」

 またどこでと言われそうだったからまた、足跡を追って走り出した。


 どんな気持ちで今、逃げているのだろう。

 僕が脱走した時もあの場にいた子の1人だろうか。先に逃げ出した僕を恨んだり憎んだりしているだろうか。

 あの時は僕と同じように皆が脱走し、捕まらずに逃げ延びられればと思っていた。でも今にして思えばあまりに軽率だったとも思う。しかし体力的な限界が近くて猶予がなかったのも事実だ。ああするしか他にはなかった。

 僕の脱走のせいで少なからず理不尽な被害を被ったはずだ。

 八つ当たりをされたかも知れない。さらに待遇が酷くなったかも知れない。命を落とすことになってしまった子もいるかも。

 だから怖さもあった。

 果たして僕は彼ら、彼女らに顔向けできるのだろうかと。

 こんな後ろ暗い気持ちになること自体がおかしいと思う一方で、どうしてもそんなことを考えざるをえなかった。


 やがて、足跡の先で藪が動くのが見えた。目を凝らして、木に手をつきながら体を労わるようにして歩く女の子の姿をとうとう見つける。

「待って!」

 声をかけたら彼女は振り返ったがその拍子に足を滑らせたのか、何なのか、尻餅をつく。

「来ないで……!」

「大丈夫、僕は味方だから。あの、えと……連れ戻しに来たわけじゃないよ」

 <ルシオラ>を鞘に納めて警戒させないように声色をやさしくするよう心掛ける。それから顔を隠していた襟巻きも取った。

 粗末な奴隷服。左目が赤いものが滲んだ、ほとんど擦り切れているような包帯で隠されている。やつれた、ボロボロの女の子だった。

「僕はエル。僕の顔、見覚えはない? 前に同じところから脱走したんだ。炭坑労働をしてた。細い、今にも崩れそうな坑道で石炭がたっぷり詰まったズタ袋を這いつくばって何度も何度も往復する仕事をさせられてた」

「……見覚え……ある、かも……」

 右目を細くしながらじっと僕を見て彼女が発する。

「僕も今は同じ脱走奴隷さ。偶然、きみが逃げたから、捕まえたら賞金を出すって話を聞いて、助けなきゃって思って探しに来たんだ。一緒にアルソナっていう国へ行こう。そうしたらもう、きみは奴隷じゃないんだ。ちゃんと1人の人間として、やり直せるよ」

「アルソナ……? 本当に……?」

「うん。僕もそこへ帰るところだったんだ。だから一緒に行こう」

 膝をついて彼女と視線を合わせると、困惑したような顔から、ほっと安堵するような表情になった。でもすぐ、その表情から力が抜けていって崩れ落ちそうになったのを慌てて受け止める。

「疲れたよね。体も痛いところあるよね。大丈夫だよ。僕がちゃんと連れてってあげるから、ゆっくり休んで」

 落ち着かせてあげようと思って、そう声をかけながら背中をさすってあげると腕の中で彼女は目を閉じてすぐに眠ってしまった。

「ケントお兄さん、診てもらってもいい?」

「あ、ああ。ゆっくり横にしてあげてくれ」

 そうっと彼女を寝かせるとすぐにケントお兄さんは診てくれた。

 生憎と携行しているのは傷薬だったけれど、とにかく塗布してくれる。気になっていた左目は何があったのか、あるいは何をされてしまったのか、眼球ごと抉り抜き取られてしまっていた。息を飲んでしまった。

「それとない処置はされているが……杜撰ずさんすぎる。とんでもないイカレ野郎の仕業だろうな」

「……そっか」

「正直、今まで奴隷なんて特に気に留めたこともなかったけど……お前や、この子を見ていたら、奴隷制なんてものはなくなってしまえばいいと思ってくる」

「……うん、僕もそう思う」

「とにかく、道具も薬も足りない。街に連れていくわけにもいかないから、道具を揃えてすぐに戻る。ここにいろ」

 この場でできる手当てをするなりケントお兄さんは走って戻っていった。

「ありがとう、ケントお兄さん」

 姿を見えなくなってから藪の向こうへそっと声をかけてから、近くの樹皮を剥いだ。

 樹皮の裏に<ルシオラ>で文字を刻みつける。

 お礼の言葉と、お願いと、お詫び。それから機会があればアルソナ帝国のヘイネルに来てほしいとも書きつけた。お礼とお詫びの品を用意しておくから受け取ってほしいということだ。

 周りの下草を刈り取って踏み鳴らし、分かりやすいように樹皮を置く。風で飛ばされないように近くの大きめの石を重しにしておいた。

 それから女の子を背負って歩き出した。


 ▼


 見覚えのある景色に、胸が弾みそうだった。

 以前もそれとなく感じたけれど、キャンパスの中に描かれた風景にも思える。なだらかな丘陵地帯の中にぽつりと赤い屋根の小屋が建っているのだ。空は青くて、大地は鮮やかな緑で。凡庸だけれど、そんな風景が美しく感じる。

 そのささやかなお家に近づくほど、不安と期待とがせめぎ合った。

 まだ彼女はそこにいるだろうか。

 もしかしたらもう無人になっていて、再会は叶わないのではないか。

 背中の女の子の重みとは違う問題でずしりと足取りが重くなりかけたけれど、とにかく一歩ずつそのお家へと近づいていった。

 ウッドデッキを上がり、小屋の戸をノックする。

 不在だろうか。もしかして僕のことなんてとうに忘れてしまっているんじゃないだろうか。

 ドキドキして反応を待っていたら、中から物音が少しして、戸が開いた。

「……エル?」

「レティシア……ひ、久しぶり」

 綺麗だった。

 思い出フィルターがいつの間にか適用されていて、いつも頭の中に浮かぶ彼女の顔がめちゃくちゃ美化されているんじゃないかとか思わないでもなかったけど、その想像よりもずっと彼女は綺麗だった。

 あれから――2年くらいは経つのだろうか。

 レティシアは背が伸びて、体つきがやや大人っぽくなっていて、でもまだ少女という頃合いは抜けない年齢で、とにかく綺麗な女性ひとに成長をしていた。

「会いにきたよ、ってそれだけ言いたいところなんだけど、実はちょっと、迷惑かけちゃうお願いもあって……。この女の子ね、僕が前に脱走したところから、同じように逃げ出した子なんだけど、しばらく匿って、休ませてもらえないかな」


 ▼


 レティシアのお家にはベッドは1つしかない。

 そこにまだ名前も知らない、ぼろぼろの女の子を寝かせた。ケントお兄さんが塗ってくれた薬は拭き取らないように、全身の泥汚れなんかをレティシアと一緒に拭いてあげた。

 吸い口を使ってお水も飲ませて、時折、うなされることがあったから手を握って声をかけてあげる。

「何だか、ここを訪ねてくる人って……逃げちゃった奴隷の子ばかりになってる気がする」

「僕以外にも、あれから誰か来たの?」

「ううん、なかったけど……2人目。エルの時もね、こうしてあげてたよ」

「あの時はありがとうございました」

「どういたしまして。でも、またここでエルと会えるとは思ってなかった」

 嬉しそうにくすっと笑うレティシアを見ていると胸が熱くなって、僕まで何だか嬉しくなってきてしまう。前はただただ、可愛いって印象が先行していたけど今は綺麗というのがそこに加わっている。あと、お姉さんって感じが強まった。

「エルは元気そうになって良かったね。うん、前より顔とかふっくらしたし。何だか……目線はちょっと離れた感じだけど」

「あう……」

 やっぱり僕、ほとんど背が伸びてないだろうか。

 いやでも、成長期はきっとこれからのはずだし。

「アルソナにちゃんと行けたんだよね? 大丈夫だった?」

「うん。いっぱい、話したいことはあるんだ。国境近くの街でね、ギルっていうお兄さんと会ったんだ。あ、その前に占い師のおばあちゃんにも会ってね、何か変な占いされちゃって」

 レティシアと別れてからのことをたくさん話す。

 耳障りの良いところだけを抜粋して、触れざるをえない大変だったことはふわりとオブラートに包んだりして。

 そうしている間にすぐ時間は過ぎてしまった。

 薪割りを手伝って、一緒に食事を作って、レティシアと過ごす時間は本当にあっという間に過ぎてしまう。

 少なくとも生前は恋とか愛とか、概念的にふんわりとしか知らなかったけど、彼女と再会を果たしてみるととっくに大好きになっていたのだと思い知った。これが恋なんだろうかともちょっと思うけど、ギルや、商会の皆に対する好きという気持ちとはやっぱり一線を画する気がした。

 何というか、ずっと一緒にいたいと思う。

 どれほど他愛のない話だろうとも、延々とお喋りをしていたい。

 そんな気持ちを人は恋と呼ぶのだろうか。


 レティシアのお家に着いた翌朝になって、女の子が目を覚ました。レティシアのお家にあった傷薬を塗って清潔な包帯で巻き直して、消化の良さそうな食事を作った。体はだるいようだったから食べさせてあげる。頭もまだうまく回っていない様子で、食事を摂ってからまた休むように言うとすぐにまた寝ついた。

 順調に快方へ向かっている様子だけど、眠っていると時折、彼女はうなされていた。

 きっと辛い、大変な思いをしたんだろう。

 僕は奴隷になる前のことを何も覚えていないけれど、もしも家族と引き離されて奴隷になってしまったのだとしたら、その家族も恋しいだろうし、家族の喪失という悲しみもあるのだろう。

 可哀そうだとは思っても、それを口にすることだけはしないよう心がけている。哀れみなんていうものは伝えたところで意味はないと個人的に思っている。そんなものよりも、ただ、困っている人は助けたいだけだという気持ちが伝わればいい。情けは人のためならずというやつである。


 また目が覚めて、お水を飲んでもらって、食事も食べてもらうと、彼女も落ち着いた様子だった。

「僕はエル。彼女はレティシアと言って、前に僕が逃げた時に、今のきみと同じように介抱してくれた恩人なんだ。またお世話になっちゃうとは思ってなかったけど……」

「具合はどう?」

「うん……大丈夫、と思う……」

「名前はある?」

「リア……」

「リア。よくがんばったね。ご飯食べて、体力つけたらアルソナへ行こう。それでいいかい?」

「……うん」

 何というか、疲れていて反応が遅いのか、それとも感情が摩耗してしまっているのかという感じで少し心配な受け答えに思えてしまった。でも時間をかければきっと良くなると信じることにした。

「リア、アルソナはすごい国なんだよ。とっても商業が活発だし、奴隷というものがないんだ。国民には等級があるけど悪いことをせず、真面目に働けば普通の生活が保障されるからね。僕もきみと同じ元奴隷だけど、紆余曲折があって、爵位までもらっちゃったから一応は貴族だしね。奴隷から貴族だなんて夢があるでしょ? もっとも僕の場合は運が良かったというか、運命に弄ばれてるというか、面倒なことこの上ない事情が重なってのことだけど……。リアはどういうお仕事とかしてみたい? お店とかかな? 割と紹介してあげられるよ。飲み屋さんでも、小売店でも」

 たくさんリアに喋りかけて、できるだけ名前を呼んであげた。

 奴隷は名前で呼ばれない。だから、もう奴隷じゃないんだよと体感でも伝わるように彼女の名前を呼んだ。


 ▼


 リアが寝ついた夜、少し風でも浴びようかなと外へ出た。

 ウッドデッキに腰かけて夜空を眺めると明るい月が浮かんでいる。まだ笑顔を見せてはくれないけどリアはきっと良くなる。

 ほっとしつつも、ケントお兄さんやロニー先生、ヘルマンさんのことを考えるとちょっと罪悪感を抱く。きっと急いで荷物を持って駆けつけてくれたはずだけど僕もリアもそこにはいない。一方的なメッセージだけが取り残されて、どれだけ心配して怒っているか。申し訳ないけれど、巻き込みたくはなかった。

「エル、お外でどうしたの?」

「ちょっと夜風を」

 レティシアが出てきたかと思ったら、僕の隣へ腰を下ろした。そして夜空を眺める。

「星が綺麗だね」

「うん、お月様も綺麗だね」

「リアは良くなりそう。ほんとに良かったね」

「うん。命があっての物種とも言うし……。あとは、こんなことなら死んでいれば良かった、なんて悲しいことが起きないことを祈るしかないね」

「ちゃんとある程度までは面倒を見てあげるつもりなんでしょう?」

「微力を尽くすつもりだよ」

「それなら大丈夫。エルはしっかり者だからね」

「それもこれも、レティシアがあの日、助けてくれたからだよ。本当に感謝してるんだ」

 星空を見るレティシアの横顔はやっぱり綺麗だった。

 小麦色の長い髪や、きらきらと綺麗な翡翠色の瞳や、その佇まいまで。およそ欠点と呼ぶべきものを僕は彼女からは何一つとして見出せない。

「ん……? 顔、何かついてる?」

「あっ、う、ううん、何も」

 ふっとレティシアが僕の視線に気づいてなのか、目を向けてきて焦る。するとくすくすと笑われた。

「どうしたの?」

「な、何でもないよ。ただその……」

「うん?」

「……き、綺麗だなって、思って。レティシアが……」

 どうして何だかすごく恥ずかしい気持ちが生じてしまうのか。

 僕は人を貶すよりも褒めていたいタイプだし、美人のお姉さんを美人のお姉さんと呼ぶこともやぶさかではない。それなのにレティシアには何だか照れてしまう。不思議だ。

「照れてるのかな? あれれ? 顔が赤いぞ?」

「もうっ、別にそんな、深い意味とかそういうのがあるわけじゃないのに、茶化さないでよ……」

 完璧に面白がられてしまった。楽しそうにレティシアが笑う。

「エルってさ」

「うん……?」

「可愛いね」

「~っ……男子としては、あんまり嬉しくはないんだけども……」

「ふふ、そういう反応とかね。夜風もいいけど体が冷えちゃうから、ほどほどにね」

 そう言い残してレティシアはお家に戻って行ってしまった。

 これは、あれだね。知ってる、この感じ。いわゆる一方通行というやつだ。男として見られてはいない。好意的ではあるものの、というやつだ。

 流れ星でも降ってこないだろうか。

 そうしたらお星様にお願いでもしてみるのに。

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